****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

マトリックス的瞑想法の実際(1)ー「アドヴェントのための瞑想」

23. マトリックス的瞑想法の実際(1)ー「アドヴェントのための瞑想」

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はじめに

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  • 今年もアドヴェント(待降節)が近づいてきました。今回のセミナーでは、上記に示した図にあるように、「ベツレヘム」という地名に関する「マトリックス的瞑想」を試みたいと思います。そしてそこに隠されている神の秘密に触れてみたいと思います。「マトリックス」とは物事が互いに密接なつながりをもって関連していることを意味します。
  • クリスマスの賛美歌―

    #「世界で初めのクリスマスは、ユダヤのいなかのベツレヘム」(「友よ歌おう」)

    #「神の御子は今宵しも ベツレヘムに生まれたもう」(讃美歌)

    #「ああ、ベツレヘムよ 聖き御子よ」(讃美歌)
    などをはじめ、クリスマス・キャロルの中には「ベツレヘム」という固有名詞が多く見られます。「ベツレヘム」はヘブル語で「ベート・レヘム」で、「パンの家」という意味です。ということは、そこが昔から小麦や大麦などの穀物の産地だったと言えますが、それだけではなく、「ベツレヘム」は神の救いのドラマにおいて多くの秘密が隠されている地なのです。

  • クリスマスというと、どうしても私たちの注目はイェシュア(イエスのヘブル名ですが、以下、イェシュアという名前を使います)が私たちの救い主としてお生まれになったという事実に向けられることが多いため、イェシュアが生まれた「ベツレヘム」という場所についてはそれほど関心が向けられず、注目されてもいません。しかしこの「ベツレヘム」という場所こそ、救いのドラマにおいてきわめて重要な神の戦略的な場所なのです。聖書にあるクリスマス物語のすべてが、「ベツレヘム」という惑星を中心に回っている衛星のように位置づけられているのです。
  • 今回の「霊性の回復セミナー」の瞑想のポイントは、「ベツレヘム」という一つの場所にスポットを当てながら、神の目線から「ベツレヘム」に関連する出来事を通して、神の救いのドラマのすばらしさを味わうことにあります。つまり、「なぜイェシュアはベツレヘムで生まれたのか」、あるいは「なぜイェシュアはベツレヘムで生まれなければならなかったのか」という必然性を問うことによって、神のドラマには多くの歴史的な事柄が実に緻密なつながりをもっているという事実(その関連性の計り知れない知恵の深さの一端)に触れることです。そのような聖書の読み方と瞑想に触れるためのセミナーです。
  • そしてそのような読み方(瞑想)が目指す目標は、第一に、主にある私たちが乳や離乳食を卒業して堅い食物を食べることができるまでに成長すること。第二に、クリスマスの過ごし方を個人的にも教会的にも、奉仕や働きに終始する「マルタ型クリスマス」から、静まって神の御言葉を黙想することに専念する「マリヤ型クリスマス」へと少しずつ転換していく勇気を持つことです。
  • これまで何度もお話ししているように、神の隠された真理はそれを尋ね求める者に開かれます。表面的に聖書を読んでいるだけでは、決してその深いところにあるものを掘り出すことはできません。イェシュアは「神の国の支配」について多くのたとえ話を用いて語られました。なぜたとえ話で語られたかと言えば、それは多くの者たちがよく理解できるためではありません。そうではなく、むしろその話の意味を自ら問うことがなければ、決してその意味は明らかにされないような仕掛けになっているのです。神である主の秘密は尋ね求める者たちの「問いかけ」によってはじめて見出されるのです。

1. 皇帝アウグストの勅令

  • 最初の私の「問いかけ」は、イェシュアの誕生がなぜ皇帝アウグスト(アウグストゥス)の住民登録の勅令の時期であったのかということです。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3:11)とするならば、イェシュアの誕生という出来事はまさにそうあってしかるべきです。
  • イェシュアは、歴史的に意味のある時期に、しかも絶妙なタイミングで誕生しているのです。誕生それ自体が重要であって、それがいつであっても同じことだと考えているならば、ルカがここで伝えようとしているメッセージは見逃されてしまうかもしれません。この福音書は「テオピロ」というローマの高官のために書かれたものであることを忘れてはならないと思います。つまり、彼は当時の世界を支配したローマの実情をよく知っている存在なのです。
  • 後で触れることになりますが、イェシュアの誕生の地は「ベツレヘム」であるということが旧約聖書のミカ書5章2節で預言されています(マタイ2:4~6も参照)。イェシュアの両親はナザレで生活していましたが、預言によればメシアはダビデの出生地であるベツレヘムで生まれなければならなかったのです。
  • 「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出・・」(ルカ2:1)なければ、ヨセフとマリヤはベツレヘムに行くことはありませんでした。しかもその旅、つまりナザレからベツレヘムまでの距離はなんと220キロにも及ぶ旅であったと言われます。皇帝が全く意識することもなく発令した住民登録の命令が、神の主権的なご計画の中で、ナザレにいたヨセフとマリヤをベツレヘムへと移動させたのです。微妙なタイミングです。すでにマリヤの胎の中にはイェシュアが聖霊によって宿っていました。少しでもタイミングがずれたならば、イェシュアはベツレヘムで生まれることはなかったのです。まさに歴史の中に神がご介入された絶妙なタイミングでした。ですから、最初の瞑想のキーワードは「そのころ」としたいと思います。もし、「そのころ」ということばがなかったとすれば、「むかしむかし、あるところに」という昔話となんら変わらないものになってしまいます。

(1) 「そのころ」と言われる時代

  • しかし歴史的な物語だというだけでは、なぜ「そのころ」(1節)とあるように、皇帝アウグストの勅令が出た時代にイェシュアが誕生したのかという問いについて、ルカがここで言わんとしているメッセージが伝わってきません。皇帝アウグストがローマ全土(これを聖書は「全世界」と表現しています)に住民登録を命じた時代は、事実上、ローマによる平和(ラテン語で「パクス・ロマーナ」Pax Romana)が実現していた時代です。つまり、それまでの共和制による派閥の争いの時代から平和の時代を迎えた、そうした時代です。なぜそのような平和な時代にイェシュアが誕生されたのでしょうか。そこには深い意味があります。ルカは実は巧みにその答えを伝えようとしているのです。
  • 「皇帝アウグスト」―これはローマの初代皇帝となった「オクタヴィアヌス」に対する尊称として与えられた呼称です。ローマ暦では皇帝の誕生月を新年としました。「オクタヴィアヌス」の誕生月は8月(Augustus)です。ですから彼のことを、「皇帝アウグスト(アウグストス)」と呼んだのです。彼の養父は、共和制ローマの末期に終身独裁官となったガイウス・ユリウス・カエサルでした。彼は自分が「終身独裁官」と宣言したために殺害されました。「プルータス、お前もか。」という有名なことばは、このとき自分を裏切った親友に対して語ったカエサルのことばです。カエサルの後継者としてローマの初代皇帝となったアウグストによって実現した「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)は、言うなれば、軍事的な力によって打ち立てられた平和でした。人々は、皇帝アウグストこそ共和制による覇権争いのすべてを終わらせた「救い主」(ソーテーリア)だと信じていました。ところが「そのころ」、もうひとりの「救い主」が「ダビデの町」、すなわち「ベツレヘム」に誕生した(ルカ2:11)ことをルカは伝えようとしているのです。もうひとりの「救い主」とはイェシュア・メシア(イエス・キリスト)のことです。
  • 当時の人々は、「皇帝アウグスト」こそ全世界のための「ソーテーリア」(救い主)だとして歓迎し、彼の統治こそ「エウアンゲリオン」(福音)の始まりだと考えていたのです。それがルカ2:1の「そのころ」ということばが意味していることです。

(2) ルカは皇帝アウグストと幼子との対比を明確に意識しながら書いている

  • ルカは、当時の政治的・社会的な状況とイェシュアの誕生によってもたらされる出来事を対比する語彙を意識的に用いています。以下に掲げる語彙は皇帝アウグストに対して当時の人々が使っていました。
    主「キュリオス」κύριος
    福音を伝える「エウアンゲリゾマイ」εύαγγελίζομαι 
    (名詞は、福音「エウアンゲリオン」εύαγγέλιον)
    救い主「ソーテーリア」σωτηρία
    平和「エイレーネー」είρήvη
  • ルカは、意識的にこれらの語彙を「飼葉おけに寝ておられるみどりご」に対して使っているのです。同じことばでも、使われる意味合いは全く異なっているのです。

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2. 「ミカ書の預言」―ベツレヘムからイスラエルの支配者(牧者)が出るー

  • 次に、イスラエルに偉大な支配者が生まれることを預言したミカの預言に目を移したいと思います。

【新改訳改訂第3版】
5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

5:4 彼は立って、【主】の力と、彼の神、【主】の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。

  • 「エフラテ」とは、「ベツレヘム」の別名、あるいは、ベツレヘムにきわめて近い場所にあったと考えられています。以下の二つの聖書箇所がその根拠です。
    ①ルツ 4:11で、門にいた人々と長老たちはみな、(ボアズに)言った。「私たちは証人です。どうか、【主】が、あなたの家に入る女(ルツ)を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげなさい。・・・」とある。
    ②創世記48:7に、ヤコブはラケルを、エフラテ、すなわちベツレヘムへの道のその場所に葬ったとある。
  • ミカはイザヤと同時代に登場した預言者です。その預言は北イスラエル王国と南ユダ王国の両方に対して語られています。実は、この預言が両国に対して語られている点が重要なのですが、ここではそれについてあえて触れません。むしろ、ミカの預言の中で、神が「ベツレヘム」という小さな町から、この世に真の支配者が出ることを約束しているという点に注目したいと思います。「最も小さな部族」から、「神ご自身のために」、しかもそれは「昔から、永遠の昔からの定め」だとしています。つまり、変更されることのないご計画として「ベツレヘム」が神のために、神によって選ばれているのです。神の不変の選びのゆえに、イェシュアはベツレヘムで生まれなければなりませんでした。

3. 東方の博士たちの来訪

(1) 不思議な星を見て、ユダヤ人の王を礼拝にしに来た東方の博士たち

  • さて、そのベツレヘムに、東方から博士たちが不思議な星を見てやって来たことをマタイの福音書2章が記しています。最初、彼らは不思議な星に導かれてユダヤのエルサレムにあるヘロデ王の宮殿にやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねます。東方の博士といえば、ユダヤの世界から見るならば異邦人です。その異邦人である彼らが不思議な星を見て、なぜその星が「ユダヤ人の王である方の星」だと判別できたのでしょうか。しかも、彼らが王にささげるにふさわしい贈り物を携えて、遠路はるばるエルサレムに「ユダヤ人の王である方」を捜し、その方を礼拝しにやって来たというのはまことに不思議なことではないでしょうか。
  • 最も驚いたのは、当時の王であったヘロデです。そんなことをだれからも聞いていなかったからです。ユダヤ人の王の誕生の話を聞いたヘロデ王は、「恐れ惑った」とあります。新共同訳では「不安を抱いた」、塚本訳では「うろたえた」と訳しています。使われているギリシャ語は「タラッソウ」ταράσσωで、「恐れて、ひどく動揺する、恐怖が襲う」ことを表わす動詞です。ヘロデ王だけではありません。エルサレム中の人も王と同様であったとあります。この世界に二つの太陽は必要としないように、一つの国に二人の王が存在するということはあり得ないからです。ヘロデ王は学者たちをみな集めて、キリストはどこに生まれるのかと問いただしました。すると、ベツレヘムからイスラエルの民を治める支配者が出ると預言されていることが分かりました。ヘロデ王は「ひそかに」博士たちを呼んで彼らから星の出現を突き止めました。なぜ「ひそかに」なのか。それは星の出現の時間を知ることで、いつ頃に生まれたかが分かるからです。ヘロデはそれを興味本位に聞くために「ひそかに」博士たちを呼んだのではなく、その「ユダヤ人の王として生まれた幼子」を殺そうと思い計ったからです。
  • ところで先ほどの疑問、つまり東方の博士たちが不思議な星を見て、なぜ(どうして)その星が「ユダヤ人の王である方の誕生を告げる星」だと分かったのかという点です。しかもその星が、ユダヤ人の王として生まれた場所、すなわちベツレヘムへと彼らを先導したのです(マタイ2:9)。
  • 東方の博士たちは「星」を見たとありますが、それは単なる「星」ではなく、特別な「星」だったようです。この星の正体についてはいろいろな説があります。その中には、星と星が重なって見えたのだという説や、ある星が突然大爆発を起こすと何千倍にも明るく輝く時があることから、そのような星ではなかったのかという説など・・。いずれも決定的な説とは言えません。驚くべきことは、博士たちがその「星」をユダヤの王の誕生を示す星だとみなしたことです。ちなみに、「星」ということばは旧約で37回使われていますが、ひとつを除いてすべて the starsとほとんど複数形で使われています。しかしここ民数記24:17だけはa star כּוֹכָב(コーハーヴ)と単数形なのです。つまり「一つの星」なのです。

(2) バラムの預言―民数記24章15~19節「ヤコブから輝き出る一つの星」―

  • なぜ、彼らがその星とキリスト(メシア)の誕生を関連づけることができたのでしょう。そのヒントが民数記にあります。民数記24章に、東方の預言者バラムが語った有名なメシア預言が以下のように記されています。

【新改訳改訂第3版】民数記24章17節
私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。
ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、
モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。

  • 17節を他の訳では次のように訳しています。
    (1)【新共同訳】「ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏がイスラエルから立ち上がる」
    (2)【関根訳】「ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから支配者の杖が起こる」
    (3)【岩波訳】「ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一つの笏が上がる」
    (4)【LB訳】「イスラエルから一つの星が輝き出ます。一人の王が起こり・・」
  • この預言はヘブル語特有のパラレリズム(並行法)で語られています。つまり、「ヤコブの子孫から一つの星が上る」ことと、「イスラエルから一本の杖(支配者の権威をあらわす象徴、あるいは笏は王の権威をあらわす象徴)が起こる」ことは同義だということです。しかも、星が「上る、進み出る、輝き出る」と訳されたヘブル語動詞は「ダーラフ」(דָּרַך)、杖(笏)が「起こる」と訳されたヘブル語動詞は「クーム」(קוּם)、いずれも完了形です。ヘブル語ではまだ事が完了していなくても、必ず実現されることは完了形で表わされます。この預言を語ったのは異邦人の預言者バラムという人ですが、誰に対して語ったかというと、自分を招いたモアブの王に語った預言なのです。
  • ここでバラムの預言が語られた背景について考えてみたいと思います。
    イスラエルの民がエジプトを出てから40年間、不信仰のゆえに荒野をさまよいます。そしてその時が終わる頃には、第一世代の者はほとんど死んで、第二世代の時代に入っていました。神が約束された国カナンに入って行く前に、神は第二世代がカナンに住む者たちと戦うその戦いを訓練するために、ヨルダン川の東側にある国々と戦いをさせます。いわば、本格的な戦いの前哨戦ともいうべき戦いです。その最初の戦いはエモリ人の王シホンとの戦いでした。その前に、モーセはシホンに使いを送って「どうか、あなたの国を通らせて下さい。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。ただ通過するだけです。」と願いました。ところがシホンはそれを許さず、イスラエルを迎え撃ち、戦いました。ところが、イスラエルの方が勝ってしまったのです(民数記21:22)。そしてイスラエルはエモリ人が住むところを攻め取りました。さらに、北にあるバシャンの王オグにも勝利し聖絶したのです。その後、イスラエルの民はヨルダンのエリコを望む対岸のモアブの草原に宿営しました。
  • そうした状況を見たモアブの王バラクはイスラエルの民に対して恐れおののきました。そこで彼はまともに戦っては勝算がないと考え、同族に当たるユーフラテス河畔の町に住む預言者バラムを招こうとして使者を送り、イスラエルの民を呪ってほしいと頼みました。するとバラムは、「主が私に告げられることを答えましょう。」と応えます。すると神はバラムに言われました。「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民(イスラエルの民)を呪ってはならない。その民は祝福されているからだ。」そこでバラムは使いの者たちを帰しました。ところがモアブの王バラクはあきらめません。前よりも大勢の、しかも位の高いつかさたちを遣わしました。そしてバラムに、「手厚くもてなしますから、言いつけられることは何でもしますから、どうか来てイスラエルの民を呪ってください」と頼みました。それを聞いたバラムは、「たとえ銀や金の満ちた家をくれても、私は主のことばに背くことはできません。主が私に他のことをお告げになるかどうか確かめますから、今晩、ここにとどまっていてください」と言います。すると夜、神はバラムに現われて言われました。「この者たちがあなたを迎えに来たのなら、立って彼らとともに行きなさい。ただし、あなたは、わたしがあなたに告げることだけを行いなさい。」 朝になってバラムは起き、ロバに鞍をつけてモアブのつかさたちと一緒に出かけたのです。ところがどうしたわけか、神の怒りが燃え上がって、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがったのです。このあたりの詳しい話は、民数記22章を参照のこと。
  • バラムとバラクの使いの者は一緒に進んでモアブに行きました。モアブの王バラクはバラムが来たことで大変喜びました。ところが、いざイスラエルの民を前にした預言者バラムは、イスラエルを呪わずに、なんと祝福してしまうのです。そんなことが三度あり、三度ともイスラエルを祝福してしまったので、バラクはバラムに対してカンカンに怒ってしまいました。その後に付け加えられた預言の中に先の「メシア預言」があるのです。それが実は、民数記24章17節のことばなのです。
  • 24章17節のミカの預言は、後の(250年後)ダビデ王によってある意味では成就しています。なぜなら、ダビデの時代には「モアブがダビデのしもべとなった」(Ⅱサムエル8:2)からです。また、ダビデが王となった時代には、西のペリシテ人、北のアラム人、アモン人、南のエドム人、そしてアマレク人もまたイスラエルの支配のもとに置かれることになったからです(Ⅱサムエル8:14)。しかしダビデはひとつの型であって、この民数記のバラムの預言の本体(本型)は、ダビデの後に約束されたメシア、すなわちイェシュア・メシア(イエス・キリスト)に関する預言だったのです。「ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こる」というメッセージをもったその「一つの星」とは、ミカが預言した「イスラエルの支配者」を同じく指し示していると言えます。バラムの預言とミカの預言が関連し、かつ一致しているのです。
  • 東方の出身であるバラムのこの預言は、バラムの住む国であるユーフラテス流域のメソポタミヤ地方で長年にわたって言い伝えられていたということが考えられます。したがって、マタイの福音書2章で記されているように、東方の博士たちがひときわ輝く不思議な星を見たとき、かつてバラムが預言したことが成就したことを確信し、王である方を礼拝するためにエルサレムを訪ねることになったと言えるのです(マタイ2:2)。
  • このことはきわめて象徴的です。というのは、イェシュアの来臨がずっと以前からユダヤ人にだけでなく、異邦人にもこのように示されるのが神のみこころだからです。やがてイェシュア・メシアの福音とその王国の支配はユダヤの国境をはるかに越えて広がることになっていくことをすでに私たちは知っていますが、この預言をしたバラムが異邦人の預言者であったということが重要な点であると思います。
  • 創世記12章にある神のアブラハムヘの約束の中に次のようなことばがあります。
    12:3 「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」―バラムはイスラエルを祝福したことによって、異邦の人々に主の祝福をもたらしたと言えます。

4. 羊飼いたちー「ミグダル・エデル」(羊の群れの塔)

  • ルカの福音書によれば、イェシュアの誕生のニュースを最初に知らされたのは羊飼いでした。彼らは急いでベツレヘムに行って生まれたばかりのイェシュアを見たのです。世界ではじめのクリスマスですが、ここで登場する羊飼いたちの存在に神の秘密が隠されています。
  • ルカは2:8で「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた」と記しています。「この土地」とはいったいどんな土地なのでしょうか。どこの場所なのでしょうか。御使いの知らせを聞いた羊飼いたちは2:15で「さあ、ベツレヘムに行って、・・この出来事を見て来よう。」と言っていますから、「この土地」というのはベツレヘムではないことが分かります。かといって、「急いで行って、・・捜し当てた」とありますから、それほど遠く離れてはいない場所です。そもそも、羊飼いたちはどこにいたのでしょうか。これまでにそのようなことを私は考えたことがありませんでした。しかし、小さなことにこだわると、不思議と神の隠された秘密が見えてくるのです。

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  • 創世記35:21(16~21)に、「ミグダル・エデル」(羊の群れの塔) と呼ばれるところがあります。「ミグダル」は「塔、やぐら、とりで」を意味し、「エデル」は「家畜や羊の群れ」を意味します。つまり、「ミグダル・エデル」とは「羊などの群れを管理する塔」のことです(写真参照)。ミグダル・エデルのあるこの地域(ベツレヘムの辺り)は、約束の地として与えられる前のヤコブの時代から、羊の世話をする場所として知られていたのです。救い主がお生まれになるという預言が与えられる前から、ベツレへムは特別な場所として、神が確保されていた所なのです。
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  • やがてイスラエルでは約束の地で、幕屋や神殿で用いられるいけにえがささげられますが、そのいけにえとなる羊は「傷のない羊」でなければなりませんでした。つまり、品質の良い、良く管理されて育てられた最高の羊が必要とされました。そうした羊を育てる場所がベツレヘム近郊にあったのです。「ミグダル・エデル」はそのようないけにえとなる羊の重要な供給所だったのです。
  • ユダヤ人で新約学者であるイーダーシャイム(Alfred Edersheim)という人は「イエスの生涯と時代」(The Life and Times of Jesus the Messiah )という本の中で(かなり古い本で出版されたのは1890年頃。英語版入手可能)、ベツレヘム郊外にあるミグダル・エデル(見張りの塔)の傍の羊の群れは、普通の群ではなくて、エルサレムの神殿に捧げるための特別な群れであること、羊飼いたちも特別な使命のための人々で、しかも、年間休み無く羊を見守っていたことを指摘しています。また、普通の羊飼いは、夕方になると羊を囲いの中に入れて、自分たちは天幕の中で寝てしまうのが普通でした。夜に焚き火を焚きながら、野宿してまで羊を見守るということは尋常なことではなく、むしろ特別なことであったようです。「傷のない羊」を育てるために、品質管理を何よりも自分たちの使命とする忠実な羊飼いだったからこそ、「野宿で夜番をしながら羊の群れを見守って」(2:8)いることができたのです。
  • ちなみに、中世から20世紀の第2バチカン公会議にいたるまでカトリック教会のスタンダードであり続けた「ウルガータ」訳全聖書を翻訳したのはヒエロニスムという人です。彼は居をベツレヘムに移して、そこで翻訳の仕事を完成させたと言われていますが、彼もイーダーシャイムと同じようなことをすでに語っていたと言われます。ちなみに、ヒエロニムスは420年にベツレヘムで没しています。
  • 「ベツレヘム」は山の上にあり、エルサレムとほぼ同じ海抜760mです。温暖な地中海気候で、夏の平均気温は23度、冬でも14度と言われています。現在も肥沃な土地であり、イチジク、ブドウ、オリ-ブなどが栽培されているようです。気候的には快適な場所のようで、私もそんなベツレヘムにのんびりと身を寄せてみたくなります。
  • 主の使いは、そのようなベツレヘム近郊にある「ミグダル・エデル」にいる羊飼いたちのところに現われたのです。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(2:11)。 この知らせを聞いた羊飼いたちは、急いでベツレヘムに行き、自分たちをはるかに越えた偉大な羊飼い(大牧者であるメシア)となる方と対面したのです。しかもその方は、やがて人類の罪の身代わりのいけにえとなるべき「傷なき小羊」でした。「ミグダル・エデル」にいた彼らが、ベツレヘムで真っ先に、まことの大牧者であり、しかも同時に「傷なき小羊」として死なれる幼子イェシュアを礼拝したことは、神の救いのドラマにおける驚くべき啓示だったと言えます。
  • イスラエルにおいては、羊飼いは必ずしも身分の低い見下げられた職業ではありません。イスラエルの歴史おいて登場する人物はみなすばらしい羊飼いでした。アベル、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデなど、彼らはまさに羊飼いであり、人々から尊敬されていた指導者でもありました。良い羊を育てることは、良い羊飼いしかできません。「ミグダル・エデル」の羊飼いたちが、やがて真の良い羊飼いとなられるイェシュアとベツレヘムにおいて合流しているのは神のドラマにおけるすばらしい啓示です。それに加えて重要なことは、そのベツレヘムがイスラエルの王となったダビデの登場する町だったということです。

5. ダビデの町ベツレヘム

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  • 聖書では、「ダビデの町」という表現が、ダビデが生まれ育った場所としての「ベツレヘム」を指す場合と、ダビデが神の都として選んだ「エルサレム」を指す場合とがあります。今回は前者の意味で取り上げています。
  • ダビデはユダのベツレヘムのエフラテ人でエッサイという名の人の息子でした(8人の息子の末っ子)。琴が上手な音楽家であり、かつ勇士であり、戦士です。ことばには分別があり、体格も良い人でした。そして重要なことは、ダビデが父の羊を飼う羊飼いであったという事実です。預言者サムエルはこのダビデに王となるべく油を注ぎました。
  • ダビデはベツレヘムにおいて父の羊を飼う羊飼いの働きをすることによって、知らず知らずのうちに、やがてイスラエルの理想的な王となるべく訓練を受けていたのです。イスラエルの理想的な王とは、牧者の心をもった王のことです。ダビデはまさにそのモデルでした。
  • しかし、王制を導入したイスラエルの歴史において、王たちは牧者の心を次第に失っていきました。バビロンで神のことばを預言したエゼキエルは34章で次のように語っています。少し長いのですが、引用してみたいと思います。新共同訳ではこの箇所の見出しのタイトルを「イスラエルの牧者」としています。

【新改訳改訂第3版】エゼキエル書34章2節~16節

2 「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。3 あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。4 弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。5 彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。6 わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。7 それゆえ、牧者たちよ、【主】のことばを聞け。  
8 わたしは生きている、──神である主の御告げ──わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。9 それゆえ、牧者たちよ、【主】のことばを聞け。10 神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。

11 まことに、神である主はこう仰せられる。
見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して世話をする。13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。─神である主の御告げ― 16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う

  • ベツレヘムはダビデの育った町であり、ダビデを育てた町でもあります。ダビデはイスラエルのまことの牧者の心をもった王のモデルでした。やがて一千年後に、ダビデの町ベツレヘムに、ダビデに勝るところの真の王であり、永遠の大牧者となられるイェシュア・メシア(イエス・キリスト)が生まれることになるのです。そしてその永遠の大牧者、真の王は、「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。・・・・わたしは正しいさばきをもって彼らを養う」ことを実現してくださるのです。
  • 大自然のすべての存在が独自で存在することなく、すべてが何らかのつながりをもって存在しているように、神の救いのドラマもすべての事柄がどこかと緻密につながりをもっているのです。それが隠されているので、そのつながりの豊かさを私たちはなかなか見出し得ることができないのです。しかし、知り尽くしがたい、計り知れない神の知恵と神の支配が聖書の中に隠されています。そしてそれを捜し、尋ね求めようとする者には、神がその隠されたいのちのつながりを聖霊によって私たちに教えてくださると、私は信じます。

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6. ルツ記物語の預言的啓示―パウロのいう「新しいひとりの人」の概念

(1) 置換神学の弊害

  • 「ベツレヘム」に啓示されている最後の瞑想は、今回の瞑想の中でも特に重要な事柄です。それはルツ記物語に隠されている預言的啓示のゆえであり、使徒パウロが奥義として示された「新しいひとりの人」の概念と結びつくからです。しかし、今日のキリスト教会の多くがまだこのことの重要性に目が開かれていません。それはなぜかと言えば、聖書をユダヤ的、ヘブル的視点から読んでいないからです。キリスト教がローマの国教となって以来ずっとユダヤ的、ヘブル的視点が切断されてしまっているからです。異邦人のキリスト教会がユダヤの根(ルーツ)に接ぎ木されているという聖書の主張を切り捨てて、イスラエルを教会に置き換えてしまった「置換神学」によって聖書を読んできているからです。イスラエル=教会、これが置換神学の理解です。旧約聖書の「イスラエル」を異邦人のクリスチャンが自分たちのこととして置き換えてしまっているのです。
  • ローマ皇帝コンスタンティヌスの時代にニカイヤ会議が開かれて三位一体の教義などが決議されたのですが、このときユダヤ教からキリスト教を完全に分離する決議もなされたのです。つまりユダヤ的・ヘブル的ルーツが完全に削がれてしまったのです。この出来事は実に大きな弊害をもたらしました。皇帝コンスタンティヌスの母后であるヘレナが政治的な権力をもって、後にゴルゴタの場所を神殿の西側に聖地として定めたことは、その弊害の一つと言えるかもしれません。聖書を検証すれば、ゴルゴタが西側にあることはあり得ないからです。
  • 聖書において「東」の方角はきわめて重要です。神を礼拝する幕屋も神殿も入り口は東側です。入口は一つしかありません。かつて人は神に罪を犯したがゆえにエデンから追放されましたが、それはは東側にある門からでした。従って、再びエデンの園に入るためには「東側」からでなければなりません。キリストが再臨されるとき、どこに来られると聖書は記しているでしょうか。それはエルサレムの神殿の東側にあるオリーブ山です。神と人とが出会う方角は常に東側なのです。そこにゴルゴタの十字架が立っていなければなりません。西側ではありません。
  • 東方の博士たちが東からやって来たのは決して偶然ではありません。必然性があるのです。マタイがその福音書の2章で、「東」「東方」ということばにこだわっているのは、神の救いの歴史は追放されていた人間が神へとたどり着き、神と出会うということにおいて、「東」「東方」ということばがキーワードとなっているからです。マタイの福音書2章の東方の博士たちが王となられる方に出会ったことは、そのことが成就したことを象徴的に表わしていると言えます。
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  • ところで、「東」というヘブル語は「ケデム」קֶדֶם、「東の方、東側」は「ケーデム」קֵדֶםです。いずれも名詞です。「東」が太陽の上って来る方角であることから、これらの単語の元になっている動詞の「カーダム」קָדַםは、「会う」「迎える」「出迎える」という意味を持っています。しかも動詞の場合には強意形のピエル態が使われています。
  • イェシュアが「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。」(ヨハネ10:9)と言われたその門は、幕屋においても、神殿においても、そしてエデンの園においても東側にあるのです。
  • このようなことをお話しするのは、旧約と新約のすべてがひとつにつながっているからです。異邦人である私たちがそのルーツであるユダヤ的、ヘブル的視点を持つとき、聖書の本来意図しているメッセージが見えてきます。

(2) ルツ記の預言的啓示

  • ルツ記の物語は、飢饉という神のさばきによって、神が与えたベツレヘムから一つの家族が東にあるモアブに逃れます。そしてやがて飢饉が終わって、故郷のベツレヘムが祝福されたことを聞いて戻ってきます。方向としては東から西です。そのとき戻ってきたのは、ユダヤ人のナオミと異邦人ルツの二人でした。ルツがナオミに「すがりついた」ということばは、ルツ記1章のキーワードです。「すがりつく」というヘブル語は「ダーヴァク」דָּבַקで、創世記2章の最後にある「ふたりは一体となった」という夫婦が「一体となる」という意味です。
  • 実は、このルツ記は異邦人のルツがすがりついたことで、ユダヤ人のナオミに子孫ができ、そこからダビデが生まれ、イェシュア・メシア(イエス・キリスト)が生まれてくるのです。そのためにはルツが子を産まなければなりませんが、子を産む前に異邦人のルツがユダ族につながる者と結婚しなければなリません。そこに神の不思議な物語があるのです。ルツがだれと結婚したかと言えば、ベツレヘムの有力者であり、ナオミとルツを「贖うことのできる資格を持つ人」(ゴーエールגֹּאֵל)のひとりでした。ベツレヘムでのボアズとルツの出会いは単なるロマンスとして描かれているのではなく、ユダヤ人が異邦人の助けによってその子孫がつながるという深い神のご計画が秘められているのです。
  • 「ルツ記物語」が、異邦人(しかも、ルツはモアブ人)とユダヤ人が密接な関係をもったこと、この二つの関わりを正しく理解することなくしては、神の救いのご計画を正しく理解することはできません。しかもこの二つの関わりがなければ、教会そのものが完成しないことを啓示している書だからです。聖書においてはユダヤ人と異邦人という区別しかありません。つまり、ユダヤ人以外のすべての民族は、イスラエル民族という仲介者を通してのみ、真の神とかかわりを持つことができるように神が定められたからです。使徒パウロがエペソ2章で用いている「新しいひとりの人」(One New Man)という概念は、異邦人とユダヤ人がひとつになっている実体(リアリティー)です。
  • 神が選ばれたイスラエル民族、ユダヤ人は今なお神から捨てられてはおらず、やがて彼らも救われるのですが、終わりの日が近づけば近づくほど、この両者の関わりとしての「新しいひとりの人」という聖書的な教会像がより重要になってくるのです。そのことが「ルツ記」の中にすでに啓示されているのです。
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  • 不思議なことに、ユダ部族の系列には、異邦人がその系列をつなぐために用いられていることが理解できます(右図参照)。異邦人のルツがすがりついたことでユダヤ人のナオミが助けられたように、両者は共に神からの「共同相続人」とされるのです。今日のキリスト教会は、ユダヤ人のナオミに背を向けた「オルパ」になるか、それともナオミに「すがりついて」一体となった「ルツ」になるか、その選択が迫られていると思います。
  • もう一度ここで、創世記12章3節にある主の約束を思い起こす必要があります。「あなた(アブラハム)を祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族はあなたによって祝福される。

おわりに

  • 今回の「霊性の回復セミナー」の瞑想は、「ベツレヘム」という一つの町をキーワードにして、さまざまな出来事が別々のものではなく、密接な関連性をもってつながっていることを見出すことによって、そこに隠されている神の啓示を思い巡らすことでした。これを「マトリックス的瞑想」と名付けたいと思います。その内容は大人の「堅い食物」です。あえてこのことを試みたのは、私たちが離乳食で満足することを卒業し、堅い食物を食べることを通して、神の心の深いところにあるもの(秘密/奥義)に触れていくためです。そのためには(多少、強調的な言い方をしますが)、意識的に、「マルタ」から「マリヤ」を目指すことが必要です。今日の教会の中に、マリヤのように静まることによって、一人になることを恐れず、神のみことばにもっと耳を傾け、そこに隠されている事柄を思い巡らす者たちが多く起こってくる必要があります。マリヤの使命は神のみことばに深く分け入り、そこに隠されている神のすばらしさを発見することです。イェシュアを通して現わされた神の奇しいみわざに感嘆と驚きを感じることです。この感嘆と驚きこそ永遠のいのちが回復させられていく一つの道だと信じます。

2012.11.23


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