ボアズの真実な愛
「ルツ記」の瞑想(改)の目次
4. ボアズの真実な愛
聖書箇所 4章1~12節
はじめに
- ルツ記に登場する「買い戻しの権利を持つ者」(ゴーエール)という存在の背景には、イスラエルにおける土地についての独特な思想があります。土地の売買について日本とは全く異なる考え方をしていることを理解しておく必要があります。イスラエルの土地の真の所有者は神であり、すべての土地の所有権は神にのみ属しているということ。人間に与えられているのは土地の「使用権」にすぎません。もし、人が貧しさのためにその土地を手放さなければならなくなった場合であっても、50年毎に巡ってくる「ヨベルの年」には、無償で元の「使用権」を持っている者に戻されなければならない規定が律法によって定められていました(レビ27:24)。したがって使用権の売買についてもヨベルまでに残っている年数によってその価値が決まるのです。したがって、厳密には土地の使用権を売ってしまうのではなく、土地の「収穫の回数」に応じた分だけを売ることになります。
- エリメレクの家族が飢饉のために、土地の「収穫の回数」に応じた分を買い取ってもらい、それを新しい土地での生活の資金としたことは十分考えられます。しかし今、エリメレクは死に、その使用権は妻のナオミが受け継いでいます。ナオミが買い取ってもらった土地(当然以前よりは少ない額になります)の使用権を、再び、買い戻さなければ自分の土地として使用することができません。そのためにイスラエルの律法では最も近い親戚がそれを買い戻すことの権利を有していること、そして「買い戻す権利を有している者」(ゴーエール)には、三つの義務がありました。
①もしある人が生活に困り果てて、そのために身売りして奴隷になったり、土地の使用権を処分しなければならなくなったりした場合、ゴーエールとなる人は、その能力に応じて、兄弟とその関係者、ならびに兄弟の土地を買い戻さなければならない。
②ゴーエールとなる人は、自分の兄弟が殺された場合、その報復者とならなければならない。
③ゴーエールとなる者は、兄弟が子孫を残さずに死んでしまった場合、遺された妻をめとり、その妻が産んだ初めの男の子に死んだ兄弟の名前を継がせて、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。
- 以上でもわかるように、ゴーエールにとっての責任は大きい割には、自分にとって得するようなものは何もありません。買い戻した土地から収穫できるものはすべて自分の所有とはならないからです。また残された妻を娶って子どもを得たとしても、それは死んだ夫の子孫ということになってしまうのです。また土地の権利も娶った家族の所有となるのです。ですからゴーエールとしての責任は兄弟や親戚に対する愛なしには、あるいは、神に従うという愛がなければとても履行できるものではなかったということです。
- このようなゴーエールとしての割の合わない責任をボアズはナオミとルツのために引き受けようとしているのです。ゴーエールはへたをすれば自分の財産も失いかねないほどの責任だったのです。
1. 「ガーアル」という語彙
- ここで、「ゴーエール」の元になっている「ガーアル」(גָּאַל)という動詞に注目してみたいと思います。この動詞はルツ記のキーワードです。ゴーエールは「ガーアル」の分詞で名詞として使われます。ヘブル語のコンコルダンスで調べてみると、この動詞は旧約で103回使われていますが、聖書の各書によってその使い方や意味することが異なっていることが見えてきます。以下はこの動詞を使っている書巻の特徴をまとめたものです。意味する内容は、救出、復権、買い戻しの権利を持つ親近者、贖い、贖い主、復讐者(報復する者)です。ちなみに、ルツ記では28回使われています。
※ただし、ここに挙げている聖書箇所はその一部です。
2. 正当な手続きを経て「ゴーエール」となったボアズ
- 落ちぶれた人間を徹底的に買い戻す(贖う)ことはリスクが余りに大きいのです。それゆえ、ボアズのルツに対する愛がなければ買い戻すということはあり得ません。しかし、ボアズは自分の損得を考えずに、利害を無視して、エリメレクの財産を買い戻し、合わせてルツとナオミの生涯までも責任を負うことを公の前で告白したのである。しかも法的に正式な手続きがなされたことが重要です。
- ナオミとルツにとってボアズはまさに神が備えてくださったゴーエール(贖い主)でした。ナオミの巧みな計らいがあったとしても、そもそも異邦人である彼女に偏見をもつことなく、真実な愛をもって妻として迎え入れてくれるボアズとルツが「はからずも」出会ったことが、彼女の生涯が祝福されることになった要因でした。その背後にはだれも知ることのない神の深い計画が隠されていたのです。まさにパウロが言っているごとくです。
「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは何と知り尽くしがたいことでしょう。その道は、何と測り知りがたいことでしょう。・・・この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:33, 36)
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