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上着の裾を切り取ったことで「心を痛めた」ダビデ

21. サウルの上着の裾を切り取ったことで「心を痛めた」ダビデ

【聖書箇所】24章1節~23節

はじめに

  • 聖書をどのように読み、そしてどのように解釈するかは、その人が神の人として形作られていく上で非常に重要なことです。やがてイスラエルのふさわしい王として神の訓練を受けているダビデ。そのダビデが26章でどのような訓練を神から受けているのか、そこに焦点を合わせてみたいと思います。

1. 柔和さという訓練

  • ここでいう「柔和さ」とは、自分が有利な立場に立った時に、相手に対して、一切、仕返しをしたり、報復したりしないという態度です。これは消極的表現ですが、積極的な意味では一切を主にゆだねる態度を取るという心の構えです。果たしてダビデはその訓練をクリアーできたでしょうか。答えは、クリアーできたようでもあり、そうできなかったようでもあります。
  • クリアーできたという点は、サウルがダビデの手に落ちたように思えたとき、ダビデはサウルに自ら手を下さなかったというところです。ダビデの部下たちは、ダビデを通して、「見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの思うようにせよ。」という主のことばを聞いていたのかも知れません。ですから、部下たちのまさにこれが「その時」ですと進言されたときに、ダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそをこっそりと切り取ったとあります。なぜなら、部下たちはサウルをダビデの敵と考えていたからです。そしてダビデは部下たちに対して、「主に油注がれた者に対して、自分から手を下すことなどできない」と説き伏せて、彼らがサウルに襲いかかるのを許しませんでした。なんとすばらしい心の制御でしゅう。
  • しかしその直後、「ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた」とあります(24:5)。ダビデが「心を痛めた」という表現に注目したいと思います。原文の直訳は「ダビデの心を攻撃させた」です。「打った」というヘブル語動詞は「ナーハー」נָכָהです。ここでは「打つ」の使役形能動態です。ですから、「心を攻撃させた」という意味合いを

    【新改訳、岩波訳】「心を痛めた」
    【新共同訳】「後悔した」
    【関根訳】「良心の呵責を覚えた」
    【フランシスコ会訳】「心に痛みを覚えた」
    【口語訳】「心の責めを感じた」
    【バルバロ訳】「心がとがめた」
    【リビングバイブル】「良心は痛みだした」

などと訳されています。「上着のすそをわずかに切り取った」ことについての、ダビデのこのきわめて繊細な霊的感覚、これこそがダビデを特徴づける霊性と言えます。

  • このことが、後に、ダビデが年を重ねて老人になったときに、「夜着をいくら着せても暖まらなかった」(Ⅰ 列王記1:1)ということにつながっていると解釈する人もいて面白いです。
  • サウルからしてみれば、ダビデがした行為は自分にはない賞賛すべきことでした。ですから、サウルは良心の呵責を覚えてダビデに対して次のように述べています。

    (1)「あなたは私より正しい。」
    (2)「あなたは私に良くしてくれたののに、私はあなたに悪いことをした。」
    (3)「主が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかった。」
    (4)「私は確かに知った。あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエルの王国が確立することを。」

  • そのようにサウル王はダビデを賞賛して、自分の家とその子孫を断つことなく、また自分の名を父の家から根絶やしにしないことを誓つてほしいと懇願します。ダビデもそれに対して誓ったのでした(24:22)。
  • 事実、ダビデはその誓いを守り、サウルの子孫を皆殺ししませんでした。このようにして一件落着と思いきや、26章では再び、サウルはダビデを殺そうとするのです。
  • ダビデの柔和さの訓練として、自分の手に渡された油注がれた王サウルに対して、自分から手をかける思いを制して対処したことは、サウルが賞賛するまでもなくすばらしいことでした。しかし、ダビデ本人においてはそうではなかったようです。サウルの上着の裾を少し切り取ったということだけでも、心がとがめたのです。

2. 反面教師としてサウルから学ぶこと

  • 26章ではサウルがとても素直にダビデの取った態度を評価し、賞賛しています。そして自分に非がある事を認めています。それにもかかわらず、26章では再度、人々からの情報によってダビデを追跡しています。このことから私たちは何を学び取ることができるでしょうか。
  • 余談ですが、使徒パウロの名前は主イエスと出会ってから、異邦人伝道をするわうになってからのギリシャ名です。彼の生まれながらの名前は「サウル」で、サウル王と全く同じ名前で、しかも同じベニヤミン族の出身です。ちなみに、この流れにいる者としては、ユダヤ人を絶滅から救ったエステルの叔父モルデカイ(モルデハイ)も同じ出身です。
  • 使徒パウロがローマ書7章、あるいはガラテヤ5章で、「肉と霊」の葛藤について語っています。キリストを信じる者となっても、「肉」はなくなりません。「肉」は常に自己中心的な傾向を持つ衝動で、私たちを時には喜ばせます。しかし。肉は神のみこころに従うことが出来ないために、神の霊を与えられた者には葛藤が生じるのです。サウル王を見るとき、この葛藤を見ることが出来ます。私たちと同じ姿です。肉に従って妬みの思いに支配されるサウルと、良心によって肉の思いから一時解放されるときがあります。しかしまた肉の思いに支配されるという悪循環です。
  • 使徒パウロもこの肉と霊との葛藤に悩まされた一人でした。そして彼は「私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫び、同時に、主に感謝しています。その感謝の根拠は、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理によるものです。賜物としての御霊が自分を解放することを知り、そして経験したからです。

「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にあるものは神を喜ばせることはできません。」
(ローマ8:6~8)

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14)

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」
(ガラテヤ5:22)

「もし私たちが御霊によって生きるなら、御霊に導かれて進もうではありませんか。」
(同上、5:25)


2012.6.29


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