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ライフスタイルとしての

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A-02. ライフスタイルとしてのWorship & Intercession

はじめに

  • Worship と Intercessionは、決して別々のことではなく、むしろ、本来一つのライフスタイルである。この二つは、主イエスが最も大切な戒めとして教えた十戒を総括するものである。イエスは十戒を二つの戒めとしてまとめ、一つは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」であり、もう一つは「あなた隣人をあなた自身のように愛しなさい」(マタイ22章36~40節)と教えられた。つまり、心から主を愛すること(礼拝)と、自分を愛すること、そして隣人を愛すること(とりなしの祈り、とりなしのわざ)は一つであるということである。このように、神との交わりと人との交わりは密接につながっており、不可分の関係にある。
  • ヨハネの福音書4章23節をみるなら、神は、いつの時代でも、どこにおいても、「霊とまことをもって礼拝する者を求めておられる」ということである。礼拝するとは、主を知ることであり、主を愛すること、主に従い、主に対して生きることである。主をあがめること、主の家に住み、主のふところにくつろぎ、主との親しい交わりを楽しむことである。

(1) 主を知ることを求める生き方としてのWorshipへの招き

  • 真の礼拝者として招かれた者は、旧約を代表するダビデにしても、また新約を代表するパウロにしても、ただ一つのことに集中している。

① ダビデ

  • 詩篇27篇4節「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」 「一つのこと」という意味は、最も大切なこと、最も優先されるべきこと、それを得るならば、他のすべてのことが正しい位置を占め、機能していく。そんな位置を占めることがらがあることをダビデは知っていた。それがあるならば、すべてのものが見えてくるような、的を得るような視点、あるいは鍵となるものである。ダビデはそれを求めた。そしてそのために祈った。ここに彼の偉大さがあった。
  • 詩篇86篇11節では「主よ。あなたの道を教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。」と祈っている。

② パウロ

  • ガラテヤ2章20節「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
  • ピリピ3章8節、12~14節「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はこのキリストのためにすべてのものを捨てて、それらのものをちりあくたと思っています。・・・私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。(それは、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったからです。兄弟たちよ、私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいてうえに召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して(キリストを知るという目標)一心に走っているのです。
  • このような生き方を、シンプルライフと称することができる。シンプルライフとは、「(もはや私が生きているのではなく)、キリストが私のうちに生きておられる」というただひとつのあり方を生きることである。この表現の中に、キリスト者の経験の全体が総括されている。キリストからのいのち、キリストとともにあるいのち、キリストのうちにあるいのち、キリストのためのいのちすべてが、この一言で包括的に言い表わされている。

(2) 主のあわれみの通路としてのIntercessionへの招き

  • 神は、真の礼拝者だけではなく、神のあわれみの心を心として他者に関わっていく人を求めておられる。イエスは「すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」(マタイ9章35~36節) 。この「かわいそうに思われた」(ギ)(スプラングニゾマイ)ということばこそ、神のあわれみを意味することばである。。
  • ヘンリー・ナウエンは『コンパッション』の中でこう述べている。「あわれみという言葉は自らかかわって、<共に苦しむこと、耐えること>を意味する。あわれみは、傷ついている人のところへ赴かせ、痛みを負っている場へ入って行かせ、失意や恐れ、混乱や苦しみを分かち合うことである。悲惨の中にある人とともに叫びをあげ、孤独な人と共に悲しみ、涙にくれる人ともに泣くように私たちを促す。それはまた、弱い人と共に弱くなり、傷ついた人ともに傷つき、無力に人と共に無力になることを要求する。あわれみは、人間の状態の中にどっぷりと浸ることを意味する。あわれみをこのように見てくるなら、それは俗に言う親切とか、優しさだけでは説明し切れないなにかがはっきりしてくる。あわれみが、共に苦しむことだと分かると、私たちのうちに往々にして反発や拒絶、抵抗を引き起こすのも不思議ではない。あわれみは、決して心引かれることではないということを知ることは大切なことである。むしろ、それはできれば避けたいものなのである。したがって、あわれみは、自然な反応として生まれるものとはいえないのである。私たちの多くは、苦しむことを回避する者であって、・・あわれみは、現実には、人間の行動の動機の中心にはなりえないものなのである。」と。
  • そのように理解するなら、イエスが弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と語った理由が理解できる。このような働き人は神によって召され、神によって遣わされるのでなければ、決して存在し得る者ではないからである。イエス・キリストこそまさにそのような方であった。悲惨な状況に置かれている人間と関わり、とりなすために、神によって送られる働き手とは、まさに、御父のあわれみの心を与えられた人である。 このような人を神はいつの時代にも求めておられるのである。したがって、とりなしの祈りという働きも、単なる一つの働きではなく、あわれみの心をもった人が求められているのである。
  • 神は、このように、霊とまことをもって神を礼拝する真の礼拝者と同時に、あわれみの心をもって、あわれみの器として人々に関わる働き手を求めておられるのである。収穫とは、単なる働きの数的成果ではなく、神との交わりを喪失した者を、共に苦しむことを通して、三位一体なる神の愛による交わりの中に引き入れること、交わりのいのちを回復することを意味している。



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