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ソロモンに与えられた卓越した知恵

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列王記の目次

03. ソロモンに与えられた卓越した知恵

【聖書箇所】 3章1節~28節

はじめに

  • 驚くべき統治能力をもったソロモン王、類稀れな知恵をもったソロモン王がどのようにしてその知恵を得るに至ったか、そのいきさつを記しているのが、この第3章です。

1. ソロモンの夢の中に現われた主の顕現

  • ソロモンはいけにえをささげるためにギブオンへ行きました。それはモーセの幕屋がギブオンの高き所にあったからです。ソロモンはその幕屋の祭壇でなんと1千頭の全焼のいけにえをささげました。これはソロモンの主に対する献身と感謝の表われと言えます。そうしたソロモンに対して、主ご自身が夢の中に現われ、「あなたに何を与えようか。願え」と語られたのです。直訳では「あなたはなんでも求めなさい。わたしはあなたに与えよう。」です。
  • 主の申し出に対してソロモンは答えます。その答えのポイントは二つです。そのひとつは、自分にはまだ「出入りするすべを知らない」という認識です。もうひとつは、王としての「正しい訴えを聞き分ける判断力」の求めでした。このソロモンの願い事は「主の御心にかなった」とあります(3:10)。

(1) 「出入りするすべを知らない」とは

  • 父ダビデに代わって王とされた自分は「出入りするすべを知りません」とソロモンは主に語っていますが、この「出入りするすべ」とはいったいどのような意味でしょうか。旧約聖書にはこの表現を使った人物がソロモンの他に二人います。一人はモーゼ、もう一人はカレブです。

【モーセの場合】
高齢になって、リーダーの役割をヨシュアに託す時に、モーセは「私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。」(申命記31:2)と言っています。これは、超人的な活動をしてきたモーセが、自分の限界を知って口にした言葉です。この「出入り」は、モーセの活動そのものです。 新共同訳では「わたしは今日、既に百二十歳であり、もはや自分の務めを果たすことはできない。主はわたしに対して、『あなたはこのヨルダン川を渡ることができない』と言われた。」とあります。


【カレブの場合】
カレブもこう言っています。「モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」(ヨシュア記14章11節) 新共同訳では「今なお健やかです。モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく、戦争でも、日常の務めでもする力があります。」と訳されています。ここでは「日常の務め」を出入りと言っています。


【ソロモンの場合】
ソロモンの言う「出入り」とは、「王としての行政能力や責任能力」としてのふるまい意味していることは明らかです。 新共同訳では「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。」とあります。

  • ちなみに、
    「出入り」という表現は、原語で「出る」という動詞「ヤーツァー」(יָצָא)と「来る、入る」という動詞「ボー」(בּוֹא)の組み合わせです。詩篇121篇ではその最後の節に、「行くにも帰るにも」(新共同訳では「出で立つのも帰るのも」)とあります。一見、巡礼者にとって旅路の無事を言い表すことばのように思いますが、原文が持つ本来の意味を見失わせています。それは「私たちのすべての営みにおいて」という意味です。これはメリスマ修辞法です。ちなみに、口語訳も「出ると入るとを」、文語訳も「いづると入るとを」と直訳的に訳しています。岩波訳、関根訳、フランシスコ会訳では「出入りを」と訳しています。
  • 大切なことは、ソロモンが「なんでも願え」と言われて願ったことは主が聞かれたということです。御子イエスも私たちに繰り返し、「求めなさい。そうすれば与えられます」とか、「わたしの名によって求めることは何でも、それをしましょうか」とか、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」と語っています。それは御父が御子によって栄光を受けるためです。御父は本来的に、自分の子に良い物を与えることを喜びとされる方なのです。


2. ソロモンに勝る神の知恵

  • 今朝の瞑想のテーマは「神の知恵」です。使徒パウロはコリント人への手紙でこの「神の知恵」について語っています。
  • パウロは「召された私たちは、(この世の知恵ではなく)神の知恵を語る」と述べています。その「神の知恵」とは「隠された奥義としての神の知恵です」。それは「キリスト」のことです。しかも、神が私たちの栄光(神の反映としての輝きの栄光)のために、世界が始まる前から、あらかじめ定められたものなのです(Ⅰコリント2:7)。
  • この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵のひとつの現われなのです(同、1:21)。神の知恵を語るためには、御霊の啓示が必要です。私たちはソロモンにまさるキリストを信じることにより、ソロモンにまさる知恵が与えられます。そして、寄り添うようにして内住される御霊の力によって、私たちは神の栄光の現われであるキリストを知り、キリストを語ることができるのです。

2012.8.29


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