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ヨブの最後の弁論(2)「知恵の賛歌」

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21. ヨブの最後の弁論(2) 「知恵の賛歌」

【聖書箇所】28章1~28節

ベレーシート

  • ヨブ記28章はヨブの最後の弁論の中に置れていますが、これまでとは色彩の異なる箇所です。特に、12節と20節にあるヨブの問い、すなわち、「知恵はどこから見つけ出されるか、悟りのある所はどこか。」がこの章の中心です。ヨブは「知恵」と「悟り」を、地下に埋もれている鉱物を掘り出すことにたとえながら、その価値の尊さとそれを得る難しさとを述べています。
  • 「知恵」(「ホフマー」חָכְמָה)と「悟り」(「ビーナー」בִּינָה)ということばで代表される「神の知恵」はやがて神から遣われるメシア(イェシュア)によって明らかにされますが、ヨブの時代には、それはまだ啓示されていません。結論的な言い方をすれば、神の知恵とは、「神と人とのいのちのかかわりを創造する巨大なフォルダ」なのです。ちなみに、「悟り」と訳されている「ビーナー」(בִּינָה)の動詞は「ビーン」(בִּין)で「識別する、認識する」という意味ですが、その語彙と関連する「ベーン」(בֵּין)は「~と~の間」を意味します。つまり「ビーナー」(בִּינָה)は、神に喜ばれることとそうでないものとをより分ける識別力、ないしは、神の時とそうでない時を分別する、賢明な判断力を意味しています。
  • 主の祈りの中に、「御名があがめられますように」という祈りがあります。「御名」(「シムハー」שִׁמְךָ)も、実は、神ご自身が神の選ばれたイスラエルの民とのかかわりの中に啓示されたすべてが含まれる巨大なフォルダです。ですから、「主の御名を賛美します」と簡単に言うことはできますが、その内容たるや膨大な神のみこころと力との現われが、その「御名」という一つの言葉の中に括られているのです。
  • 例えば、「御名」の中には、モーセがエジプトに遣わされる前に啓示された御名があります。「エイェ・アシェル・エイェー」でした(出エジプト3:14)。それは「わたしはあってある者」という意味です。他にも、「唯一の御名」「万物の創造主」「聖なる御名」「全知全能の御名」「いつくしみの御名」「愛と恵みの御名」「栄光の御名」「いのちと光の御名」「義と公正の御名」「すべてに勝る偉大な御名」・・など、神のご性質とみわざを表す多くの名前があります。
  • それらの「御名」の中に隠されている宝を掘り出すこと(つまり、経験すること)が私たちに求められているのです。「知恵」もそうした意味合いにおいて捉える必要があります。なぜなら、「知恵」という巨大なフォルダの中には、掘り出されなければならない神と人と生きたかかわりを築いていく秘密が隠されているからです。

1. 地下深くにある貴重な鉱物を得るたとえ

  • 28章に記されている内容を簡単に記すと以下のようになります。

    【新改訳2017】ヨブ記 28章3節
    人は闇の果てに、その極みにまで行って、暗闇と暗黒にある鉱石(אֶבֶן)を探し出す。

    ●貴金属を得るために、人はどんな危険をも冒し、地下に縦穴を掘って、その暗やみの中に入って行きます。人間だけがそこに貴重な鉱物があることを知って、山を崩し、堅い岩に坑道を作ってそれを発見します。

  • 神の知恵と悟りを得ることが、鉱物(金や銀、鉄や銅、そして宝石の類)を得るために地中深く穴を掘っていくことにたとえられています。単に掘り出すだけでなく、掘り出されたものを純化するために精錬するとも言及されています。人間にだけ与えられているこのすばらしい探求心と勇気、そしてその技術についても言及されているのです。

2. 本当の知恵と悟りはどこにあるのか

  • しかし、ヨブは本当の知恵と悟りはどこにあるのかと問いかけます。なぜなら、人はこの世で貴重な宝を見出すことができないからです。そして、その問いに対してヨブは「神はそれをご存知であり、どこにあるかを知っておられる」と答えを出しています。しかも、神こそ真の知恵の源であるという結論に行き着きます。そしてその神が次のように語っているのです。

    【新改訳改訂第3版】28章28節
    こうして、神は人に仰せられた。
    「見よ。主を恐れること、これが知恵である。
    悪から離れることは悟りである。」

  • 「主を恐れること」とは、新約的に表現するなら「主を信じること」と同義であり、これが「知恵」だと神が語っています。また、「悪から離れる」ためには、神にとって何が良いことであり、何が悪いことなのかを識別できなければなりません。これが「悟り」だと神が語っているのです。人間的な計りで、あるいは人間的な標準で、人間的な概念で、善と悪を判別できますが、それは神から来る「悟り」ではありません。使徒パウロはキリストに出会ってから、こう述べています。

    【新改訳改訂第3版】Ⅱコリント5章16節
    ・・・私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。


2. 神の知恵としてのキリスト

  • 「キリストは私たちにとって神の知恵」だと表現したのは使徒パウロです(Ⅰコリント1:21、1:30)。この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるとも述べています。キリストの十字架の死と復活の事実が多くの者にとってはつまずきとなっていますが、その事実が、信じる私たちにとっては、「」(行いではなく、キリストを信じる信仰によって義とされる、神に受け入れられること)、「聖め」(キリストにあって罪ある者、汚れた者が神の所有の者となれること)、「贖い」(神のさばきとしての死の身代りによって救われること、そして、やがて栄光の体さえも与えられること)という「神の知恵」そのものなのです。
  • ヨブが求めても得られなかった神の知恵(創造の秘儀、神と人とのかかわりの秘儀)と「悟り(知識)」とが、今や、キリストを通して与えられているのです。



付記
(1) 三人の友人たちとヨブの「知恵」の源泉
(2) 知恵の語彙ー「ホフマー」(חָכְמָה)「ビーナー」(בִּינָה)「ダアット」(דַּעַת)「セーフェル」(שֵׂכֶל)

画像の説明
(3) 渡辺善太氏は「知恵」(ホフマー)について以下のように説明しています。

「わかってわからないキリスト教」
「ヨブ記にあらわれた根元的きよめ」から

●「ホフマー」とは、ものを確かめるという意味。はっきりと握るということです。つまり、人生の神秘を、人生の本質をはっきり見定めて握るという動詞がこの知恵ということばのもとの意味。最初は技術的な職工、いろんなものを細工する人の技術の上手さに用いられた。それが人生の知恵、人生の技術として徐々に高められて、次には世渡り上手さに用いられた。そして次第に人生の本質をはっきりと見定めて握るという意味にまで進んできた。

●この知恵という点から、人間が改めて自分を見るようになった。たとえば、ハバクク書1章のように、「どうして神よ、私の周囲には略奪・暴虐・論争・闘争が起るんだろう。私があなたにおたずねをしてもお答えを下さいません。なぜですか?」。こういう問いとなって表れてきた。それがイスラエルの知者たちの問題となった。その結果として知者の言葉が記され残され、書物として残ったのが、箴言、伝道者の書、ヨブ記および詩篇の中のいくつかの詩。

●渡辺善太氏はこうも述べています。
「旧約信仰の発展を見てくると、上からの語りかけでは人間はどうしても満足しない。下から、神に対する論争、問いかけ、これが出て来なければ神学はほんとうにはならない。これがイスラエルで知恵運動となって知恵文学が出て来た。なぜ?  どうして?  如何に?  人間が自覚すれば必然的にこの問いが起ってくる。この問いがおこってこなくちゃ、一人前にならない。」


2014.6.28


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