****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

マトリックス的瞑想法の実際(2)ー「ペンテコステのための瞑想」

24. マトリックス的瞑想法の実際(2)

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「ペンテコステのための瞑想」

【新改訳改訂第3版】使徒の働き2章1節
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

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ベレーシート

  • 前回のセミナーでは「ベツレヘム」という地名(場所)に関する「マトリックス的瞑想」を試みました。「マトリックス」とは物事が互いに密接なつながりをもって関連していることを意味します。「マトリックス的瞑想」は、これまでの「霊性の回復セミナー」で提唱した「3D瞑想法」と「ユダヤ的・ヘブル的視点」を加味しながら、神のご計画の全体を関連づけていく瞑想法です。
  • 今回は「五旬節」というを中心に据えながら、それとかかわってくるいくつかの事柄を関連づけることによって、そこに隠されている神の秘密に触れてみたいと思います。今回の瞑想を通して、「五旬節」という時が、神の救いのドラマにおいてきわめて重要な戦略的な時であったことを、聖書を通して検証してみたいと思います。

1. 五旬節(ペンテコステ)

  • 私がイエス・キリストを信じて洗礼を受けたのは、1972年5月21日のペンテコステを記念する礼拝においてでした。キリスト教では「クリスマス」「イースター」「ペンテコステ」の三つが大きな祝祭日となっていますが、「ペンテコステ」は「クリスマス」や「イースター」と比べるとなぜか最も祭り性を感じない祝祭日です。「ペンテコステ」は約束の聖霊が注がれて教会が誕生した日ですが、教会で特別に祝われるということはありませんでした。それはなぜでしょうか。
  • 不思議なことに、ユダヤ教では「クリスマス」も「イースター」も共に祝うことはありませんが、「五旬節」の日だけは、キリスト教と同じ日に祝うのです。祝っている内容は異なっていますが、いつの時代であっても祝う日(曜日)が同じなのです。しかも、一日限りの祭りです。そこにある共通性は何を意味するのでしょうか。そんな問いかけをもちながら、今回の瞑想をしてみたいと思います。

2. 「七週の祭り」に隠された預言的啓示

  • 旧約においては、「小麦の刈り入れのために七週の祭りを行なわなければならない」と定められています(出エジプト記34:22、申命記16:9~10)。イスラエルの壮年の男子は年に三度(「過越の祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」)、みな主の前に出なければなりませんでした。
  • レビ記23章15~18節には「七週の祭り」について、以下のように記されています(説明文ー青色ーも加えて)。

    【新改訳改訂第3版】
    15 あなたがたは、安息日(過越祭の後に来る安息日)の翌日から、すなわち奉献物の束(大麦の初穂)を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。
    16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物(小麦の初穂によるパン)を【主】にささげなければならない。
    17あなたがたの住まいから、奉献物としてパン──【主】への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの──二個を持って来なければならない。
    18 そのパンといっしょに、【主】への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊七頭、若い雄牛一頭、雄羊二頭、また、【主】へのなだめのかおりの、火によるささげ物として、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とをささげる。

  • 「七週の祭り」において顕著なことと言えば、小麦の初穂で焼いたパン、しかも「パン種を入れて焼いたもの」を二個、神へのささげものとして祭司のところに持ってくることが定められていました。ちなみに、過越の祭りの時には「大麦の初穂の束」を持ってくること、さらには、一週間の祭りの間、「種を入れないパン」を食べることが定められていました。
  • 「主の祭り」には神のご計画における預言的な啓示が隠されています。イエスが来られてその生涯が罪のない(傷なき生涯)ものであったこと、そして過越の祭りの日に十字架につけられたこと、次の日の安息日の翌日から(つまり、イエスが死んでから三日目)、「大麦による初穂の祭り」が始まりますが、イエスはまさにその日に「よみがえりの初穂」として死から復活されました。イエスの生涯の初めから終わりまで、そしてその後の再臨に至るまでもが、実は、主が定められた「主の祭り」(三大祭)の中に、預言的に啓示されているのです〔脚注1〕。とするならば当然、「七週の祭り」の中に、特にこの祭りの顕著な部分に神の救いのご計画における「預言的啓示」があることは明白です。
  • もう少し注意深くみるなら、この「七週の祭り」には「パン種の入ったパン」を「二個」祭司のもとに持って来なければなりませんでした。このことが何を意味しているのか、長い間、隠されたままでした。しかし、約束の聖霊が注がれたことによってその奥義が明らかれされたのです。しかし、そのことは「使徒の働き」や「使徒パウロの手紙」等によって明らかに語られているにもかかわらず、ある人々には依然として隠されたままなのです。私も長い間、使徒の働きの2章にある「五旬節」という言葉が意味することに無関心でした。しかし、聖書をユダヤ的・ヘブル的視点から読むならば、この「五旬節」という祭りはきわめて重要な預言を啓示していたことが分かるのです。その意味では「置換神学」の弊害は大きいと言わなければなりません〔脚注2〕。
  • 「小麦の初穂で焼かれた、しかも、種の入ったパンを二つ、祭司の所に持ってきて神にささげる」というところに、「七週の祭り」(五旬節)における重要な意味があります。「二つのパン」とは、「ユダヤ人と異邦人」のことです。「パン種の入った焼かれたパン」とは、「パン種」が罪を意味しますから、罪のあるままのユダヤ人と異邦人を意味したものと言えます。このことが決してこじつけでないことは聖書的に検証できるのです。「覆いがかけられる」というのは、見えていても見えないという状態を意味します。しかし今や、私たちはひとりひとりキリストから受けた「注ぎの油」がとどまっているので、みことばが本来語ろうとしていたものを検証することができるのです(Ⅰヨハネ2:27)。
  • 神の救いのご計画においては新しい時代ーつまり「聖霊の時代」が到来しています。「七週の祭り」にささげられる「パン種の入った焼かれた二つのパン」は大祭司キリストをかしらとする「教会」のことです。「パン種」が入っていますから、この地上においては決して一致することが容易ではないのです。しかしこのことを知恵の御霊によって正しく理解するならば、私たちのこれまでの「教会観(教会に対する見方、考え方)」は一新されるはずです。
  • 「霊性の回復セミナー」は、原初的には「みことばの回復」だと考えます。みことばが開かれれば、ものの見方や考え方、生き方がおのずと変わっていくと信じます。

3. 「使徒の働き」を代表する二人の使徒(ペテロ&パウロ)

  • ユダヤ人たちは長い間「七週の祭り」を行ないながらも、神のご計画における真の意味することは隠されてきました。しかも驚くべきことに、この日にシナゴーグでは「ルツ記」が読まれるにもかかわらずです。「ルツ記」はユダヤ人の有力者ボアズが異邦人の女ルツを花嫁としてめとる物語です。ユダヤ人と異邦人が結婚することによって神のご計画が進められていくのです。ボアズとルツの結婚を「キリストと異邦人の教会のひな型」として、七週の祭り(ペンテコステ)の日、異邦人の教会が誕生して、キリストの花嫁となったと考えるのは「置換神学」による解釈です。ここは文字通り、ユダヤ人と異邦人の結婚が啓示されているのです。
  • 神のご計画によれば、今やメシアなるイエスと聖霊によって、その祭りの奥義が啓示されたのです。しかしながら、この「奥義」を聖霊に満たされた弟子たちがみなすぐに悟り得たかといえば、決してそうではありません。この祭りの預言的啓示が「奥義」として正しく示されたのは使徒ペテロとパウロでした。しかもその二人にもそれぞれ特別な導きが必要でした。
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  • 「七週の祭り」の中に啓示されていた「二つのパン」がユダヤ人と異邦人を含むものであることを教え示そうとしたのが、パウロの弟子のひとりルカの書いた「使徒の働き(使徒言行録)」です。教会の最初のメンバーはユダヤ人だけでした。しかし次第に、もうひとつのパンである異邦人がどのように教会の中に受け入れられていったかが記録されています。この二つのパンを代表する使徒がペテロとパウロなのです。ペテロはユダヤ人のために遣わされた使徒でした。パウロは異邦人に遣わされた使徒でした。
  • 「使徒の働き」の15章には通称「エルサレム会議」と呼ばれている会議が記されています。それは、ユダヤ人と異邦人との間にある軋轢をどのようにすれば解決することができるかを話し合った重要な会議でした。
  • 二人とも使徒として同じ権威を与えられ、同じ聖霊の油注ぎを受けていましたが、ユダヤ人に遣わされたペテロの働きは異邦人に対する宣教で終わっています。反対にパウロは16章以降で異邦人に遣わされていきますが、最後はローマでユダヤ人に対するメッセージで終わっているのです。まさに「パン種の入った二つのパン」の意味するところを、ルカは二人の使徒によって見事に代表させています。この対照と調和はきわめて重要な点です。

4. 五旬節(シャヴオット)と聖霊降臨の秘密

  • 「五旬節」に約束された聖霊が注がれたことは、神の救いのご計画における驚くべき戦略です。イエスは昇天前にこのことを明確に教えませんでした。あたかも、なぜ「五旬節」に聖霊が注がれたのか、後で弟子たちがよく悟るようにと課題を与えたかのようです。イエスは弟子たちに、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(使徒1:4)と言われました。弟子たちは言われたとおりに、エルサレムで、自分たちの泊まっている屋上の間に上がって、みな心を合わせて祈りに専念していたとあります。
  • ここでイエスが「待ちなさい」と命じた「待つ」という言葉は、実は、この箇所にしか(一回限り)使われていません。ここでの「待つ」は「ペリメノー」περιμένωというギリシャ語です。「メノー」μένωは「とどまる」という意味で、ヨハネの福音書ではきわめて重要なキーワードです。それに接頭語としての「ペリ」περιがついています。「~を越えて」「必要以上に」という意味で、強意を示しています。つまり、ここでの「ペリメノー」περιμένωは、これまでにはない特別な意味において「待つ」ことを意味しています。それは神のご計画の新しい段階を迎えるための、上からの力が賦与される特別な意味における主の命令としての「待ちなさい」だからです。完全に神の主権によってもたらされる出来事、人間の都合とはいっさいかかわりのない神のカイロスとしての出来事を「待つ」ことでした。
  • 聖書の中には、旧約でも、新約でも、不思議と一回しか使われていない語彙があります。しかしその一回限りの中にとても深淵な意味が隠されていることが多々あるのです。昨年から、本格的に原語を調べながら聖書を読むようになってから、しばしばそのような言葉と出会うことがありますが、そのような言葉にある種の「怖れ」を感じます。
  • 特別な神の主権の到来としての「聖霊」を待つために、弟子たちがどのような祈りをしていたのかは記されていません。おそらく「こうしてください」とか「ああしてください」といった類の祈りではなかったと思います。そこから弟子たちは地の果てにまでキリストの証人となることがイエスの口から聞かされていたからです。何かこれまで経験したことのない出来事が始まっていく予感の中での緊張感のこもった待機であったと言えます。
  • イエスが復活されてから昇天されて元いたところに帰られる前に、なぜ40日間という時を必要としたのでしょうか。それは一言でいうならば、弟子たちが人格においても、新しい働きをしていくことにおいても、より十分に整えるためでした。しかし最後の仕上げとして、どうしも「聖霊のバプテスマ」が必要だったのです。それなしには、詩篇127篇にあるように、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」ものとなるからです。
  • 「五旬節」に神にささげられる「二つのパン」は、「ユダヤ人と異邦人」を象徴していることはすでに触れましたが、このことは、旧約において必ずしも預言者たちが明確に強調して語っていたことではありませんでした。むしろ、これは使徒パウロが「奥義」として示された真理で、「福音により、イエス・キリストにあって異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということ」でした(エペソ3:6)。「一つのからだ」とは教会のことです。使徒パウロはこの両者のかかわりをエペソ人への手紙2章の後半(11節以降)で詳しく論じています。それによれば、異邦人である「あなたがたは、以前は、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たち」でした。そんな異邦人も、「今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。・・私たち(ユダヤ人)は、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです・・・。」
  • 「置換神学」では「ユダヤ人と異邦人」というかかわりについて教えません。それは長い間、キリスト教の歴史の中で捨てられてきた教えだったからです。しかし真の教会は、「ユダヤ人と異邦人」が御霊において、父のみもとに近づくことによって完成するのです。したがって、神の救いのご計画には「イスラルの回復(復興)」というキーワードがどうしても必要になってくるのです。そしてその「イスラエルの回復」についての旧約にある預言には、「新しい霊」である「聖霊の注ぎ」が付随しているのです。

5. イスラエルの回復

(1) 「聖霊のバプテスマ」と「イスラエルの回復」との関係

  • 父の約束である「聖霊のバプテスマ」を受けることが「イスラエルの復興(回復)」とどのような関係があるのでしょうか。イエスが「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受ける」と言われた時に、一緒に集まっていた弟子たち(使徒たち)は、それを「イスラエルの復興(回復)」の時が来ることと考え、イエスに「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興して(新共同訳「建て直して」)くださるのですか」(使徒1:6)と熱心に尋ねました。この質問は決して愚かなものではなく、みことばの根拠に基づく質問でした。
  • この40日間、イエスはただ単に自分が生きていることだけでなく、神の国のことを再度繰り返して語っています。その神の国について語る時に、おそらくイエスはモーセの律法と預言書と詩篇に書いてあること(旧約聖書)は全部成就するということを繰り返して語ったと考えられます。父が約束してくださったものとは、聖霊のことであり、旧約では「新しい霊」と言われています。たとえば、エゼキエル書11章19節には「わたしは彼らに一つの心を与える。わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。」とあります。しかしこの「新しい霊」が与えられる時には、「わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える」(同、11:17)も同時に預言されているのです。つまり「新しい霊が与えられること」と「イスラエルの回復」はワンセットなのです。
  • また「霊」の原語は「ルーアッハ」רוּחַで、「息」とも訳されます。それは聖霊の象徴です。エゼキエル書37章には「枯れた骨(干からびた骨)の幻」がありますが、四方から「息」が吹いてくると、その枯れた骨は生き返るのです。これはイスラエル全家の回復を預言しています。なぜなら、主が「これらの骨はイスラエルの全家である」と述べているからです(37:11)。そして「わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。・・・このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。」(37:14)と述べています。
  • 弟子たちはこのかかわりを確かめるために、イエスに熱心に尋ねていることを知らなければなりません。決して誤解しているわけではないのです。
  • ところで、使徒1章6節の「尋ねた」という原語は「エペロータオー」ἐπερωτάωで、「熱心に尋ねる」という意味です。ネストレ第27版では「エロータオー」ερωτάωと改訂されていますが、「問う、尋ねる」という意味です。いずれにしても時制は「未完了」です。未完了時制は継続的に繰り返してという意味合いがあります。弟子たちはそろってイエスに何度も熱心に、「新しい霊が与えられること」と「イスラエルの回復」とのかかわりについて納得するまで尋ねているのです。ですからこの質問は、決して愚かなものではなく、また一回限りの質問でもなく、みことばの根拠に基づく質問だったといえるのです。
  • 「復興する」「建て直す」とは文字通りのイスラエルのことで、決して霊的イスラエルのことではありません。あるクリスチャンたちはそのように考えていますが、そうではありません。そのイスラエルに異邦人である私たちが、使徒パウロによれば「接ぎ木」されたのです。それは法的には「養子になった」ことを意味します。メシアニック・ジューのヨセフ・シュラム師はこう言っています。

ユダヤ律法には非常に面白い規定があります。実子は勘当できるが、養子を勘当することは決してできないのです。実際、私の両親は私が16歳の時に、イエスを信じたという理由で私を勘当しました。しかし養子だったら、勘当できなかったでしょう。異邦人は養子ですから勘当するという事ができません。ある意味で、ユダヤ人より異邦人の方が立場が強いのです。

  • これは使徒パウロのいうユダヤ人に「ねたみを起こさせる」ことの一例かもしれません。かと言って、異邦人である私たちが接ぎ木された枝に対して誇ることはできません。また私たち異邦人が根を支えているのではなく、根が私たちを支えているからです(ローマ11:18, 20,25等)。
  • ところでイエスは、弟子たちの質問に対してどのように答えたでしょうか。イエスは言われました。「それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています」(使徒1:7)と。「それは」とはイスラエルの回復(再興)のことです。そのことは決してどうでもよいことではなく、また反故(ほご)にされたのでもなく、確実に、御父がご自身の権威をもって定めておられることだとイエスは言われたのです。しかしその実現の時については、御父の独占決定事項であり、イエスも知らないし、だれも知ることはできないのだと言われたのです。ということは、エゼキエルによって預言された神の約束の実現は先送りになったことを意味しています。
  • つまり、神のご計画はこれまで啓示されてきた路線とは異なっているのです。旧約の預言者たちが語って来たことは先延ばしとなり、それまでとは異なる新しい路線になっているのです。旧約の預言者たちにも知らされていなかった事柄がはじめてここで示されているのです。ですから8節の冒頭には、「しかし」という強い意味の接続詞(「アッラ」άλλά )が使われています。これは神の啓示の新しい路線を意味します。イスラエルの回復と新しい霊が与えられる約束は先延ばしとなっただけであり、それは時が来たならば必ず実現するのです。このことを心に留めることはとても重要です。なぜなら、そこには神の心が隠されているからです。置換神学の弊害によってこの神の心が隠されてしまったことは残念なことです。
  • では一体、約束された聖霊のバプテスマは何のために与えられるのでしょうか。それは「わたしの証人(あるいは「証言者」)」、つまり「イエス・キリストの証人」となるためだとイエスは言われました。5節の「聖霊のバプテスマを受ける」ということを、8節では「力を受けます(受け取ります)」と言い換えられています。この力の賦与の目的は「証人」(「マルトゥス」μάρτυς)となることです。「マルトゥス」は殉教者という意味があります。命を賭けるほどに証言する力の賦与、それが「聖霊のバプテスマ」の意味であり、弟子たちに与えられた新しい使命です。その使命とは、単にイエスがよみがえられていつも私たちと一緒にいてくださるというだけのことではなく、イエスが聖書を通して説き明かしたように、神の永遠のご計画についての事柄の証人となることです。

(2) 「イスラエルの回復」という視点から見た「使徒の補充」

  • 「イスラエルの回復」というテーマを「使徒の働き」(使徒言行録)からもう少し検証してみたいと思います。使徒1章15節以降では、イスカリオテのユダがイエスを裏切ったことで使徒に欠員が生じ、その穴埋めをするために代わりの使徒を選ぶという事が記されています。しかしここは神の秘密が隠されている箇所です。特に、イエスを裏切った「ユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言されたことばは、成就しなければならなかったのです」という部分です。ユダが裏切ったことは、ある意味で神のご計画における必然性があったのです。
  • この必然性を探るに当たって必要なキーワードが「イスラエルの回復」なのです。その鍵を用いながら、「血の地所」と呼ばれる「アケルダマ」と、「12」という数にこだわる使徒ペテロに注目することで、はじめて見えてくることがあるのです。

①「アケルダマ」(血の地所)

【新改訳改訂第3版】使徒の働き
1:17 ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。
1:18 (ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。
1:19 このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。)

  • ここで重要なことは、ユダが自殺したその悲惨な姿ではありません。彼が買った地所が「アケルダマ」と呼ばれたことです。使徒の働きでは、ユダ自身がその土地を買ったかのように記されていますが、マタイの福音書27章1~10節を読むならば事情が少々異なります。

【新改訳改訂第3版】 マタイの福音書 27章3~10節
3 そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、4 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言った。5 それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。6 祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」と言った。7 彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。8 それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。9 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。10 彼らは、主が私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った。」

  • マタイの福音書によれば、地所を買ったのはユダではなく、祭司長たちでした。それをユダが買ったことにしているのです。しかもその地所は陶器師の畑であったものであり、そこを「旅人の墓地にした」とあります。そこがエレミヤの預言の成就と関連しているのです。
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  • 「アケルダマ」は「ベン・ヒノムの谷」にあります。そこはかつて「モレク」に自分の子どもをいけにえとしてささげた場所であり、「トフェテに築いた高き所」があった場所です。そこが「イエスの血で買った地所」だというところに深い意味があります。
  • 「旅人」と訳された原語のギリシャ語は「クセノス」ξένοςで、「外国人、在留異国人、寄留者」を意味します。彼らがエルサレムに上って来て死んだ時に、彼らの墓地として、イエスの血の代価が使われたことになります。これは預言的です。「旅人」は「散らされた羊の群れ」を象徴しています。つまり、イスラエルの家の失われた羊です。ちなみに、エルサレム教会の指導者であったヤコブが書いた手紙の宛先は、(ヤコブ)1章1節にある「国外に散っている12の部族」です。つまり使徒たちは、単なるユダヤ人のみならず、「散らされた羊の群れ」についても深く意識しているのです。それは旧約の預言者たちが全イスラエルの回復について預言しているからです。
  • ヨハネの福音書11章52節によれば、イエスの十字架の死は「散らされている神の子たちを一つに集めるため」だとあります。イエスを裏切ったユダも、また祭司長たちも、自分たちの意図しないところで、神の緻密なご計画の中で「アケルダマ」(血の地所)を買ったのです。このことと、ペテロが12部族を意味する「12」という数にこだわって欠員となった使徒を補充しようとしたことは密接なかかわりがあります。つまり、神の「全イスラエルの回復」が暗示されているのです。

②イスラエルの12部族の回復

  • 一つの問いとして、使徒ペテロはなにゆえに使徒職の地位を継がせるために欠員となった分を補充しようとしたのでしょうか。どうも「12」という数に大きな意味があるように思えます。そのこだわりは重要な意味を含んでいると思われます。
  • キリスト教会は「置換神学」の影響により、ユダヤ人に対する神のご計画と預言的啓示を軽視したため、神の奥義としてのイスラエルの回復が理解できなくなっています。それは黙示録にあるイスラエルの12部族の「14万4千人」に対する理解にも影響を与えています。黙示録の時代は、いわば異邦人の完成のなる時であると同時に、ユダヤ人イスラエルの救いが来る時です。特に、失われた10部族が出現し、ユダヤ人と合体して「全イスラエル(12部族)の回復」が実現します。14万4千人とは決して霊的クリスチャンを意味するのではなく、文字通り、イスラエルの12部族を意味しています。異邦人である私たちの目には不思議なことですが、これは預言されている神の確かなご計画なのです。それは使徒の働きの最初の章で、ペテロが、再度、使徒職の人数を「12」という数にセットした理由もそこにあると考えます。⇒「12」についてはこちらも参照ください。

6. エルサレムの中心性

  • 使徒の働き2章1節 には、「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。」とあります。「みなが一つ所に集まっていた」その場所とは、イエスが昇天されてから弟子たち(使徒たちと婦人たち、イエスの母、そして兄弟たち)がエルサレムで「泊まっている屋上の間」(1:13)であると考えられます。そこで「みな心を合わせ、祈りに専念していた」(1:14)のです。ここでの「屋上の間」とは、最後の晩餐をした場所ではありません。なぜなら、ルカの福音書22章12節の最後の晩餐をした「(大)広間」は「アナガイオン メガ」άνάγαιον μεγαというギリシャが使われており(新改訳、口語訳、新共同訳ではいずれも「二階の広間」と訳していますが)、イエスが特別にリザーブされた部屋です。しかし、使徒の働き1章13節の「屋上の間」とは使徒の働きにのみ使われている「ヒュペルオーン」ὑπερῷονという語彙が使われています(使徒の働き 1:13/9:37, 39/20:8)。ルカの福音書も使徒の働きもルカ自身が書いているわけですから、言葉が異なれば、違った場所(部屋)だと判断できます。弟子たちがずっと泊まっていた部屋は「ヒュペルオーン」ὑπερῷον です。ちなみに、使徒パウロが「屋上の間」で集会をしている途中でユテコという青年が眠りこんでしまい、「三階から下に落ちた」という話があります(使徒20:9)。ですから「屋上の間」(「ヒュペルオーン」)は「三階」だという事が分かります。いずれにしても、弟子たちがみな「一つ所」に集まっていた場所は「エルサレム」です。しばらく「エルサレム」という場所が神のご計画における重要な場所であることに心を留めたいと思います。

(1) 終わりであり、始まりであるエルサレム

  • 「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐに向けられ・・・」(ルカ9:51)とあるように、イエスのこの地上での旅路の終わりはエルサレムでした。そしてイエスはエルサレムから天に帰られ、再び、そこへ戻って来られます。それまでの期間こそ「教会時代」です。イエスが昇天される前に、弟子たちと一緒に食事をしているとき「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(使徒1:4)と言われました。神のご計画において「エルサレム」はきわめて特別な場所です。なぜならそこから聖霊による神の新しいみわざが始まるからでした。そのはじまりは突然のように見えますが、神のご計画においては「七週の祭り」の真っ盛りというきわめて必然的な時だったのです。
  • 「七週の祭り」、すなわち「五旬節」には、あらゆる諸国に離散している多くの敬虔なユダヤ人たちがエルサレムに集まって来ていました。そしてイエスの弟子たちが聖霊のバプテスマを受けた(聖霊に満たされた)とき、彼らは「御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだし」ました。その話の内容は「神の大きなみわざ」のことでしたが、祭りのためにエルサレムを訪れた人々は、それぞれ自分たちの国の言葉でそれを聞いたのでした。彼らは互いにあっけにとられ、驚いたのは言うまでもありませんでした。この出来事はきわめて象徴的です。それはやがてあらわる国の人々が神の福音(神の大きなみわざ)を聞くことになるからです。弟子たちが「御霊が話させてくださるとおりに語った」ことは、やがてあらゆる国々の人々、すなわち、「七週の祭り」にささげられる「二つのパン」に象徴される「ユダヤ人と異邦人」が、神の福音を聞くことになる預言的出来事だったと言えます。

(2) 母なる教会としてのエルサレム

  • 「エルサレム」は、「シオン」「神の都」「聖所」「聖なる山」とも呼ばれますが、エルサレムこそ教会が誕生した場所であり、その教会は永遠の母なる教会なのです。
  • ある牧師が「世界にはいくつの教会がありますか?」と質問しました。答えは「一つ」です。とすれば、日本にも、世界にも教会はただ一つしかありません。その教会はどこにあるのでしょう。それはシオン(エルサレム)にです。この答えは私にとってパラダイム転換を迫られるものでした。教会の本質、神の救いの歴史の見方や考え方を根底から転換するものとなりました。教会はエルサレムで誕生し、私もその中に「生まれた」のです。私にとってエルサレムは真の母教会です。キリストにあって神の子どもとされた者のルーツはエルサレムにあります。いくつも枝分かれしながら、連綿と流れてきた教会のルーツはエルサレムにあります。そこから神の福音は宣べ伝えられ始めました。エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てにまで伝えられていきますが、やがてはその地の果てからすべての者がエルサレムへと向かって集まって来るのです。これは神のご計画であり、その中心に永遠の都「エルサレム」があるのです。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書2章2~3節
2終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
3 多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。


7. 「専心性」という霊性の回復

  • 「五旬節」を境に、使徒たちの中に神に対する「専心性」という霊性が明示されているように思います。それは使徒1章14節の「専念していた」という言葉が示しているものです。

【口語訳】ひたすら祈りをしていた。
【新改訳】祈りに専心していた。
【新共同訳】熱心に祈っていた。
【塚本訳】祈りに余念がなかった。

  • 原語の「プロスカルテレオー」προσκαρτερεωは、「~に接して、くっついて、~の近くに」を意味する接頭語の「プロス」προςと、「ゆるがないで忍耐強く続ける、専念する、あることに固執する、しっかりととどまって動かない」という意味の「カルテレオー」καρτερεωとの合成語です。新約聖書では10回の使用頻度ですが、そのうち6回が使徒の働きで使われています(1:14/2:42, 46/6:4/8:13/10:7)。人とのかかわりにおいては、側近とか、いつもくっついているというイメージですが、神とのかかわりにおいては、神の心により近く、そこにとどまり、忍耐深く専心するイメージです。それが使徒たちの生き方の特徴、霊性の特徴となっているのが見えます。特に、教会の中に問題が生じたときに、優先順位を明確にして、「私たちは祈りとみことばの奉仕に専念します」と言ったところの霊性です。それが教会全体に大きな影響を与えています。使徒2章42節、46節では弟子たちが毎日、心を一つにして、ひたすら、専念した事柄を記しています。その内容は「使徒たちの教え」を学び、交わりをし、食事をし、祈りをし・・・といったことでした。あることに「専心する、専念する、それを続行する力」が初代教会を特徴づけていました。
  • 神とのかかわり、人とのかかわりにおいても、明確な優先順位を定めて、それを崩さないで建て上げていく霊性は今日の教会においても問われるところです。そのような生活をするためには、よりシンプルな生活が求められます。
  • 神のことばに対しても、私たちはもっとも多くの時間をかけ、またより正確に読まなければなりません。専心するということがどういうことかを学ばなければなりません。この専心性はいろいろな言葉で表現することができます。例えば、常に御父にとどまっておられた御子イエスの霊性、それは「父の家に住む」という表現になります。それは生涯をかけて求めたダビデの霊性でした(「一つのことOne Thing」詩篇27:4)。またそれは「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」マリヤの霊性(ルカ10:39)でもあります。さらには「捕えようとして追求し、ひたむきに前に向かって進む」パウロの霊性(ピリピ3:12~13)です。これらはみな使徒たちと同様の「専心性」の霊性です。現代の教会は、この「五旬節」の恵みを、御霊によって回復していただく必要があるように思います。


脚注1
画像の説明

脚注2
ローマ・カソリック教会は「新約にある信者は安息日を含め、 主の例祭を祝わないように、祝う者は信者間の交わりから除名する。」との通告を出しました。この通告は、キリストのからだである教会からユダヤ的ルーツを一掃することを意図したものでした。「ニカヤ公会議」(A.D.325年)において、主催者であったコンスタンティヌス皇帝は当時のユダヤ的ルーツを継承していた教会指導者を招待しませんでした。そのために、キリスト教会は元木であったユダヤ的な教会から切り離され、ヘレニズム(異教)化の道に進んでしまったのです。このことは今日に至るまで多大な影響を与えています。それゆえ今日、再びユダヤ的・ヘブル的ルーツに戻る必要性が叫ばれているのです。


2013.1.29


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