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マラキ書の終末預言ー「見よ。その日が来る。」

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8. マラキ書の終末預言ー「見よ。その日が来る。」

【聖書箇所】 4章1〜6節(=3章19~24節)

ベレーシート

  • ヘブル語聖書では4章はなく、3章からつながっています。新改訳がなぜ4章としているのか分かりません。コンテキストを見ると、3章17節に「わたしが事を行う日に」というフレーズがあり、その「日」には敬虔者とそうでない者との「違いを見るようになる」(18節)としています。この明確な違いの内容を説明するために、再度、4章1節で「見よ。その日が来る」という流れになっています。
  • 4章1節は多くの聖書が「見よ。その日が来る。」と訳していますが、原文には「見よ」の「ヒンネー」(הִנֵּה)の前に「なぜなら、まことに」を意味する「キー」(כִּי)がついて、「キー・ヒンネー」(כִּי־הִנֵּה)となっています。関根訳だけが「まことに、見よ。」と訳しています。「ヒンネー」だけでも神の重要な事柄として注目される語彙ですが、それに「キー」を付加することで、「その日が来る」ことの確実性が強調されています。

1. 「確かに見よ。その日が来る。」(キー・ヒンネー・ハッヨーム)

  • 「その日」とは「わたしが事を行う日」のことであり、それはある者にとっては徹底的な神のさばきの日であり、ある者にとっては完全な救いの日なのです。それが最終的に明確にされる日なのです。両者の運命をマラキは以下のように語っています。

【新改訳改訂第3版】マラキ書4章1~3節
1 見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の【主】は仰せられる──

2 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。
3 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の【主】は仰せられる──


●主に対して「高ぶる者」「悪を行う者」たちの運命は、完全に焼き尽くされ、根も枝も残されないというさばきです。「聖絶」(「ヘーレム」חֵרֶם)のように、完全に滅ぼし尽くされるのです。

●しかし逆に、「主の名を恐れる者(=主を信じる者)」の上には「義の太陽」が上り、その翼による「いやし」がなされます。ここでの「いやし」は「救い」「解放」と同義です。「義の太陽」(「シェメシュ・ツェダーカー」שֶׁמֶשׁ צְדָקָה)はメシア的表現で、聖書ではこの箇所にしか使われていません。また「翼」と訳された「カーナーフ」(כָּנָף)は、旧約では「わしの翼に載せ」(出19:4)、「御翼の陰に」(詩篇17:8/36:7/57:1/
61:4/63:7など)とあるように、神の保護を表わす比喩として用いられています。また「牛舎の子牛のようにはね回る」とあるように喜びが保障されています。「はね回る」(とびはねる、跳ね回る)と訳されたヘブル語は「ポーシュ」(פּוֹשׁ)という珍しい動詞です。終末論的意味で使われているのはこのマラキ書のみです。牛舎から解放されて自由に跳びまわっている子牛にたとえられた「喜び」を想像してみましょう。

●このように、「その日」には、明確に「さばき」と「回復」、「光」と「やみ」の運命が分かれるのです。そのことを主は警告しているのです。


  • 「見よ。その日が来る」のフレーズは旧約で10回使われています。そのうち7回がエレミヤ書、2回がアモス書、そして最後の1回はマラキ書4章1節です。このフレーズについては、⇒「見よ。その日が来る。」を参照のこと。特に、エレミヤ書31章はきわめて重要です。

2. 最後の勧告

  • 明確な「違い」がなされる前に、主は最後の勧告(警告)として以下のように語っています。

【新改訳改訂第3版】マラキ書4章4~6節
4 あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。
5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。


●主は「その日」が来る前に、神の民に対してなすべきことを勧告しています。
(1) モーセの律法を記憶せよ。・・「思い起こすこと」と「忠実に生きること」を意味します。しかしモーセの律法の正しい解釈は神の御子イェシュアの教えと生き方を待たなくてはなりません。

(2) 預言者エリヤが遣わされる

①〔消極面〕
のろいで地が打ち滅ぼされないために、預言者の声に聞き従うことを意味します。ここでは「預言者エリヤ」とはだれのことか説明されていませんが、かつて偽預言者と戦ったエリヤのような預言者かもしれません。とすれば、黙示録11章3節に登場する「ふたりの証人」(彼らは1260日間、つまり三年半預言する)のことかもしれません。もしくは、この「預言者エリヤ」とは、同じく三年半の公生涯において預言的働きをした神の御子イェシュアのことかもしれません。

②〔積極面〕
●いずれにしても、預言者の務めは、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせることです。これはどういうことでしょうか。しかもこれはマラキ書における重要なメッセージだと考えられます。つまり、「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせ」とは、父と子が向き合う関係を回復させることです。父と子の関係は神と人、神と神の民を示唆しています。その両者が「顔と顔を合わせる」ことができるために律法と預言者が必要なのです。なぜなら、モーセの律法と預言者の中にこそ神の永遠のご計画が秘められているからです。

●最初の人アダムを造られたときに、神は人の鼻から息を吹き入れています。そのときにも顔と顔とが向き合っています。その向き合いのオリジナルは神ご自身のうちにあります。ヨハネはその福音書の冒頭に、「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった」と記しています。「ことばは神とともにあった」という「ともに」とは、ギリシャ語で「プロス」(προς)という前置詞が用いられており、それは「向き合った形で共にいる」という意味です。御父と御子とは永遠に顔と顔とが向き合っている存在なのです。そのかかわりの中で人が神のかたちに似せて造られたのですから、神と人とのかかわりにおいても、本来の姿は「顔と顔とを合わせた」かかわりなのです。人が罪を犯したあとに、「人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」(創世記3:8)とあります。「主の御顔を避ける」という表現は、神と人との本来あるべきかかわりが壊れたことを意味します。ですから、神の救いの究極は神と人とが「顔と顔とを合わせる」ことの回復にあることは言うまでもありません。ヨハネの黙示録ではその救いの究極を「神の御顔を仰ぎ見る」(22:4)と表現しています。

●預言者のひとりであるモーセが、その生涯の終わりにこう語っています。「あなたの神、【主】は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」(申命記 18:15)と。「私のようなひとりの預言者」とは、「主と、顔と顔とを合わせるような預言者」のことであり、その預言者は単数です。第二のモーセ、つまり、メシア的人物である「終末の預言者」を指すものだと解釈されます。つまり、御子イェシュアのことです。御子イェシュアは永遠に「御父のふところにおられた方」であり、遣わされたこの地上においても、いつも御父と密接なかかわりを持っておられました。それは「顔と顔とを合わせている」関係です。それゆえ御子イェシュアが、自分の語ることばはわたしのものではなく、御父のもの、わたしを通して御父が語っているのだと言いました。一切、それに付け加えることなく、自分流に解釈したりすることなく、また、注釈したりすることもなく、御父の隠されていた御思いをまことの預言者としてありのままに語ったのです。


2015.7.24


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