****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ヨエル書〔יוֹאֵל〕

ヨエル書〔「ヨーエール」יוֹאֵל

ベレーシート

●はからずも、今日(2023.5.28)は「ペンテコステ記念礼拝」(七週の祭り)です。ペンテコステに注がれた聖霊は「力としての聖霊」です。すでに弟子たちは、復活の日の夕べにイェシュアから息を吹きかけられて聖霊を受けています。それは「いのちを与える御霊」となられたイェシュアが、人の霊を再生して、そこに内住してくださった画期的な日でした。これを「聖霊の内なる満たし」(「プレーロー」πλήρω)と言います。それから40日の間、弟子たちはイェシュアから再度「御国の福音」を聞かされて、それを理解する者となります。40日目にイェシュアは昇天し、神の右に着座されました。つまり復活から50日目(五旬節)に、御座から「力としての聖霊」を弟子たちの上に注がれた(=着せられた)のです。これを「聖霊のバプテスマ」と言います。「着る」とは外側から「力と権威」を賦与されたことを意味します。これはまた「聖霊の外なる満たし」(「ピンプレーミ」πίμπλημι)とも言います。このように、内側と外側の満たしによって、はじめて弟子たちはキリストを証しすることができたのです。使徒2章では、使徒ペテロが他の十一人とともに立ってキリストを証ししていますが、この時点から、彼らは大胆に神のことばを外に向かって語り出していくのです。ペンテコステの重要なメッセージとは、霊において新創造された弟子たちが、「昇天のキリスト」、あるいは「御座のキリスト」を経験したということです。人の子イェシュアは御座において、すべてのものを足の下に置かれました。そこに私たちも座らせられたのです(エペソ2:6)。すべてのことを、御座のキリストの視点によって理解し、その力を経験できるようにさせられたのです。ペンテコステの祝福はこの意味を悟ることにあります。

●ヨエル書に話を向けたいと思います。イスラエルには二つのタイプの預言者がいます。一つのタイプは、エリヤとその後継者エリシャのような「行動預言者」です。彼らは神への信仰が希薄となっている北イスラエルにおいて「主は生きておられる」ことを奇蹟によって示した預言者です。彼らの語ったメッセージは書物として、まとまったものは残されていません。しかしもう一つのタイプは奇蹟を行わず、ただ神から託された神のことばを告げ知らせた「記述預言者」です。ホセア、アモス、イザヤ、エゼキエルといった偉大な預言者たちがいます。そして、ヨエルもその一人なのです。このような預言者の出現によって、終わりの日における神のご計画が書き記され、後の人々がそれを読むことができるようにされたのです(ヨエル1:2~3)。

●預言者ヨエルの情報は「ペトエルの子ヨエル」(1:1)とあるだけです。父「ぺトエル」(פְּתוּאֵל)の語源を「パータット」(פָּתַת)とするなら、それは「神が粉々に砕く」という意味です。その子「ヨエル」(יוֹאֵל)は「その神が主」ということになります。「ヨー」(יוֹ)は「主」を意味する神聖四文字(יהוה)の省略形で、それに「神」を意味する「エール」(אֵל)が付いて「ヨエル」となります。神である主がユダの民を粉々に砕くのは、いなごの大群によってです。それが「主の日」として語られています。この出来事が指し示しているのは、神のさばき(破局)と同時に神の救い(回復)です。ここに「死と復活」という神の甘い事柄があります。そこに焦点を当てて、ヨエル書のメッセージを語りたいと思います。

1. 未曽有のいなごの来襲による大災害の警告

●ヨエル書において、「いなご」のイメージは強烈です。いなごによる未曾有の大災害がユダの民に臨むことが、記されています。

【新改訳2017】ヨエル書1章4~5節
4 噛みいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、バッタが食い、バッタが残した物は、その若虫が食った。
5 目を覚ませ、酔いどれよ。泣け。泣き叫べ、すべてぶどう酒を飲む者よ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。

●4節では、ユダに襲いかかる四種類のいなごが語られています。聖書では八種類の「いなご」が記されていますが、ここでは「噛みいなご」「いなご」「バッタ」「若虫」と訳される四種類が登場します。これらすべては、ユダの民を襲うことになる諸国の民を預言的に啓示していると言えます。最初の「噛みいなご」(「ガーザーム」גָּזָם)はバビロン、次の「いなご」(「アルベ」אַרְבֶּה)はギリシア、三番目の「バッタ」(「イェレク」יֶלֶק)はローマ、四番目の「若虫」(「ハースィール」חָסִיל)は獣と呼ばれる反キリストとそれぞれ解釈できます。特に最後の「若虫」と訳される「ハースィール」は、新改訳改訂第三版までは「食い荒らすいなご」と訳されていました。旧約では6回(Ⅰ列王8:37、Ⅱ歴代6:28、詩篇78:46、イザヤ33:4、ヨエル1:4、2:25)登場しています。この「ハースィール」は大喰らいのいなごの幼虫ということで「若虫」と訳されています。ここでなぜバビロンを倒したメディア・ペルシアが入っていないのかといえば、メディア・ペルシアはユダを属国とした大国ですが、むしろエルサレムの帰還のために支援した国だからです。支配していますが、直接的な危害を与えてはいません。

●ヨエル書のいなごの大軍の来襲という出来事は、神の不変のご計画の視点から解釈される必要があります。歴史という舞台において、繰り返されるパターンによって神はご自身のご計画を導いておられることを理解する必要があります。それらはすべて、世の終わりに臨む「主の日」を啓示するものとして理解するということです。確かにヨエル書は当時の人々を目覚めさせて、切迫しているバビロンによる災禍に警鐘を鳴らしています。しかし同時に神の最終的なご計画をも啓示して語っているのです。この視点をもってヨエル書のみならず、聖書全体を預言の書として理解する必要があります。なぜなら、聖書はイェシュアを証しする書(ヨハネ5:39)であり、「イェシュアの証しは預言の霊」(黙示録19:10)だからです。

●ヨエル書の「いなご」は想像を絶するような大軍として襲います。今日でも数百億匹の「サバクトビバッタ」の被害が見られます。一定の熱さと湿気があり、ある条件を満たすことで爆発的にその数を増し、群れとなって周囲に広がって行きます。そして雲のように他の地域に移動しはじめるのです。数百億という数のいなごが雲のように来襲することで、地は焼け野原のような状態がもたらされるのです。そうした実際の経験がたとえとなって、未曽有の苦難が襲うことになるという警告的な預言がなされています。

●ヨハネの黙示録9章1~11節には、ヨエル書で預言されたいなごの恐ろしさをさらに強めるかたちで預言されています。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録9章1~12節
1 第五の御使いがラッパを吹いた。すると私は、一つの星が天から地に落ちるのを見た。その星には、底知れぬ所に通じる穴の鍵が与えられた。
2 それが底知れぬ所に通じる穴を開くと、穴から大きなかまどの煙のような煙が立ち上り、太陽と空はこの穴の煙のために暗くなった。
3 その煙の中からいなごが地上に出て来た。それらには、地のサソリが持っているような力が与えられた。
4 そして彼らは、地の草やどんな青草、どんな木にも害を加えてはならないが、額に神の印を持たない人たちには加えてよい、と言い渡された。
5 その人たちを殺すことは許されなかったが、五か月間苦しめることは許された。彼らの苦痛は、サソリが人を刺したときの苦痛のようだった。
6 その期間、人々は死を探し求めるが、決して見出すことはない。
死ぬことを切に願うが、死は彼らから逃げて行く。
7 いなごたちの姿は、出陣の用意が整った馬に似ていた。頭には金の冠のようなものをかぶり、顔は人間の顔のようであった。
8 また、女の髪のような毛があり、歯は獅子の歯のようであった。
9 また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その羽の音は、馬に引かれた多くの戦車が戦いに急ぐときの音のようであった。
10 彼らはサソリのような尾と針を持っていて、その尾には、五か月間、人々に害を加える力があった。
11 いなごたちは、底知れぬ所の使いを王としている。その名はヘブル語でアバドン、ギリシア語でアポリュオンという。
12 第一のわざわいは過ぎ去った。見よ、この後、なお二つのわざわいが来る。

●御使いによる第五のラッパが吹き鳴らされることで、「獣」と呼ばれる反キリストによる大患難が始まることが預言されています。なぜなら、第五のラッパによって始まる神のさばきが「第一のわざわい」と記されているからです(12節)。ここでの「第一のわざわい」は患難時代(七年間)の前半が終わる頃、つまり大患難時代(三年半)が始まる時を指しています。ここでの「いなご」は神に敵対する軍勢(悪霊たち)です。「いなごには王はいないが、みな隊を組んで出陣する」(箴言30:27)とあるように、いなごの大軍にはリーダー的存在はいないのですが、ヨハネの黙示録では「アバドン」(אֲבַדּוֹן)、ギリシア語の「アポリュオン」(Ἀπολλύων)がいます。いずれも「滅ぼす者」という意味のサタンの名前です。この「サタン」は「天から地に落ちた一つの星」であり、その星に「底知れぬ所に通じる穴の鍵」が与えられます。その与えられた鍵で「底知れぬ所」に通じる穴を開いたとき、そこから大きなかまどの煙のような煙が立ち上り、その煙の中からいなごが地上に出て来たとあります(2~3節)。そのいなごには地のサソリの持つような力が与えられ、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えることなく、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるようにサタンから言い渡されています。

●ちなみに、「額に神の印を押されている者たち」がいます。その者たちとはイスラエルの子らのあらゆる部族からなる「十四万四千人」のことです(黙7:4)。そこにはすでにイスラエルの全部族が全世界から集められています。彼らは額に神の印が押されているため、反キリストによって殺されることなく、そのままメシア王国に入って行く者たちです。彼らは、主の「恵みと嘆願の霊」(ゼカリヤ12:10)によって悔い改める「イスラエルの残りの者」と思われます。その彼らによって、御国の福音が全世界に宣べ伝えられることで、短期間のうちにすべての民族に証しされ、大勢の異邦人が救われるのです。それから「終わりが来ます」とあります(マタイ24:14)。その「終わり」とは「獣」と呼ばれる反キリストが自らの正体を顕にする時です。そのため、救われた異邦人のほとんどは反キリストによって殉教します。その彼ら(=数えきれないほどの大勢の群衆)が、携挙されて、天において神を礼拝している光景をヨハネは見ています(黙7:9~17)。この異邦人の大群衆は教会とは異なる団体です。教会はすでに携挙されていますが、この大群衆は「大きな患難を経てきた者たち」(黙7:14)なのです。

●ヨエル書が「主の日が来る。・・その日は近い」(2:1)としているのは、ヨハネの黙示録が語っている「第一のわざわい」と「この後の二つのわざわい(第六のラッパと第七のラッパ⇒七つの鉢のさばき)」を預言しています。しかし「イスラエルの残りの者」以外のユダヤ人たちは悔い改めることをしないので滅びを免れません。

2. 悔い改めの呼びかけ

●ユダの民に対する神のさばきの預言と同時に、ヨエル書2章12~14節では「悔い改め」が記されています。

【新改訳2017】ヨエル書2章12~14節
12 「しかし、今でも─【主】のことば─心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ(שֻׁבוּ עָדַי)。」
13 衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、【主】に立ち返れ(שׁוּבוּ אֶל־יהוה)。主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる(נָחַם)。
14 もしかすると、主が思い直してあわれみ、祝福を後に残しておいてくださるかもしれない。あなたがたの神、【主】への穀物と注ぎのささげ物を。

●12節の「しかし、今でも」と訳された箇所には、悔い改めの機会が今もなお継続して与えられていることが強調されています。新共同訳は「今こそ」、口語訳は「今からでも」、岩波訳は「しかし今でも〔遅くはない〕」と訳しています。岩波訳がここの強調表現をうまく訳しています。「しかし今でもなお」と神に立ち返るチャンスがあることを強調しているのです。

①「わたしのもとに帰れ(שֻׁבוּ עָדַי)。」(12節)・・主ご自身の呼びかけ
②「主に立ち返れ(שׁוּבוּ אֶל־יהוה)」(13節)・・・預言者の呼びかけ
③もしこの呼びかけに応えるならば、「主は・・わざいを思い直してくださる。」と言い切っています(13節)。

●主に立ち返る「シューヴ」(שׁוּב)は「心のすべてをもって」とあり、また「衣ではなく、心を引き裂け」とあるように内面的でなければなりません。さらに重要なことは、「罪を悔い改めて」ではなく、「わたしに立ち返れ」と呼びかけられているということです。「わたしに」という明確な方向性が指示されています。これが真の「シューヴ」の意味することです。

●12節の「わたしのもとに帰れ」という場合、「わたしのもとに」に「アーダイ」(עָדַי)が使われて「シュヴー・アーダイ」(שֻׁבוּּ עָדַי)となっています。それは通常用いられる「シューヴー・エーライ」(שׁוּבוּ אֵלַי)よりも強い表現です。つまり単に神に立ち返るだけでなく、神という目標に到達して、そこに「とどまる」ことを要求しているからです。ちなみに13節の預言者ヨエルの呼びかけでは「主に立ち返れ」(「シューヴー・エル・アドナイ」שׁוּבוּ אֶל־יהוה)となっています。「シュヴー」(שֻׁבוּ)と「シューヴー」(שׁוּבוּ)は、いずれも男性複数命令形です。ところが【新改訳2017】では、前者を「帰る」と訳し、後者を「立ち返る」と訳しています。訳語を変えるほどの必要性があるのかどうかは分かりません。むしろ、どこにどのように帰る(立ち返る)かが重要です。「アド」(עַד)と「エル」(אֶל)の違いは前回のホセア書とまったく同じですが、ただ一つの違いは、ホセア書の場合、「シューヴァー」(שׁוּבָה)が男性単数命令形となっていることです。

●実は「わたしのもとに帰る」ことも「主に立ち返る」ことも決して容易なことではありません。そのためには、主の助けが絶対的に必要なのです。そうするために、主が「わたしの霊」(「ルーヒー」רוּחִי)を注ぐと約束しています(ヨエル2:28)。その「霊の注ぎ」なしには、神に帰る(立ち返る)ことはできないということを知らされるのです。神はそれができるようにしてくださる「あわれみに満ちた方」なのです。ここに「モアブ契約」(=申命記30章6節「あなたの神、【主】は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、【主】を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。」)の悔改(かいかい)の成就と、「新しい契約」(=エレミヤ書31章33節「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」)の必然性があるのです。つまり、すべてを神ご自身がなされるということが実現するのです。

●ダニエル書12章1節に「あの書に記されている者はみな救われる」とあります。「あの書」とは何でしょうか。それは天にある神のシナリオです。それは「新しいエルサレム」の住民として登録されている書のことです。感謝なことに、そのような者はザアカイやサマリアの女のように、神の歴史の中で神に出会い、しかも、悔い改めることができるようになるという必然性があるのです。そして「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(ヨエ2:32/使2:21)とあるように、必ず「主の御名を呼び求める者となる」のです。なぜなら、主がご自身の霊をその者の中に注いでくださるからです。それは「イスラエルの残りの者」に、「主の日」と言われる大患難の前に、必ず注がれるからです。これが神のあわれみなのです。つまり「悔い改め」は決して人間側の意志によるものではない、神からの霊の働きかけがなければ起こり得ない事柄だからです。

3. いなごが食い尽くした年々を償う神のゆるぎない愛

(1) 神が償う

●「心のすべてをもって、わたしのもとに帰れ」と語った主のことばに応答するユダの民たちに対して、「主が大いなることを行われた」というのが2章18~27節の内容です。「主が大いなることを行われた」というフレーズが2回(20節と21節)出てきます。しかし、それはいまだ実現していません。やがてそれが必ず実現することを預言的に語っているのです。「大いなること」とは、神にしかできない「不思議なこと」(26節)なのです。「悔い改め」もそうですが、ここでは神に立ち返った者たちに対する「神の償い」(25節)なのです。

【新改訳2017】ヨエル書2章25節
いなご、あるいは、バッタ、その若虫、噛みいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が食い尽くした年々に対して、わたしはあなたがたに償う

●ヨエル書における「いなご」は実際のいなごではなく、その大群は神が神の民をさばくための道具として用いられる異邦(バビロン、ギリシア、ローマ、獣と呼ばれる反キリスト)の大軍勢(1:6. 2:2,4~11)です。

●悔い改めた民に対する神の祝福は、「大軍勢が食い尽くした年々に対して、わたしはあなたがたに償う」ということです。この箇所を置換神学で読んでしまうと、「あなたのこれまでの不幸な出来事を神は償ってくださる」と解釈してしまいます。これは決して間違っているとは言いませんが、その解釈では神のご計画から離れてしまうだけでなく、神のご計画に無関心な、独りよがりの読み方となってしまいます。聖書は一義的にイスラエル・ファーストなのです。

●「償う」と訳された原語は「シャーレーム」(שָׁלֵם)です。強意形のピエル態で「回復する、完成する、報いる、償う、(誓いを)果たす」という意味になりますが、歴史の中の四つの諸国によって失われたものが、そのまま償われるという驚くべき祝福です。「わたしはあなたがたに償う」の「償う」は預言的完了形が使われており、「必ずやがてそうなる」という意味です。「わたしがあなたがたに償う」とは何という恩寵でしょう。これが世界離散し、主のもとに立ち返ったユダの民が受ける祝福なのです。この面では、教会とは比べられないほどの祝福となるに違いありません。「シャーレーム」(שָׁלֵם)は「シャーローム」(שָׁלוֹם)の語源であり、本来の完全な祝福への復帰を意味しています。イスラエルという国が復興したことは奇蹟的なことですが、これは悔い改めによるものではありません。霊による神の完全な復興(回復)がもたらされるのです。その背景にあるものは、神の民に対するねたむほどのゆるぎない神の愛とあわれみなのです。

(2) ねたむほどの神の愛とあわれみ

【新改訳2017】ヨエル書2章18節
【主】はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民を深くあわれまれた。

神の償いの対象はご自分の「地と民」です。そして神の償いの背景にあるものは神の強い愛です。強意形ピエル態「カーナー」(קָנָא)を新改訳は「ねたむほど愛し」と訳しています。神は十戒の中で「わたしは、ねたみの神」と語られましたが、それは「ねたみを引き起こすほどの愛」で愛しているという意味です。ただし18節の「ねたむほど愛し」ているのは、神が神の民に与えた「ご自分の地に対して」(「レアルツォー」לְאַרְצוֹ)であることです。後半の「深くあわれまれた」(「ハーマル」חָמַל)は「ご自分の民に対して」(「アル・アンモー」עַל־עַמּוֹ)です。神がご自分の地をねたむほどに愛することと、神がご自分の民をあわれまれることは同義的パラレリズムです。本来、「ゆずりの地とそこに住む民」とは一つでなければならないのです。神は「ご自分の地」「約束の地」に対して最後までこだわり続けます。特に「エルサレム」は、地上における唯一の神ご自身の臨在の場として選ばれたがゆえに重要な場所です。メシアの再臨によってなされるメシアの地上の統治の中心地も「エルサレム」です。

(3) 悔い改める民に対する神の祝福のしるし

【新改訳2017】ヨエル書2章21~24節
21 地よ、恐れるな。楽しみ、喜べ。【主】が大いなることを行われたからだ。
22 野の獣たちよ、恐れるな。荒野の牧草が萌え出で、木が実を実らせ、いちじくとぶどうの木が豊かに実る。
23 シオンの子らよ。あなたがたの神、【主】にあって、楽しみ喜べ。主は、義のわざとして、初めの雨を与え、かつてのように、あなたがたに大雨を降らせ、初めの雨と後の雨を降らせてくださる。
24 打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油であふれる。

●悔い改めた神の民に対する神の祝福のしるしはすべて、地と民にかかわるものであることは述べました。21節では「地よ」と呼びかけ、23節では「シオンの子らよ」と呼びかけ、いずれも「楽しみ、喜べ」と命じています。なぜなら「主が大いなることを行われたから」としています。「楽しむ」(「ギール」גִּיל)と「喜ぶ」(「サーマハ」שָׂמַח)はメシア王国の基調です。このフレーズが出て来るところは、ほとんどメシア王国に関する記述と考えることができます。詩篇にもしばしばこの「楽しみ」と「喜び」が一つとなったフレーズがあります。神のご計画の行き着く所には、「楽しみ」と「喜び」が満ち溢れています。不思議なことですが、「新しいエルサレム」にはこの「楽しみと喜び」がありません。全く新しい次元としての「神と人との住まい」ということでしょうか。

●メシア王国における「楽しみと喜び」は、「初めの雨」(秋の雨で「モーレ」מוֹרֶה)と「後の雨」(春の雨で「マルコーシュ」מַלְקוֹשׁ)によって、穀物の収穫がもたらされるからです。二つの雨は地に「聖霊が降り注ぐ」ことの象徴です。雨が降ることで以下の産物が生じます。「穀物」(小麦、大麦)、新しいぶどう酒、油(オリーブ油)、それらはすべてキリストを表す表象です。「いちじくの木」と「ぶどうの木」はイスラエルの民の象徴であり、「豊かに実る」「あふれる」とあるのは、彼らが神の民として完全に回復することを意味するだけでなく、「キリストがすべてのすべてとなる」ことを意味しています。それゆえ「あなたがたは食べて満ち足りる」(26節)のです。これが神の「償い」=「シャーレーム」(שָׁלֵם)の祝福なのです

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「地の産物」(申命記8章8節)


(1)ザイト(זַיִת)・・オリーブ 
(2)ゲフェン(גֶפֶן)・・ぶどう 
(3)セオーラー(שְׂעֹרָה)・・大麦
(4)ターマール(תָּמָר)・・なつめやし 
(5)リッモーン(רִמּוֹן)・・ざくろ 
(6)ヒッター(חִטָּה)・・小麦
(7)テエーナー(תְּאֵנָה)・・いちじく 

●「その日」であるメシア王国では、地ののろいが解かれることで回復し、地の祝福が豊かにもたらされます。これらの地の産物から「新しいぶどう酒と油があふれる」のです。まさに「良い地」の産物は、「キリストのすべて」を表すメタファーなのです。

ベアハリート

●わずか73節分からなるヨエル書の最後の節は「主はシオンに住む」(3:21)という短いフレーズですが、そこに神のご計画が見事にコンデンスされています。3章16~21節の中に「エルサレム」という語彙が3回、その雅名である「シオン」が同じく3回登場しています。神のご計画において、神が常にこだわりをもっているのは「良い地」の中心、「エルサレム」(=シオン)です。なぜなら、そこは神と人が永遠に共に住む場所として、神が選ばれたところだからです。

●聖書でエルサレムが最初に登場するのは創世記14章です。そこにはアブラハムを祝福した「サレムの王メルキゼデク」が登場します。その名前が実に奥義的です。「サレム」はエルサレムのことです。イェシュアはそこで十字架の死によって贖いをなし、三日目によみがえって「いのちを与える御霊」となり、天に昇り、神の右の座に着かれました。そしてそこから、再びエルサレムに王としてやって来られます。メシア王国の中心地はエルサレム、教会の母はエルサレム、新天新地における「新しいエルサレム」もそこに降りてきます。「エルサレム」は「神の平和」という意味ではありません。エルサレムの原語である「イェルーシャーライム」は、「神がご自身のご計画の完成を常に見ておられる」という意味なのです。神の関心は、「神と人が永遠に共に住むこと」にあるのです。

三一の神の霊が私たちの霊とともにあります。

2023.5.28
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