****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ゴルゴタの十字架に見る神の完璧なドラマ


18. 振り返り 「ゴルゴタの十字架に見る神の完璧なドラマ」

【聖書箇所】マタイの福音書27章33~35節

「・・ゴルゴタという所に来てから、彼ら(兵士たち)は、イエスを十字架につけた。」

ベレーシート

●「主の受難の24(Twenty Four)」の瞑想で、前にも時間の流れをストップして「振り返り」の時を設けましたが、今回もイェシュアがゴルゴタ(=ラテン語から派生した英語の「カルバリ」)という場所で十字架につけられたところで、一旦流れを止めて「振り返り」の時としたいと思います。今回は、ゴルゴタでイェシュアが私たちの罪のために十字架にかかるということは、神の完璧すぎるほどのドラマであったということを考えてみたいと思います。特に、ゴルゴタは門の外(宿営の外)でなければならなかったということに焦点を当てたいと思います。

●私は今回の「主の受難の24(Twenty Four)」の瞑想で、多くのことを教えられました。前回持った「振り返り」では、「最後の晩餐」で語られたイェシュアのことばと、そしてその食事の席で最後に差し出された「杯」(ぶどう酒)が、実は、イェシュアと弟子たちとが婚約するためのものであったということ、つまり、教会が「キリストの花嫁」と呼ばれる所以がここにあるということをお話ししました。これは私にとって驚くような発見でした。なぜ教会が「キリストの花嫁」と呼ばれるのか、それはユダヤの婚礼のしきたりを知っていなければよく分からない話なのだということも「目からうろこ」でした。聖餐式の本当の意義は、教会がキリストの花嫁とされていること、そして将来、必ず正式な結婚をするために花婿なるイェシュアが迎えに来てくださることをはっきりと意識することなのだということに目が開かれました。聖餐についての多くの書籍が出版されていますが、ほとんどの場合、そこに「キリストの花嫁」という概念が盛り込まれていないのは、むしろ不思議だと思うようになりました。なぜそのことに触れられていないのか。その理由の一つとして、ユダヤ的な視点が断ち切られてしまっていることが挙げられると思います。今回扱おうとしている「ゴルゴタの十字架」の出来事においても、旧約聖書の中にその必然性が啓示されていたのです。なぜゴルゴタなのか。ゴルゴタはいったいどこにあるのか。それが旧約聖書とどうつながっているのか。その整合性について知るならば、私たちは神のドラマにある必然性とその完璧さに驚かされるのです。

1. なぜ「ゴルゴタ」なのか

●ローマの総督ピラトは、何度も(三度も)イェシュアは無罪だと主張したにもかかわらず、彼のもとに押し寄せた祭司長たちや群衆たちの「十字架につけろ」という声に屈服する形で、イェシュアを引き渡しました。聖書に記され、そこで繰り広げられている出来事の背後では、目には見えなくとも神がご自身の方法で事を進めておられるのです。もし、イェシュアがゴルゴタに着く前に息絶えたとしたら、神のご計画と実際の出来事とが整合性の取れないものとなり、有効な結果とはならないのです。

●イェシュアは十字架を背負わされてゴルゴタに向かいます。「背負わされて」と共観福音書は受動態で記されていますが、ヨハネの福音書では「イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた」とあり、主体的、自発的な意味を示す能動態で記されています。

●ところで、聖書の中で「ゴルゴタ」という言葉はこの場面にだけ使われています。ルカだけは「ゴルゴタ」という言葉は使っていませんが、「『どくろ』と呼ばれている所」という表現で表わしています。マタイ、マルコ、ヨハネは「ゴルゴタ」という言葉を使っています。まずはこの言葉の由来について見てみましょう。
「ゴルゴタ」はヘブル語で「ゴルゴッター」(גָּלְגֹּתָּא)と表記されますが、そもそもこの言葉は、ヘブル語の「ひとりひとりを数える(人口調査)」という意味の「グルゴーレット」(גֻּלְגֹּלֶת)に由来します。ちなみに、この「グルゴーレット」の「人口調査」という意味は、「頭蓋骨」「頭蓋骨を数えること」「頭数を数えること」というところから来ています。そして、このヘブル語の「グルゴーレット」がアラム語に音訳されたのが「ゴルゴタ」です。

(1) ゴルゴタは 「宿営の外」にあった

●「ゴルゴッター」(גָּלְגֹּתָּא)と同じ意味を持つ語彙に、「ミフカード」(מִפְקָד)があります。「数を数えること(人口調査)」の意味の他に、「定められた場所」「一定の場所」という意味があります。聖書の中で「定められた一定の場所」とは、「罪のためのいけにえがほふられる場所のこと」を意味します。イェシュアが私たちを救うことができたのは「罪のためのいけにえの羊」としてご自身の血をささげられたからですが、そのいけにえを火で焼く場所はどこでも良いわけではありません。他のいけにえは神殿の入り口や祭壇で焼かれますが、罪のためのいけにえは、必ず、神殿の外の「定められた場所」でほふられ、焼かれなくてはなりませんでした。その場所をヘブル語で「ミフカード(מִפְקָד)」と呼びます。

●なぜ「ゴルゴタ」が神のドラマにおいて重要なのでしょうか。その答えは、この「ゴルゴタ」が「罪をきよめるためのいけにえ」を焼く「定められた場所」「一定の場所」にあり、それは「宿営の外」(門の外)にあったからです。そのことを示すみことばが以下のヘブル人への手紙13章にあります。

【新改訳改訂第3版】ヘブル書13章10~12節
10 私たちには一つの祭壇があります。・・・
11 動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。
12 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。

(2) 「宿営の外」とは、どこからどれほどの距離にある場所なのか

  • 「宿営の外」は(「門の外」とか、「聖所の外」とも言われます)、どこを基点としてどれほどの距離のところにあるのでしょうか。実は、そのことを暗示している一つの箇所がヨシュア記3章にあります。

    【新改訳改訂第3版】ヨシュア記3章3~4節
    3 (ヨシュアは)民に命じて言った。「あなたがたは、あなたがたの神、【主】の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。
    4 あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」

●ここにある「約二千キュビト(約900m)の距離」というのは「内と外」の境界線となる距離のことで、ここではそれ以上の距離を置くようにという意味で語られています。その距離を越えた所を「宿営の外」と言います。ちなみに、ミリヤムがモーセに逆らった罪によってツァラアトになった時、彼女は七日間、「宿営の外」に締め出され、ツァラアトが回復されてから戻ることができたという話があります。

【新改訳改訂第3版】民数記 5章2~4節
2 「イスラエル人に命じて、ツァラアトの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営から追い出せ。
3 男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出して、わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない。」
4 イスラエル人はそのようにして、彼らを宿営の外に追い出した。【主】がモーセに告げられたとおりにイスラエル人は行った。

●上記にあるような病気は、みなイスラエルの霊的な罪を表わすひな形です。そのような者たちは、幕屋の近くにむやみに入って来ることができないようにされました。悪質な罪や、ひどい病、問題がある者たちは、宿営の中に入ることができなかったのです。これは霊的に堕落したイスラエルが「宿営の外」に締め出されることを警告するものです。ちなみに、オリーブ山を越えた東の村であるベタニヤに、ツァラアトの者たちが住んでいたのです。そこでイェシュアと弟子たちはツァラアトのシモンの家に招かれて食事をしている場面があります(マタイ26:6~13)。主はいつも、ベタニヤの村からオリーブ山を通り、エルサレムの東の門に向かって来られました。

  • 使徒の働き1章12節によれば、安息日の道のりほどの距離(安息日に歩くことが許されている範囲)とされています。

    【新改訳改訂第3版】使徒の働き 1章12節
    そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。

●ここにある「安息日の道のりほどの距離」こそ二千キュビトであり、宿営内なのです。民数記35章5節にも、この「ニ千キュビト」が相続地の町の半径としての距離となっています。

●このように、ゴルゴタは、必ず、東側の宿営の外でなければならず、しかもそこは神殿の至聖所から必ず「二千キュビト」(約900メートル)以上離れた場所でなくてはなりません。当時、十字架刑を受ける極悪人をエルサレムの城壁内で処刑することはできなかったのです。必ず、「宿営の外」で刑が執行されました。「ゴルゴタ」はどこにあったのか。それは神のドラマの絶妙さを理解する上できわめて重要です。当時では、おそらく周知のことであったのでしょう。「ゴルゴタ」とか、「どくろ」と呼ばれている所と書けば、それがどこの位置にあるのかはだれもが分かるという前提で書かれています。ところが今日の私たちはその場所がどこなのか分からず、そして実はカソリックの見解とプロテスタントの見解も異なっています。

●カソリックの見解によれば、神殿の西側にある現在の「聖墳墓教会」のある所としています。しかしプロテスタントの見解では、北の方向に「ゴルドンのカルバリ」という所があります。これは今から100年ほど前に、イスラエルの地が英国統治領になっていたとき、ゴルドンという英国兵士がしゃれこうべに似た岩を見て、その地を買い取ったものです。そこには聖書の記述ときわめて似ている「園の墓」があります。ヨハネの福音書20章でマグダラのマリヤが後ろから声をかけるイェシュアのことを「園の管理人」だと思った(20:15)という箇所から、「ゴルゴタ」をその位置だとしています。しかし、いずれもこの二つの場所は当時のエルサレムの町の外にありましたが、二千キュビトの距離ではありません。現在の聖墳墓教会は、西側の方向に神殿の裏から200mも離れていません。「園の墓」も同様です。

●東側の方向にある二千キュビトの位置とは「オリーブ山頂上」の付近です。イェシュアの時代には、「定められた場所」としての「ゴルゴタ」は「聖墳墓教会」のある方向とは全く逆の位置、すなわち、エルサレムの東にあるオリーブ山にあったのです。この見解は、キム・ウヒョン氏が「主の道を辿って」という本の中で以下のように述べています。

「私はヘロデ時代の神殿に関する資料を多く探してみました。すると、その当時は神殿からオリーブ山まで橋がかけられており、その橋の終わりにこの祭壇があることが分かりました。資料によれば、そこで「赤い雌牛」をほふったとあります。この場所は・・罪のためのいけにえを焼く所です」(322頁)。

画像の説明

2. 罪の汚れをきよめる「赤い雌牛の規定」

●「汚れをきよめる赤い雌牛の規定」は、礼拝を規定しているレビ記には記されていません。民数記19章のみに記されているきわめて重要な箇所です(19:1~10)。この箇所はとりわけじっくりと研究する必要がある箇所です。別紙参照

●民数記の舞台は荒野です。荒野の旅は人生を意味しています。人生において繰り返し起こってくる「汚れ」の問題に対して、神が備えたきよめの手段が「赤い雌牛の規定」です。なぜ「赤の雌牛」なのか。それは「赤」は血といのちを意味します。「雌牛」は新しいいのちを産み出す象徴です。しかもその「赤い雌牛」は、「傷のない、しかもくびきの置かれたことのない」完全な雌牛でなければなりませんでした。「傷のない」とは罪のないことを意味し、「くびきの置かれたことのない」とは、罪のくびき(罪の奴隷)となったことのないものを意味しています。やがて来られるイェシュアがまさにそのような方であることを指し示しています。

●祭司エルアザルによって、「赤い雌牛」の血が会見の天幕の正面に向かって七度振りかけられます。「七度」は完全数です。そして祭壇で焼かれた雌牛の灰が集められ、湧き水と混ぜ合わされて「きよい水」が作られます。その水がすべての汚れをきよめることができると規定されています。その水は宿営の外のきよい場所に保存され、必要があるたびに使われました。イスラエルの会衆も祭司やレビ人もこの水によって、汚れからきよめられたのです。しかしその効果はそのときだけしか有りませんでした。このような儀式が延々と繰り返されました。ところが、キリストの血潮は一回限りにおいて、私たちのすべての罪の汚れを完全に永遠にきよめる効力を持っています。そのことが以下に記されています。

【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙9章12~14節
12また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
13もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
14まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

●神のご計画には定められた道理があります。旧約にその道理が啓示されているのです。そして神のご計画はすでに啓示された型に従って展開されて行きます。イェシュアの時代には当時、東の門からオリーブ山へ繋がる橋があり、その終わりに「定められた場所」(ゴルゴタ)があったのです。イェシュアは神殿の東側にその門から宿営の外へ出られ、十字架を背負い、神殿から二千キュビト離れた「定められた場所」で死なれました。

●神のご計画はすでに啓示されたとおりに進んで行きます。ですから、私たちは旧約聖書を真剣に学ぶ必要があるのです。ヘブル的視点を無視して、新約聖書だけで信仰生活を送るとすれば、神のご計画は見えてこないばかりか、誤った土台の上に家を建てることになります。

2015.3.28


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