****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

一方的な好意(厚意)としての愛

7. 一方的な好意(厚意)としての愛 חֵן

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はじめに

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  • これまで「愛」についてのキーワードを取り上げてきました。右の図を参照。
  • 最初は「ヘセドחֶסֶדについて取り上げました。この語彙は「契約における愛」を意味します。この愛は一方的ではなく、双務的です。相手に対してなんらかの責任を伴った愛です。結婚がよい例です。一方がベナルティを犯せば、その愛の関係はそこで終わることもあり得ます。しかし神の契約の愛である「ヘセド」は、人間が神の愛を裏切ったとしても、そう簡単には終わらせません。どこまでも神の側の愛は変わらない「不変的な愛」constant loveをもって、「確かな愛」steadfast loveをもって、決して「裏切られることのない信頼すべき愛」unfailing loveをもってかかわり続けます。
  • そして、そうした「契約の愛」を根底から支えているのが「選びの愛」を意味する「アハヴァーאַהֲבָהでした。「アハヴァー」はいずれの聖書も「愛」と訳しています。これがギリシャ語に訳されると、「アガペー」となります。契約の愛を意味する「ヘセド」が双方的であるのに対して、選びの愛を意味する「アハヴァー」は一方的です。神がイスラエルの民を見捨てないのはこの選びの愛が根幹にあるからです。「アハヴァー」は一方的な愛です。人が神に対してこの言葉を用いるときには、きわめて主体的な自立した信仰を表わす語彙となります。つまり、神を選ぶという愛は、神に愛されて神を愛するという信仰的・主体的決断に基づく服従の選択意志を意味します。

1. 旧約の愛についてのもう一つの語彙「ヘーン」ついて

  • さて、ここでは愛についてのもうひとつのへブル語に注目したいと思います。それは「ヘーン」חֵןということばです。

(1) ノアに向けられた「へーン」

  • 聖書で最初に登場するのは、創世記6章で主は、地上に人の悪が増大して、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になりました。主はそれをご覧になって、地上に人間を造ったことを悔やみ、心を痛められました。そして主は、すべてのものを地上から消し去って、もう一度新しくしようと思われたのです。そのとき、神はひとりの人物に目を留められました。その人物とは「ノア」です。6:8に「ノアは、主の心にかなっていた」と訳されています。原文では「ノアは主の目に恵みを見出した。特別な好意を見出した」とあります。それを「主の心にかなっていた」と新改訳は訳しています。ノアがそうした時代の中にあっても、完全なマイノリティー(少数派も少数派―家族のみ)の世界であっても、彼は時代の流れに流されることなく、自ら、主体的に、自発的に「神とともに歩んだ人」でした。こうした生き方だけでも「慰め」を意味する「ノア」の存在が光ります。そのノアに対して、主は特別に目をかけられて、特別にひいきされて地上での新しい出発のために用いられたのです。この神の態度が今回のキーワードである「ヘーン」なのです。
  • 日本でのあいさつ用語に「宜しくお願します」というのがあります。この「宜しく」ということばの意味について考えてみたことがありますか。いつでも使われていますので、ほとんど意味をもたないことばかもしれません。選挙のときも「何卒、何卒、・・を宜しくお願い致します。」というフレーズを聞きます。「最後の最後まで・・を宜しく、宜しくお願い致します。」の連呼です。この「宜しく」ということばの意味―それは相手が自分に良くしてくれることを、好意をもって計らってくれることを求めることばです。つまり、好意というものは本来相手の一存に任せられているものですが、その相手の好意を幾分かでも得ようとして、それを自分の方に向けてくれることを期待してお願いすることばーそれが「宜しくお願いします。」ということではないかと思います。
  • 実は、へブル語の「ヘーン」もそうした意味をもつ言葉です。相手の好意を得ようする場合、もしお気に召したらどうか・・これこれのことをしてください。」という言い方になります。「お気に召したら」の「お気に召す」、これは人と人とのかかわりにおいても使われますが、それを神が人に対して「お気に召す」場合、意味のある「ヘーン」ということになるのです。神のお気に入り、神の特別な好意にあずかること、神に寵愛されること、神にひいきされることに使われる愛のことばーそれが「ヘーン」という名詞で、LXX訳はこれを「カリス」(χάρις)と訳しています。

(2) モアブ人の娘ルツに向けられた「ヘーン」

  • へブル語の「ヘーン」が使われている聖書の箇所を他にも見てみましょう。まずは、人が人に対して「ヘーン」が用いられている例として、モアブの未亡人ルツに対するボアズの「ヘーン」があります。ルツ記の2章に3回出てきます(2, 10, 13節)。
  • そこではルツが姑のナオミと一緒にイスラエルのベツレヘム(やがてダビデが生まれる地です)に帰ってきてからの出来事が記されています。帰って来ても生きていくことは大変なことです。その頃の生活の道は「落穂拾い」しかありませんでした。ルツはナオミに畑に行かせてくださいと頼みます。「私に親切(favor)にしてくださる方のあとについて落穂を拾いたいのです。」するとナオミは「そう、すまないね。そうしてくれるかい。」と言って送り出します。ルツは出かけていますが、彼女の行った畑はなんと「はからずも」彼女たちの権利を回復してくれる権利を持っているボアズという人の畑だったのです。ところが、ボアズはこのルツに関心を抱きます。「あれはだれの娘か」と。彼女はその畑の持ち主のことを知らずに「落ち葉を拾い集めさせてください」とお願いします。するとボアズはこう言うのです。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち葉を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。」と言います。そんなボアズにルツは「私が外国人であるのを知りながら、どうしてそんなに親切(favor)にしてくださるのですか。」と尋ねます。そして、ルツは祝福のことばをかけてくれたボアズに対して続けてこう言ったのです。「ご主人さま。私はあなたの好意(favor)にあずかりとうございます。あなたの使用人でもないのに、こんなにも親切にしていただいて・・」
  • この2章に「親切」ということばが3回使われています。一方的な親切、「よそ者である私にどうしてこんな親切にしてくださるのですか。あなたの使用人でもないのに、こんな親切にしてくださるとは・・・」とルツがボアズの親切に与っているのです。実に一方的です。これが「ヘーン」の愛なのです。Lxx訳では「ヘーン」を「カリス」(χάρις)と訳しています。

(3) ヨナタンの息子メフィボシェテに現わされた神の「ヘーン」

  • ノアの場合も、ルツの場合もそれぞれ、前者は神からの「ヘーン」でしたが、メフィボシェテの場合はダビデからの好意でした。その好意はダビデとヨナタンが結んだ「ヘセド」から流れてきたものでした。この箇所は昨日の瞑想箇所でもあり、それぞれ分かち合いましたが、ここでは「ヘーン」という愛を表わす言葉こそ出てきませんが、「ヘーン」という思想を良く表している出来事だと思います。これほどに「ヘーン」の意味合いを表わしている記事は他に見られないほどです。
  • ここで、私がメフィボシェテの例を出したのは、他の例とは少し異なる「ヘーン」の意味合いを持っているからです。Ⅱサムエル7章で、ダビデが主のために家を建てたいと思ったときに、はからずも、「主は、あなたのために一つの家を造る」とあまりにも想定外な、破格の恵みの約束を聞いたときに、ダビデは「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。神、主よ。この私はあなたの目には取るに足りない者でしたのに、・・・・」と答えています。
  • Ⅱサムエル9章では、神の恵みを受けたダビデが自分の過去を静かに思い返したとき、あることを思い起こしました。そしてダビデは「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したいと。」と思ったのです。そして、ヨナタンの息子メフィボシェテがいることがわかりました。「恵みを施したい」というダビデの思いが実際に実現したことがしるされているのです。実に、感動的な章といえます。

①「恵みを施したい」と願ったダビデ

  • 9章には「恵みを施したい」というフレーズが3回出てきます(1 ,3, 7節)。岩波訳、フランシスコ会訳は「真実を尽くしたい」と訳し、新共同訳では「忠実を尽くしたい」と訳しています。NKJV訳ではkindnessと訳しています。「恵み、真実、忠実、kindness」と訳されている原語は「ヘセド」です。契約を結んだ相手に対してどこまでも責任をもって、真実、誠実を尽くすことを意味します。ダビデはヨナタンと交わした契約のゆえに、その息子メフィボシェテに対して「恵みを施した」のです。
  • 具体的には、彼を自分の息子の一人として受け入れ、毎日、ダビデの食卓に招かれて食事をするということと、サウル家の不動産が与えられ、そこから得られる一切のものを自分の所有とすることができるという恵みであり、あわれみでした。

② メフィボシェテの反応

  • ダビデの申し出に対して、メフィボシェテはかつてダビデが主に対して語った同じことばをダビデにいいます。「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」(8節)と。「死んだような犬」とは「非常に無価値な存在」という意味です。ダビデはあくまでもヨナタンとの約束のゆえに真実を尽くしただけですが、メフィボシェテからしてみれば、無価値な者に対する一方的な好意というほかありません。「何者だというので、私を顧みてくださるのですか。」という表現は、ダビデもメフィボシェテも共に使っていますが、この表現は「なぜ、それほどまでにこの私に良くしてくださるのですか。親切にしてくださるのですか。」という意味です。これは一方的な神の好意を正しく受けとめた者のことばと言えます。第三者的な立場から見るなら、メフィボシェテに与えられたこの恵みは(大阪弁でいうなら)「めちゃ、うらやましいわ!!」ということになることでしょう。


2. ギリシャ語の「カリス」に翻訳された「ヘーン」

  • さて、この一方的な好意を旧約聖書のへブル語では「ヘーン」ギリシャ語では「カリス」χαριςということばで表わします。ギリシャ語の「カリス」は新約では155回。その半数がパウロによるものです。パウロは「カリス」ということばを用いて、福音を説明しました。マタイ、マルコ、Ⅰヨハネ、Ⅲヨハネには使われていません。訳語としては、「恵み」「好意」「恩」「贈物」「献金」など多数あります。「カリス」動詞形は「カリゾマイ」で23回で、「恵みを受ける」という意味です。LXX訳では、へブル語の「ヘーン」や「ヘセド」の訳語として、「カリス」が当てられています。新キリスト教辞典では、「カリス」を次のように解説しています。「イエス・キリストの受肉から十字架と復活によって具現された救いに関する神のわざを総括し、そのわざによって示された神の人間に対する好意的な態度」
  • 使徒パウロが使った「カリス」の意味は、受けるに値しない罪人に注がれた神の愛、価値なき者に与えられる神の愛顧です。英語でいうなら「グレース」graceです。
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  • しかし、ルカが使っている「カリス」は少し異なります。それは、神や人から愛されること、好意をもたれることを意味します。神様の最高のお気に入り、その意味で「恵まれた者」と言えるのです。特に、ルカはその意味で「カリス」ということばを使っています。英語では「フェイヴァー」favor―好意、特別な好意、親切、愛顧、寵愛、ひいきする、気に入れられる、かわいがられる、目をかけられるーといった意味。
  • 新約聖書で最初に登場する「カリス」ということばはルカの1:30です。マタイ、マルコには「カリス」ということばは使われていません。

(1) ルカ1:30 マリヤに対して
「御使いは、入って来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方』、主があなたとともにおられます。」(1:28)ということばを聞いたマリヤはひどく驚きます。しかしそのあと、御使いはこう言います。「こわがることはない。あなたは神から恵み(χάρις)を受けたのです。」と。ここは正確には、「マリヤ。あなたは神の御前で恵みを見つけたからです。」と記されています。ここでの「恵み」と訳された「カリス」は、神からの一方的な好意という意味で使われているといってよいと思います。「恵まれた方」というのは最高度の好意(you who are highly favored!)-「めちゃ、うらやましい方」 favorです。

(2) ルカ2:40/52 イエスに対して
「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵み(χάρις)がその上にあった。」(2:40)
「イエスはますます知恵が進み、背丈も大きくなり、神と人とに愛(χάρις)された」(2:52)-ここでは口語訳、新改訳、新共同訳もみな「愛された」と訳しているが、原語は「神と人の前で恵みにおいてもそうであった」という意味なのですが・・。love

(3) 使徒2:47 イエスの弟子たち
毎日、心をひとつにして宮に集まり、喜びと真心をもつて食事を共にし、「神を賛美し、すべての民に好意(χάρις)をもたられた。」(2:47) favorとあります。

(4) 使徒7:46 ダビデ
ステパノの説教の中で「ダビデは神の前に恵み(χάρις)をいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。」 favor


まとめ

  • 今回はへブル語の「ヘーン」、そしてそれがギリシャ語に訳された「カリス」ということばについて見てきました。神の人に対する一方的な好意の表れの思想は、新約に入ると、使徒パウロにおいては福音を説明する重要な思想となります。救われるに値しない者に与えられる神のご好意、それが「福音」であり、その「福音」によって私たちは救われるのです。私たちに対する神の好意は今もキリストにあって注がれているのです。ですから、神様が自分に良くしてくれることを、好意をもって計らってくれるように、これから、大胆に、迷うことなく、遠慮することなく、「神様。宜しくお願いします」と言ってよいのです。これが福音なのですから。そして最も大切なことは、使徒パウロのように、自分に与えられた福音の恵みを決して無駄にすることがないような生き方をしようと決心しなけばならないのではないでしょうか。

2012.7.22


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