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万軍の主はすべての頼りと支えを取り除かれる

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3. 万軍の主はすべての頼りと支えを取り除かれる

【聖書箇所】3章1節~4章6節

ベレーシート

  • 旧約の預言は第一義的には神の民イスラエルに対して語られていることを念頭に置く必要があります。個人的な預言ではないのです。特に、イザヤ書の場合、「ユダとエルサレム」(1:1/2:1)、あるいは順序が変わりますが「エルサレムとユダ」について語られている預言です。その預言は、明確に「終わりの日」に実現されるメシア王国(千年王国)のことが語られているかと思えば、「その日」「万軍の主の日」ということばで「バビロン捕囚」という神の審判、および「キリスト再臨」の前の大患難という神のさばきの出来事も語られており、それらが同時に重層的に語られています。そのあたりの知識がなければ、旧約の預言を正しく理解していくことができないことを最近、いよいよ強く意識させられます。
  • 2章と3章は内容的につながっています。2章2~4節のメシア王国の預言が実現する前に、神はユダとエルサレムを「捨てられた」(2:6)ということが起こり、エルサレムとユダから「ささえとたよりを除かれる」(3:1)ということが起こります。その一部はすでにバビロン捕囚によって実現していますが、まだ実現されていないこともあります。それはキリスト(=メシア)の再臨の前に実現する内容を含んでいます。それらが完全に実現されたとき、「主おひとりだけが高められる」(2:11, 17)ということが成就するのです。
  • 主は「さばかれる」方です。ご自身の民のみならず、民の長老たちやつかさたちに対してもです。イザヤ書で唯一「さばく」を意味する「ディーン」(דִּין)が13節に使われています。

1. ささえとたよりを除かれる万軍の主

  • 3章1節には、正しくさばかれる方、万軍の主が「エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる」という預言が語られています。「取り除かれる」と訳されたことばは「スール」(סוּר)で、この動詞の基本的な意味は「他の方へ行く」とか「わきへそれる」「離れる」ですが、ここではヒフィル態(使役)で「取り除く」「除き去る」という意味として、1節と23節に二回も使われています(ただし23節の「スール」は、原文では18節に置かれています)。その「除かれる」日がいつかと言えば、「その日」(2:11, 17, 20/3:18)であり、「万軍の主の日」(2:12)なのです。
  • 3章には、以下のように、主が「取り除かれる」ものとして二つのことが挙げられています。

(1) すべてのささえとたより

  • 3章1節では生きるのに欠かせない「必需品」を含めたすべての「支え」(サポート)が取り除かれます。脚注1
    その内容が1~7節に記されています。そこには、飢饉と指導者たちが殺されるために無政府状態になることが預言されています。これはバビロン捕囚の前の状況とも言えますし、獣と呼ばれる反キリストによる患難時代のイスラエルの状況を示しているとも言えます。
  • ちなみに、そうした状況のなかにも、主に従う者たちはいるのです。10節には「義人は幸いだと言え。彼らは、その行いの実を食べる」とありますが、ヨハネの黙示録を見ると、特別に神によって反キリストの支配から守られる14万4千人の人たち(黙示録7:1~8)、および異邦人の殉教者たちがいるのです(同7:9~17)。

(2) すべての贅沢品

  • 3章18~23節ではすべての「贅沢品」が「除かれる」とあります。「終わりの日」に、反キリストと契約を結んだユダヤ人はなんらかの形で、膨大な経済的l利益を手にすると考えられます。そのために「シオンの娘たちは高ぶる」(イザヤ3:16)ようになるのです。主はそうした原因となるものを「除かれる」のです。
  • ヨハネの黙示録18章には、反キリストによって統治される巨大な経済システムである「大バビロン」が倒れることが御使いによって宣告されています。地上の王たちは「大バビロン」と不品行を行い、地上の商人たちもその機構の中で極度の贅沢な富を得たことが記されています(黙示録18:3)。新改訳では「彼女の極度の好色」と訳されていますが、「極度の」は「力、勢い」を意味する「デュナミス」(δύναμις)、そして「好色」と訳された原語は「ストレーノス」(στρήνος)(新約聖書ではこの箇所にしか使われていない語彙ですが、動詞は18:7, 9に分詞として使われています)です。つまり、反キリストと手を結んだ者たちがその巨大経済システムの中で、「これ以上ないという贅沢、浪費」を手にするのです。そして、主がどのようにしてそれを「除かれる」のかと言えば、それは「一日のうちに」(黙示録18:8)、いや「一瞬のうちに」(同18:17, 19)、火で焼き尽くされます(これは滅びの比喩的表現)。黙示録18章17~20節を参照のこと。

2. その日、主の若枝は、栄光に輝く(4:1~6)

(1) 4章1節の位置について

  • コンテキストを考えるならば、4章1節は3章16節以降で語られる内容の最後の節になります。関根訳、中澤洽樹訳ではそのような配置にされています。しかし、4章1節が4章の中に組み入れられているのは、1節の「ひとりの男」の存在と、2節に登場する「主の若枝」(単数)が重層的な意味合いをもっているからではないかと考えます。
  • 1節の訳もその内容は翻訳された聖書によって異なります。「ひとりの男(「イーシュ・エハード」אִישׁ אֶחָד)にすがりつく」ことにおいてはみな同じです。その「ひとりの男」が「その日」、つまり「終わりの日」に登場するメシアを意味する「若枝」と重なっているように思われます。
  • 「若枝」と訳された名詞「ツェマハ」(צֶמַח)は、旧約で12回使われていますが、「芽」「生長」「若枝」を意味します。イザヤ書(4:2/61:11)、エレミヤ書(23:5/33:15、ここでは「ダビデの若枝」)、ゼカリヤ書(3:8/6:12、ここでは「芽」と訳されます)には「若枝」として使われています。すべて、メシアの称号です。脚注2

(2) 主の若枝が麗しく栄光に輝くその日に起こる事

①「イスラエルののがれた者」の美しき誇りの実があかしされる
この「主の若枝」の到来こそ「イスラエルののがれた者の威光と飾りになる」のです。「イスラエルののがれた者」(集合名詞としての単数=2017では「イスラエルの逃れの者」)とは、反キリストによる迫害と滅びを逃れた者たち、つまり、救われた「残りの者たち」のことです。ちなみに、ヨハネの黙示録の7章には神によって特別に守られる十四万四千人のイスラエルの人々がいます。彼らは御使いたちによって額に印を押された者たちです。彼らは殺されることなく、キリストの再臨後の千年王国に入ります。それらの者たちこそ、イザヤ4章3節に預言されている「シオンに残された者、エルサレムに残った者」のことだと考えられます。彼らは、その日、「聖と呼ばれるようになる」者たちであり、「いのちの書にしるされた者」たちなのです。

② 主の霊によってシオンの娘の汚れがきよめられる
「さばきの霊と焼き尽くす霊」とは、神の審判をもたらす霊と言えます。反キリストによって一時支配されたエルサレムが、再び、神の都としてきよめられるのです。「シオンの娘」とはエルサレムの別称です。

③ 主の臨在によってシオンが覆われる
シオンに主の臨在が回復されます。その時、主の臨在の象徴である「雲の柱と火の柱」の輝きが「創造され」(「バーラー」בָּרָא)、それはすべての栄光の上に「おおい」となります。「おおい」(「フッパー」חֻפָּה)は、ユダヤでは結婚式の時に用いられます。つまりメシア王国では神とイスラエルの夫婦としての回復を意味しているのです。「教会」の場合はすでに携挙によって「小羊との婚姻(婚礼)」がなされています。これは神の永遠のヴィジョンであり、神にしかできない創造的なみわざなのです。




脚注1
イザヤ書3章1節には、「支え」を意味する三つの同類語が重ねられて使われています。

【新改訳改訂第3版】
まことに、見よ、万軍の【主】、主は、エルサレムとユダから、ささえ(1)とたより(2)を除かれる。──すべて頼み(3)のパン、すべて頼み(3)の水、


(1) 「マシュエーン」מַשְׁעֵן・・男性名詞
(2) 「マシュエーナー」מַשְׁעֵנָה・・女性名詞
(3) 「ミシュアーン」מִשְׁעָן ・・男性名詞

●これらはいずれも名詞ですが、動詞の「シャーアン」(שָׁעַן)から派生した語彙で「寄りかかる」「拠り頼む」「もたれる」を意味します。三つの名詞によって人間の拠り頼む一切が表現されています。天の御国(メシア王国、千年王国)ではそうした人間的な支えである(1)~(3)が取り除かれることで、「主おひとりだけが高められ」、「主こそ私のすべての支え」となる世界、これが聖書の意味する「天の御国」(メシア王国)なのです。


●1節を七十人訳ギリシア語聖書では以下のように訳しています(訳=秦剛平氏)
「見よ、万軍の主はである君主は、ユダヤから、そしてエルサレムから、力のある男と力ある女を、人びとの力となるパンと水を・・を取り除かれる。」


脚注2
「若枝」と訳されるヘブル語に「ネーツェル」があります。イザヤ11:1/14:19/60:21等は「ネーツェル」(נֵצֶר)が使われており、「ダビデの血筋」を意味するメシアの称号です。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書11章1節
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」


2014.7.22, 23


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