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ヨハネの福音書におけるモーセの幕屋の構造

歴史書(2)の目次

D. モーセの幕屋とダビデの幕屋の綜合としてのソロモン神殿の礼拝神学

D-附記(2) ヨハネの福音書におけるモーセの幕屋の構造

はじめに

  • ここで、いのちはその形式(枠)を必要とすることを考えるために、ヨハネの福音書に目を向けたい。(参考図書:平野耕一著『ヨハネの福音書の謎』プリズム社、1997)

(1) ヨハネ福音書の構造の型

①共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とヨハネの福音書との大きな相違点は、その構造にある。ヨハネはイエスの生涯を共観福音書のような年代的な順序とは異なる順序で書かれている。ヨハネの福音書の構造は、なんとモーセの幕屋の構造に従って書かれているのである。そのことを検証してみよう。

②もし、ヨハネの福音書の構造がモーセの幕屋に従って書かれていると仮定するならば、ヨハネの福音書全体の主題は<礼拝>ということになる。ところが、ヨハネの福音書において<礼拝>ということばは一部分にしか出てこない。それは4章19~24節である。そこでは、神は「霊とまことによって礼拝する真の礼拝者たちを求めておられる」とある。しかし「霊とまことによって礼拝する」とは何か、その説明がその箇所では全くなされていない。なぜなら、ヨハネの福音書全体の構造(モーセの幕屋の構造)を通して、その中に<キリストにあるいのち>に満ちた礼拝に導こうとしているからである。

③事実、ヨハネは読者が福音書を読み進めていくてき、幕屋の大庭に入り、祭壇、洗盤を通って聖所に入り、パンの机や燭台、香壇を通して、やがて至聖所へとたどりつくように工夫されている。どの過程もスキップすることはできない。

④ヨハネの福音書1章14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」という「住む」という語は、「幕屋を張られた」という意味である。

(2) ヨハネの福音書におけるモーセの幕屋の構造

①〔祭壇〕

バプテスマのヨハネの証言「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」(1章29節、36節)。まず神を礼拝する者は、自分がイエス・キリストを十字架につけたことを認識しなければならない。バプテスマのヨハネは、まず「神の小羊キリスト」に目を向けさせようとしている。神の小羊こそ私たちの罪のいけにえとなられた。


②〔洗盤〕

2章~5章、そして7章には洗盤にならって水が出てくる。かつて祭司たちはこの水によって聖められ、聖所に入ることが許されたのである。キリストの贖いを経験した者は、青銅の洗盤に行き、主のために、主のみことばによって、聖別される必要がある。礼拝のプロセスは始まったばかりである。これから聖所へと入っていく。


③〔パン〕

6章(いのちのパン)


④〔燭台〕

8、9章(いのちの光、世の光)
「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光をもつのです。」(8章12節)


⑤〔香壇〕

17章(祈りをもってとりなす者)。モーセの幕屋では大祭司が毎日、絶やすことなく香の煙を立ち上らせなければならなかった。香をたくとは今日的には祈りをささげることである。


⑥〔至聖所〕

21章(主の食卓)これは赦しを表す食事である。「あなたはわたしを愛しますか」と尋ねている。それは真の礼拝者としての招きであり、礼拝の動機を探ることばである。

 

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