****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ブライダル・パラダイム (7)

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8. ブライダル・パラダイム (7) ー小羊の婚姻

【聖書箇所】エペソ人への手紙5章25~27節、黙示録19章6~9節

小羊の婚姻(「ハトゥナット・ハッセー」חֲתֻנַּת הַשֶּׂה)

ベレーシート

  • 昨日(2015/9/19)で、約1か月間続いた「雅歌」の瞑想が終了しました。注解書の数だけ解釈があると言われる「雅歌」ですが、終始、やがて啓示される「花婿なるキリストと花嫁なる教会」の愛のかかわりを啓示する預言的な歌として味わって来ました。雅歌に描かれている花婿と花嫁のかかわりは常に進展し、より成熟したかかわりへと花婿は花嫁を導きますが、前回は、花嫁により高い段階の成熟したかかわりをもたらすために、花婿は花嫁に「霊的な夜」を経験させるということをお話しいたしました。今回は、そうした経験の先にある最終目的に目を向けます。つまり、教会を聖なるものとし、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせる」ことなのです(新改訳2017、エペソ5:27)。
  • 花嫁である今日の教会を、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないもの」とはとても思えないかもしれません。とても自信をもって言えるような状態でないことは、クリスチャンであれば、だれでも感じているところです。教会には実に多くのしみがあり、しわがあり、傷があります。ところが主は、そのような教会を養い育てて、また整えて、やがては、ご自分の前に栄光の教会として立たせるのです。なぜなら、それが神の永遠のご計画だからです。この神のご計画を、花嫁である私たちはよく理解しなければならないのです。神が実現に至らせるのです。ですから、私たちは目先にある現実だけを見ているのではなく、神のご計画の最終目的を常に、絶えず、視野に入れることが重要なのです。このことが「ブライダル・パラダイム」の必要性の所以です。
  • エペソ人への手紙5章22~30節は、夫と妻の義務について教えている箇所ですが、パウロはその義務をキリストと教会の関連性をもとにして論じようとしています。しかし、ここでは夫と妻の義務についての教えを一旦、脇へ置いて、「ブライダル・パラダイム」を理解するために、キリストの教会に対する義務について考えてみたいと思います。

【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙5章25~30節より抜粋
25 ・・キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた・・・26 ・・のは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたの・・です。30 私たちはキリストのからだの部分だからです。


1. 栄光の教会の姿

  • 栄光の教会」という用語はエペソ書5章27節にしか使われていませんが、似た思想はあります。例えば、

(1) ローマ人への手紙8章30節【新改訳改訂第3版】
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました

(2) ピリピ人への手紙3章20~21節【新改訳改訂第3版】
20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

  • 上記のことは全体としての教会においても、またそこに属する一人ひとりも同様に栄光を受けるのです。栄光を受けた教会とは、まさに(消極的表現ですが)、しみもしわもない、汚れも傷もない状態です。私たちには少々理解しがたいところですが、栄光を受けた状態になると、教会はひとつのしみもしわも、ひとつの汚れも傷もなくなるのです。
  • しわやしみは老齢のしるしです。人の脂肪の数は生涯変わらないそうですが、年齢が進むにつれて、その脂肪の細胞がつぶれるためにしわが増えるのです。ある種の疾患のゆえに脂肪層が減少することでしわを生むことにもなります。この世にある教会の中にはそうしたしわが多くなって、活力のない教会として見えるようになります。しわはいろいろな機能が減退したしるしでもあるのです。ところが、感謝すべきことに、花婿なるキリストが教会をご自分の前に立たせる大いなる日が来ると、皮膚は若者のように回復してひとつのしわもない状態になるのです。みずみずしい肌となるのです。つまり、若さが再び回復するのです。しかも永遠にその状態が続くのです。これが栄光のからだに変えられることの意味です。しわだけでなく、からだのあらゆる疾患や欠陥がなくなり、朽ちることのないからだに変えられて、永遠の若さをもって生き続けるのです。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31)ということが、やがて「主の前に立つとき」に起こるのです。想像をはるかに超えた「良きおとずれ」(福音)です。
  • これは外面的なことですが、内面も同様です。その日のために、花婿は花嫁である教会をたえず養い育て、整え続けているのです。雅歌は「ブライダル・パラダイム」の宝庫ですが、その最後の章に、花嫁が「わたしは城壁です」という告白があります。少し、その部分を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】雅歌 8章8〜9節
8 私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげよう。
9 もし、彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建てよう。彼女が戸であったら、杉の板で囲もう。

  • 雅歌8章8〜9節では、花嫁は兄たちから見ると、まだ未成熟で、自分たちの妹に縁談の話があった日には、実際、何をしてあげようかと心配しているのです。もし、彼女が「城壁だったら」「戸であったら」(これらは純潔を意味する表現です)、さらにしっかりと彼女を守ってあげようという意味で、「城壁の上に銀の胸壁を建てよう。杉の板で囲もう。」と表現しています。兄たちは妹が花婿に喜ばれるように彼女の純潔を守るための支えとなろうとしているのです。ところが10節で、花嫁は「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。そのために、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」と言っているのです。兄弟たちの心配をよそに、「私は城壁」という表現は、この世のものに目に奪われることなく、花婿に対する純粋な心を持って花婿を十分に満足させるほどに成熟していることを語っているのです。言わば、花婿の助けによって、花嫁の内面が愛のうるわしさで満ちていることを意味しています。

(1) 花嫁の務め

  • エペソ書5章に戻って、「29 いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。30 私たちはキリストのからだの部分だからです。」とあります(新改訳2017)。「養い育てる」という「サルポー」(θάλπω)というギリシア語は新約聖書では二回しか使われていません。「世話をする、面倒を見る、保護する、配慮する」という意味を持っています。それゆえ、花嫁に対する花婿の関心や配慮について、花嫁はよく理解する必要があるのです。その中で花婿の愛を知ることこそが花嫁の務めと言えます。

(2) 花婿の務め

  • 花嫁の聖化が促進させられるのは、やがて来る栄光の日(=携挙)に、主が花嫁に対してなさろうとされることを知ることによってです。その日には、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、花婿なる主がご自分の前に立たせます。この究極の目的を知ること、これが花嫁をより聖くさせる誘因となると信じます。とはいえ、この働きもすべては花婿の恵みによるものであることは言うまでもありません。なぜなら、みことばと御霊によって、花嫁を養い育てることが花婿の継続的な務めだからです。

2. 小羊の婚姻の喜び

  • 花嫁である教会が栄化されるのは、花婿との婚姻のときです。そのときには爆発的な喜びが起こります。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの黙示録19章6~8節
6 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。
7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」

  • 「メゴサレ」(Me Gozare)という賛美は、この黙示録19章7~8節から取られています。7節の「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。」と訳されています。ヘブル語に戻すと「喜び踊ろう、喜ぼう。私たちは主に栄光をささげよう。」となっています。

画像の説明

  • ここには「喜び踊ろう」という意味の「ギール」(גִּיל)と、「喜ぼう」という意味の「サーマハ」(שָׂמַח)の二つの動詞があります。人称は1人称未完了女複数。
  • ちなみに、イスラエルに「ハヴァ・ナーギーラー」という婚礼の時に歌われる有名な曲があります。その歌の歌詞には「喜び」を表わす三つの動詞が使われています。

画像の説明

  • 上記の部分の楽譜はこの曲の前半部分です。後半もあるのですが、ここでは割愛します。

画像の説明

(1) 小躍りして喜ぶ、歓声を上げることを意味する「ギール」(גִּיל)

(2) 喜び祝う、喜び楽しむことを意味する「サーマハ」(שָׂמַח)。聖書の詩篇では「サーマハ」(שָׂמַח)と「ギール」(גִּיל)はしばしばワンセットで用いられます。

(3) 大声で喜び叫ぶ、声高らかに歌う、喜びの声を上げることを意味する「ラーナン」(רָנַן)

  • 今年の「セレブレイト・スッコート」では、「ヒンネー・マー・トーヴ」だけでなく、この「ハヴァ・ナーギーラー」も、ぜひ踊りたいです。
  • 黙示録19章に戻りますが、なぜ神に栄光をささげるのかと言えば、その理由は待ちに待った子羊の婚礼の時が来たからです。また花嫁もその用意ができたからです。8節に「花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」とあります。これはどういうことでしょうか。特に、「聖徒たちの正しい行い」とはどんな行いなのでしょうか。
  • 「花嫁はその用意ができた」とは、「花嫁が、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許されたこと」を意味しますが、「花嫁はその用意ができた」という部分をヘブル語に訳すと、「ヒットカッダーシャー」(הִתְקַדָּשָׁה)となっています。これは「聖なるものとなる」という意味の「カーダシュ」(קָדַשׁ)の強意形のヒットパエル態で、「自らを聖別する、自らきよめる」という意味になります。つまり、花婿のために取り分けられた歩みを花嫁が自らしてきたことを意味します。まさに、花婿のものとして自分を「聖別する」生き方を主体的に、自覚的にしてきたことを意味します。このことを「花嫁はその用意ができた」と表現しているのです。
  • みことばと御霊の助けを通して、花嫁は花婿のものとなるために、すべてのことをしてきたのです。それゆえ、花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された (=「着るようにと(花婿から)与えられた」)のです。なぜならその「輝くきよい亜麻布」とは、「聖徒たちの正しい行い」のことだからです。花婿の心を求め続け、慕い求め続けてきた花嫁の行いが、輝くきよい亜麻布を着ることを得させたのです。すべて、主権は花婿にあります。花婿であるキリストは花嫁である教会を愛して、ご自身をささげられ、最高のぶどう酒(ご自身の血)をもって婚約しました。その花嫁をみことばと水の洗いをもってきよめて聖なるものとし、やがて、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるのです。それゆえ、以下のとおりなのです。

【新改訳2017】ユダの手紙 24〜25節
24 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、
25 私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。

「大水もその愛を消すことができません。奔流もそれを押し流すことができません。」 (雅歌8:7)とあるように、神によって定められた花婿と花嫁の愛は、どのような大水も奔流も、これを押し流したりすることはできないのです。神のご計画は決してぶれることなく、確実に完成するのです。

2015.9.20

改定2018/11/29


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