****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

キリストの空中再臨と教会の携挙 (その二)

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2. キリストの空中再臨と教会の携挙 (その二)

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ベレーシート

  • 前回は、「キリストの再臨と終末の預言」のシリーズ第一回目として「キリストの空中再臨と教会の携挙」について学びました。このことはとても重要な教えであり、キリストを信じる者にとって大きな慰めとなります。第二回目では、この「携挙」についての教えを、さらにいろいろな聖書のことばによって補強したいと考えています。
  • 「けいきょ」ということばを国語辞典で調べるならば、「軽挙」ということばしかありません。その意味は「軽々しいこと、軽々しいふるまいをすること」とあります。その意味の「けいきょ」ではありません。聖書の「けいきょ」は「携挙」と表記します。この用語は神学用語(教理用語)です。また、「携挙」ということば自体は聖書にはありませんが、教会が天に一挙に引き上げられ(携え挙げられ)て、空中で主と会うということを意味する用語です。使徒パウロは、テサロニケの教会の人々に対して、このことについて「知らないでいてもらいたくありません。」(Ⅰテサロニケ4:13)と記しています。なぜなら、キリストを信じる者にとって、「携挙」はぜひとも知っておかなければならない重要、かつ基本的な教えだからです。

キリストの再臨

  • 図には、「第一の復活」と「第二の復活」があります。前者は幸いな復活ですが、後者は不幸な復活です。なぜなら最終的な審判のために復活させられるからです。また、「第一の復活」にはAとBがあり、Aは教会の携挙の時に主にあって死んだ者がよみがえり、朽ちない新しいからだを与えられます。Bは、患難期においてイエスをメシアと信じて殉教した者たちがキリストの地上再臨の時によみがえる復活です。
  • 神のご計画のマスタープランにおいて、七年間におよぶ最後の一週があります(ダニエルの七十週の預言の最後の一週のこと)。この期間は反キリスト(偽メシア)が支配する最後の一週で、キリストを拒絶する世界に対して神の怒りが激しく注がれる時代です。時間的には七年間と短いのですが、その期間は、数多くの天変地異が起こり、反キリストによる未曾有の、桁違いの大患難がもたらされる神の怒りの時です。なぜ短いのか(七年)といえば、イスラエルの民がその試練―「ヤコブの苦難の時」(エレミヤ30章7節)と呼ばれている試練ーから救われるためです。
  • イェシュアも、マタイ24章21~22節で、預言者ダニエルによって預言された「荒らす憎むべき者」が聖なる所に立つ時、つまり反キリストがその本性を現わすとき、「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者(ユダヤ人、イスラエルの民のこと)のために、その日数は少なくされます。」と語られました。その耐えがたき神の怒りを終結させるために、キリストは地上再臨されますが、幸いなことに、キリストを信じる者たち(教会)はその患難時代が来る前に天に携え挙げられるのです。しかもその時は何の前触れもなく、突然にやって来ます。この預言は、キリストにあって死んだ(眠った)人々にとっても、またその時にキリストにあって生きている人々にとっても、喜びの時です。なぜなら、そのときこそが花婿が花嫁である教会を迎えに来る時だからです。ですから、この携挙のことを正しく知り、目を覚ましている必要があるのです。

1. 神の怒りによる大患難から救われるための「携挙」

  • キリストを信じる者は患難時代における目に見える神の怒りから救われています。すでにキリストを信じた時点で霊的には神の怒りから救われているのですが、七年間の患難時代の目に見える出来事としての神の怒りからも救われるのです。そのことについて、いくつかの聖書的根拠を挙げたいと思います。

    (1) ローマ書5章9節
    ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
    (2) Ⅰテサロニケ1章10節
    また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。
    (3) Ⅰテサロニケ5章9節
    神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
    (4) ルカの福音書21章36節
    しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。
    ここの「やがて起ころうとしているこれらすべてのこと」とは、反キリストによる大患難のことです。

  • Ⅰテサロニケ1章10節にもあるように、初代教会は大患難という主の怒りが来る前に「天から来られるイェシュア」を、今日か、今日かと待ち望んでいたのです。「一挙に引き上げられ、空中で主と会う」(Ⅰテサ4:17)携挙を待っていたのです。初代教会(パウロ)の再臨待望は「携挙待望」であったのです。それゆえ、初代教会の人々は、「主はもうすぐ来られます」「主よ。来てください。」を意味する「マラナ・タ」ということばで、挨拶を交わしていたのです。今日、この挨拶用語を回復しなければなりません。
  • ちなみに、「マラナ・タ」はアラム語です。「主よ。来てください」と訳されていますが、正確には「われらの主は来られる」とも「われらの主よ。来てください」とも訳されます。アラム語の「主」を意味する「マーレー」(מָרֵא)に1人称複数形「マラヌー」(מַרַנוּ)の最後の「ヌー」と、「来る」を意味する「アタ―」(אֲתָא)の最初の「ア」がくっついて「ナ」と発音し、「マラナ」と表記されます。最後の「タ」を「サ」と発音して「マラナ・サ」と表記されることもあります。英語表記の「th’a」を「タ」と発音するか、「サ」と発音するかの違いです。

2. 翻訳的見地(原語)からの「携挙」の根拠

(1)Ⅱテサロニケ2章3節 ―「背教」ではなく、「離れること」―

【新改訳改訂第3版】
2:1 さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。
2:2・・・主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
2:3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
2:4 彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。 

  • テサロニケの手紙第二が、なぜ書かれたのかと言えば、「主イエス・キリストが再び来られること」〔すなわち、キリストの再臨〕と、「私たち〔すなわち、聖徒〕が主のみもとに集められること」〔すなわち、携挙〕に関して、テサロニケ教会の中に混乱が生じていたからです。換言すると、テサロニケ教会の中に、聖徒を天に引き上げるためのキリストの空中再臨と、大患難期の後に反キリストを滅ぼすために再臨されるキリストの地上再臨とを、混同する者たちが現われたことで、それを明確にするためにパウロはこの手紙(第二)を書いたのです。
  • テサロニケの教会に対して、「主の日」がすでに来たということを聞いても、落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないように、だまされないようにしてください、とパウロは言っています。つまりパウロは、「主の日」が来るには、まず順序があるということをここで教えようとしているのです。その順序とは、新改訳によれば、
    (1) 「まず背教が起こる」
    (2) 「不法の人(反キリスト、滅びの子)」が現われる
    (3) そして「主の日」、つまりキリストの再臨が来る
  • しかしここで厄介な問題は、「まずは背教が起こる」と訳されていることです。この「背教」と訳された原語は「へ(ή)・アポスタシア(άποστασία)」です。アポスタシアは二通りの訳があります。ひとつは「背教」とか「反乱」と訳し、もうひとつは「出発」「離別」と訳します。この名詞「アポスタシア」の動詞である「アフィステーミ」(άφίστημι)を調べると、15回のうち3回は「背教する」と訳されますが、あとの12回は「去る、離れ去る」と訳されています。したがって、Ⅱテサロニケ2章3節の「背教」(新共同訳は「反逆」)は、むしろ「出発」とか「移動」と訳すべきで、山岸登氏も「冠詞付の離別」とは「携挙」を意味していると述べています。また、2章1節に「私たちが主のみもとに集められること」とあるので、ここは「(主の日が来る前に)まずその離別(携挙)があり、その次にあの不法の人、すなわち「滅びの子」が現われなければならないからです」と訳すべきだとしています。聖徒を天に引き上げるために来るキリストの「空中再臨」と、不法の人を滅ぼすために来る「地上再臨」とを混同してはならないのです。明瞭に、区別されなければなりません。
  • 「アポスタシア」についてのこの見解は、英訳聖書の翻訳の歴史においても、KJV以来、「離れる」「離れること」と訳されて来た、とエマオ出版訳の山岸氏は述べています。もしこの見解が正しければ、患難期前携挙説の有力な聖書的根拠となります。

(2) ヨハネの黙示録3章10節
「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」

  • この箇所での翻訳上の問題は、「全世界に来ようとしている試練の時には」の「時には」という訳です。「全世界に来ようとしている試練」とは、反キリストによる未曾有の大患難のことです。新改訳ではその「試練の時には」と訳しています。しかし原文では「~の時の中から」となっています。「時には」と訳されると、キリスト者もその試練の中にいることになります。しかし「~の時の中から」と訳すなら、その試練の中にはキリスト者はいないことになります。「患難前携挙説」ではその試練(大患難)の中から救われることになりますが、「患難後携挙説」ではその試練(大患難)の中に置かれることになります。これまでに挙げた聖書のことばとの整合性を考えるならば、前者の「患難前携挙説」の方がきわめて自然と言えます。
  • 主にある者も「世にあっては患難があります」(ヨハネ16:33)と言われましたが、ここで問題となっているのはそのような一般的な患難とは異なり、これまでにない未曾有の神のさばきとしての大患難のことであり、その目的も神の選びの民に対する最後のあわれみの時としての精錬的な試練なのです。そうした精錬的試練に神の子どもたちが遭う必要性はないのです。むしろ逆に、主の携挙があることを信じて、緊迫感を持って、いつも目を覚ましていることが求められているのです。

3. 携挙の教えは私たちの生き方を清くする

  • 携挙の教えは、私たちの生き方を変え、キリストとのかかわりを決定的に新しくします。ヨハネの手紙第一3章2~3節を見てみましょう。

    3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
    3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

  • 2節の「キリストが現れたなら」とは、キリストの空中再臨と携挙のことです。そのとき、「私たちはキリストに似た者となる」のです。そして3節の「キリストに対するこの望み」も、空中再臨と携挙に対する望みです。この望みをいだく者はみな(例外なく)、「キリストが清くあられるように、自分を清くします」と記されています。つまり、キリストの再臨の希望をしっかりと抱く者は、例外なく、「自分を清くする」のです。
  • 「清くする」と訳された原語は「ハグニゾー」(άγνιζω)で、新約では8回使われています。その形容詞の「ハグノス」(άγνος)も同じく8回です。動詞にしても、形容詞にしても、この言葉は花婿と花嫁、あるいは夫と妻とのうるわしい関係を表わしています。「きよくする」とは、夫となる花婿キリストに対するかかわりにおいて、「純潔」「貞潔」「従順」な関係を意味するのです。そこには二心はあってはなりません。それは妻が夫に対してなす純真な生き方でなければなりません。
  • 「キリストがきよくあられる」とは、自分の妻に対する「純真」を意味します。それと同様に、妻となる教会」(私たち)も、夫となるキリストに対して「きよく」なければならないのです。なぜなら、花嫁である私たちを花婿であるキリストが天から突然のように迎えに来られるからです。いつ来られても良いように、私たちはこの教え(真理、望み)を知り、それに従って生きている必要があります。それは当然のごとく、自分の心を変え、また生き方を変えることになるのです。
  • 私たちはすでにキリストを信じることによって花嫁となる約束をしているのです。結婚式はまだですが、キリストの妻となる婚約をしています。その夫となるべき方は必ず来られます。そして迎えに来られる時が結婚式です。その時まで私たちはワクワク、ドキドキ、イキイキしながら、清純な心をもって、花婿を待っていなければなりません。もし私たちのうちに「二心」があるならば、それを捨てなければなりません。
  • 「携挙」の教えは必ずや私たちの生き方を変え、確実にキリストとのかかわりを新しくします。ライフスタイルを一新させます。携挙の約束ときよい生き方には密接な関係があるのです。Ⅰテサロニケ4章3~8節を参照。

4. 携挙後の天上での礼拝の幻(ヨハネの黙示録4~5章)

  • キリストが空中再臨されるとき、すでにキリストにあって眠っている者は新しい朽ちないからだを与えられてよみがえります。またそのときに生きている者は彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられて空中で主と会います。余談ですが、「雲の中に引き上げられる」とあるので、空中再臨の時は「晴れの日ではなく、曇りの日だ」と思わないでください。この「雲」とは「栄光の雲」のことで、「シャハイナ・グローリー」という特別な主の栄光の現われを表しています。その栄光の中に教会が引き上げられるのです。ちなみにイェシュアの生涯に中にも「シャハイナ・グローリー」が「雲」によって現わされています。⇒ルカ9:28~36(特に、34~35節)、使徒1:9~11参照。
  • キリストの花嫁である教会は空中の雲の中に引き上げられたあと、花婿なる主との婚姻のために天に行きます。そのために主が迎えに来られたのですから。そして天において小羊の婚姻が行われると考えられます。そこでヨハネの黙示録4~5章に記されているように、多くの御使いらとともに、御座に着いておられる方と小羊に礼拝をささげると考えられます。そこが、ヨハネの福音書14章1節に言われている「父の家」であり、そこには立派な「住まい」がたくさんあるのです。その父の家で主とともに住むのです。つまり親しい交わりをするのです。しかしその交わりは私たちが考えているようなものではありません。愛すべきうるわしい方を礼拝するという意味での交わりです。
  • ヨハネの黙示録7章からは小羊が七つの封印(神の怒りの封印)を一つずつ解いていきます。そこでは「教会時代」の後に来るところの七年間の「患難時代」の出来事が啓示されています。この「患難時代」に起こる出来事については、別の時に改めて学びたいと思います。今回は、ヨハネの黙示録4~5章に記されている「天上の礼拝」の様子のいくつかのを覗いてみたいと思います。
  • 「天に一つの開いた門」を御霊によって見たヨハネは、その開かれた門を通って、「この後、必ず起こる事」を示されました。ヨハネがそこで見たのは、未だかつてだれも見たことのない天にある礼拝の光景でした。

    【新改訳改訂第3版】 黙示録4章2~11節

    御座での礼拝.JPG

    2 ・・・・天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、
    3 その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。
    4 また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。
    5 御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。
    6 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。
    7 第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。
    8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」
    9 またこれらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、
    10 二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
    11 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

  • 御座」ということばはヨハネの黙示録の中では40回以上も使われています。「御座」は御父が万物を支配し治められる玉座です。ちなみに、黙示録では「御父」とか「御子」ということばは使われません。「御座」の一番近い所には「四つの生き物」がおり、絶えず「聖なるかな、聖なるかな・・」と賛美をささげています。これら「四つの生き物」は、神を賛美するために特別に造られた天上の被造物です。その「四つの生き物」が御座に着いておられる方に賛美をささげるとき、その外側にいる「二十四人の長老」たちが御前にひれ伏して礼拝します。しかも特筆すべきは、神から与えられた自分たちの「金の冠」を投げ出してまで、「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。」と賛美礼拝していることです。この「二十四人の長老たち」こそ、地上から贖われた人間(教会)の代表と考えられます。そして、その外側に「無数の御使いたち」が御座を取り囲んで礼拝しています。

ベアハリート

  • 私たちが知らなければならないことは、教会の時代はキリストの空中再臨と教会の携挙によって、突然に終わりを告げるということです。患難時代の後に来るキリストの地上再臨の時には多くのしるしと前兆が伴います。しかしキリストの空中再臨と教会の携挙前には何の前兆もありません。突然に来るのです。ですから、いつそれが起こってもいいような生き方をする必要があります。
  • 教会の携挙は患難時代が始まる前に起こります。信じがたいことですが、このことをしっかり信じて生きることが大切です。携挙の後に来る患難時代の苦しみを知る時、携挙は私たちに大きな慰めと励ましを与えます。今は「恵みの時、救いの日」です。ですから、「私たちは、見えるものではなく、見えないものにこそ目を留めましょう。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)。そこに目を向けながら、「天からの住まいを着る」(Ⅱコリント5:4)ことを私たちの唯一の望みとして、キリストによって新しくされた「内なる人」が日々新しくされていくことを期待したいものです。

    マラナ・タ!!


2013.10.27


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