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不条理における神のトーヴ

6. 第五瞑想  不条理における神のトーヴ

【聖書箇所】 詩篇73篇

はじめに

  • 詩篇73篇には「トーヴ」という語彙が2回使われています。一つは冒頭の1節の「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。」。もうひとつは最後の28節「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」 前者の1節の「いつくしみ深い」は、口語訳、新共同訳では「恵み深い」と訳されています。後者の28節の「しあわせなのです」は、口語訳では「良いことです」、新共同訳では「幸いとする」です。英語では前者も後者もいずれも、Goodです。God is good. It is good for me―より正しく言うならば、後者は、神の近くにいることが、私にとってしあわせだという告白です。
  • つまりこの詩篇は、神が良い方であること、神の近くにいることが自分にとってトーヴ(良い、しあわせなこと)であることを知ること。それがこの詩篇が言わんとする結論となっています。しかし、この結論に至ることは必ずしも容易ではなかったことが最初と終わりのトーヴの間にある中身によって知るのです。

1. 不条理による信仰の危機

  • 信仰の旅路は決して平坦ではありません。信仰の旅路にはいろいろな誘惑や崖ぶちに立たされるような危機を経験します。祈っても、神が遠くにいるように感じる神の不在を経験するかもしれません。神のために熱心に仕えてもあるとき虚しく感じられるようなときがあるかもしれません。あるいは、詩篇73篇に記されているような、この世の不条理―つまり、神を信じていなくても、外面的にはしあわせそうで、平安で、なんの心配もなく豊かに生活しているように見える、なんら苦しまずに生きている、そして自分にないものが多く与えられているーそのような現実を見て、神に疑惑を抱く経験をするかもしれません。しかし、このような経験は神を信じる者はだけであっても通らなければならないのです。
  • この詩篇を書いた「アサフ」という人物は、ダビデの時代、ダビデの幕屋での賛美礼拝におけるリーダの一人でした。ダビデの息子ソロモンの時代に建てられたソロモン神殿においてもトップの賛美リーダーでした。詩篇73~83篇まで「アサフの賛歌」、あるいは「アサフのマスキール(教訓という意味)」としてまとまっています。作者が実際にそのアサフ自身であったか、そのアサフの流れににある者であったかは確かではありませんが、きわめて霊的な事柄を扱うレビ人のひとりであったことは確かです。その証拠は26節の「神は・・わたしの分の土地(私の分け前、割り当て地) חֵלֶקです」と告白していることから明らかです。神を自分の相続地として、割り当て地としてもらったレビ人が、この詩篇73篇ではこの世の不条理のゆえに、つまり、神を信じない人々をねたみ、栄えるのを見て、獣のようになってしまったのです。2, 3節はそのことを告白しています。
  • 新改訳は「しかし私は」と訳しています。「ヴェ」という接続詞を「しかし」と訳しています。新共同訳はここを「それなのに私は」と訳します。「それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ、一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。」と続きます。その理由は、新改訳に戻って、3節に「それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者(神に逆らう者)の栄えるのを見たからである。」―これが作者を獣のようにした原因でした。
  • 10節の「豊かな水」とは、悪しき手段によって得た繁栄を意味します。しかも神の民たちさえも後者現実に引きこまれて、まともにその影響を受けていっている現実。そんな現実に対して、アサフは自分たちの信仰が虚しく感じられはじめたのです。
  • 日常の形としては、心をきよめ、手を洗って、自らきよいものであろうと努めているのですが、内実はむなしかったのです(13節)。15節では「もしも私が、『このままを述べよう。』と言ったなら、確かに私は、あなたの子らの世代の者を裏切ったことだろう。」とも述べています。
  • また、不条理という現実―神を信じないでも栄えて、うまくやっている現実をどう解釈したらよいのか、どう説明したらよいのか悩むのですが、考えれば考えるほど、思い巡らそうと思えば思うほど、彼にとっては苦しみを増すのでした。そして、21, 22節。「私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。」とあるように、正直に自分の心を告白しています。心のそのままを述べるなら、周囲の者や次の世代の者(子ども)たちもつまずくに違いないと思った事柄を、まさに心の思いを正直に告白しているのです。

2. 信仰の転機となった出来事―「神の聖所に入る」とは

  • 「愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようで」あったのは、17節にある前までです。つまり作者が「私は聖所に入るまで」はそうであったのです。しかし「神の聖所に入り、ついに彼らの最後を悟った」ときから、彼は全く変えられています。作者(アサフ)が「聖所に入った」ことで、信仰の転機を経験したと言えます。それはどのようなものであったのかは詳しくは説明されていませんが、はっきりしていることは、彼が「聖所に入った時、・・悟った」ということです。この悟りが与えられたこと自体が信仰の転機となり、彼が「心のきよい者」となったとは言えないでしょうか。
  • なにゆえに、1節で「心のきよい人」という表現を使っているのでしょうか。作者自ら自分のことを「心のきよい人」というのは不自然です。ここで使われているヘブル語の形容詞の「バル」בַּרには、残念ながら「ありのままの、正直な、まっすぐな」という意味はありません。この形容詞「バル」のもとになっている動詞は「バーラル」בָּרַרです。その動詞の意味は「きよめる、選ぶ、試験する」という意味です。「反逆的な部分を一掃するという意味でのきよめる、選り抜かれる、確かめるために試みられる」という意味合いの動詞です。つまり「心の清い人」とは、はじめからそうなのではなく、神を信じる者にふさわしくない部分を一掃されることで、選り抜かれ、試みられた者という意味合いが込められているのかもしれません。そのように受け止めるなら、1節の「心のきよい人に、神はいつくしみ深い」という表現は無理がなくなります。そうしたことが成り立つような経験を作者が「神の聖所において」したからです。

(1) シャハイナ・グローリー

  • ユダヤ人のラビは一般の栄光と区別して、神の特別な栄光の現われを「シャハイナ・グローリー」と呼びました。「シェキナー」とも言われます。シャーハン(神が住む、神が宿る)というヘブル語の動詞に由来します。「シャハイナ・グローリー」とは、神の臨在に伴う目に見える栄光のしるし、天からの光、人となった神のことばであるイエス・キリスト、これも「シャハイナ・グローリー」です。
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    ① モーセの見た燃え尽きない柴


    ② 幕屋に臨在した雲と火の柱

    ③ ソロモン神殿の献堂のときに主の宮に満ちた栄光の雲(暗やみ)

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    ④ イエスの本来の栄光の姿を垣間見せた変貌

    ⑤ パウロの回心をもたらした天からのまばゆい光

    ⑥ 小羊の光によって照らされる天にある新しい都エルサレム(ヘブル語では「イェルーシャーライム」)

  • 神の聖所は単なる建物を意味するのではなく、本来、神と人とが出会う場所です。神と人との出会いは必ずしも神の聖所でというわけではありません。歴史の中ではいろいろな場所で人が神と出会うとき、シャハイナ・グローリーが、時には火を伴い、天からの光を伴い、あるいは濃い雲(これは暗闇を意味する)の中で、神はご自身を現わし、神のみこころを伝えます。それにふれた人は生き方や使命が大きく変えられてしまうのです。物事の見方や考え方、視点が完全に変えられます。これを「パラダイム・シフト」ともいいます。
  • まばゆいばかりの天からの光を見たパウロは、その光の中でイエスの声を聞きたのち、彼の目からうろこのようなものが落ちて、それまで見えなかったものが見えるようになりました。つまり、それまで否定していた「イエスがメシアである」ことを悟るようになったのです。論証するまでになったのです。その変化は彼の目がまだ開かれない暗闇の中に光が差し込んだ結果です。これが「シェキナー」、あるいは「シャハイナ・クローリー」と言われるものです。この経験なしに、だれひとりとして信仰の危機を乗り越えることはできません。なんらかのその人なりの「シャハイナ・グローリー」経験が必要なのです。パウロが天からの光を受けたように、私たちも天からの光が必要なのです。ですから「光、あれ」、「暗闇を照らす光、あれ」なのです。
  • 詩篇73篇の作者も「神の聖所に入ったときに」同じような経験をしたのだと言えます。そのあとの信仰の勝利、信仰の確信をみてみましょう(21~28節)。特に、23~26節の告白はすばらしいものがあります。ここをLB訳で読んでみます。

    23 しかし、神様はこんな私をも愛してくださり、右手をしっかりつかんでいてくださっています。
    24 生涯を通して、神様は知恵と助言を与えて私を導いてくださることでしょう。そしてついに、私は栄光の天へと招かれるのです。
    25 天でも、あなた以外に私の神様はなく、地上でも、慕わしいお方はあなた一人です。
    26 やがて私の体は衰え、気分も沈みがちになっていくことでしょう。しかし神様は、いつまでもお変わりになりません。心の支えとなってくださいます。永久に私の神様でいてくださいます。

(2) 「私にとって良いことは、神の近くにいること」の真意

  • 最後である28節にはこうあります(新改訳)。
    「しかし私にとっては、神の近くにいることが、幸せなのです。」
    たとえ他の人がどのように生きたとしても、私にとって良いことは、神の近くにいることなのだ、私は神の近くにあることを幸いとし、主なる神に避け所を置くのだ、と結論づけています。
  • これは作者が、不条理という暗闇の中で悟ったことです。霊的な暗闇の中に神はおられるのです。「シャハイナ・グローリー」の歌の歌詞に、「賛美に輝く主の臨在、栄光の雲が満ち溢れる」とあります。これは第二列王記8章に記されているソロモン神殿の奉献の時の光景です。神殿の中に契約の箱を運び入れたあとで、雲が主の宮に満ちて、祭司たちは、その雲にさえぎられてそこに立って仕えることができなかったとあります。主の栄光が宮に満ちたからです。主の宮が雲で満ちたということは主の宮の中が真っ暗になったことを意味します。そのとき、ソロモンがこう言ったのです。「『主は、暗やみの中に住む』と仰せられた。」と(1列王記8:12)
  • 詩篇18篇11節には次のように記されています。

    主はやみを隠れ家として、回りに置かれた。
    その仮庵は雨雲の暗やみ、濃い雲。

  • 神はどこにおられますか? という質問に対して、ソロモンのように「主は、暗やみの中におられます」と答えましょう。神は光の中にではなく、暗闇の中に住まれるのです。詩篇の作者は不条理という答えのない暗闇の中に置かれました。私たちもそのような経験に置かれることがあるかもしれません。しかしそのときにこそ、人は神に近くあるのです。やみの中に立たされた時、はじめて人はその暗闇の中で神の声を聞き、あるいは、闇の中に一条の神の光を見るのです。28節のみことばの真意はー「私にとって良いことは、私にとって幸いなことは、闇の中でこそ、私は神の近くにいるということを悟った。」ということなのです。そしてこのことを悟った人のことを、詩篇73篇では「心のきよい人」と言っているのです。

2012.4.15


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