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エリフの弁論(2)

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25. エリフの弁論 (2)

【聖書箇所】34章1節~37章24節

ベレーシート

  • 32~37章におけるエリフの長い弁論をここでまとめてみたいと思います。つまり、エリフの言わんとする主張を一言で言うならばどういうことになるのか。それが実は難しいのです。神に関して、多岐にわたってすばらしい事を語っているのですが、ある意味、混乱させられるのです。
  • エリフの弁論に対してヨブが一切反論せず、沈黙しているのはなぜなのでしょう。エリフの弁論のすべてをヨブが受け入れたからなのでしょうか。それとも、ヨブの心情とズレが生じているために、これ以上対論しても無駄だとヨブが感じたのでしょうか。いずれにしても、ヨブの沈黙は謎です。
  • エリフが語った神のあわれみによる苦難の教育的意義については了解できます。そしてそれは真理です。しかし、そのあとにエリフが語っている事柄はなかなか整理がつかず、理解できません。エリフはヨブが語ったことばを取り上げて語って行きますが、時折、ヨブの語ったことばを誤解している面もあります。一見ヨブの理解者であるように見えながら、突き放している面もあります。この混乱さこそがエリフの弁論の特長と言えなくもありません。この混乱さをもたらしていることばとして、二つの箇所を取り上げたいと思います。一つは、33章12節の「神は人よりも偉大だからである」ということばです。もう一つは、37章23節にある「私たちが見つけることのできない全能者」というフレーズです。それぞれ原文を見ながら瞑想してみたいと思います。

1. 33章12節の「神は人よりも偉大だからである」

画像の説明

  • ここで注目すべきことは「偉大である」と訳された赤色の部分の動詞「ラーヴァー」(רָבָה)です。意味としては「大きくする、増し加える、増やす、多くする」です。物質の数や量や能力や回数などの増加、拡大のニュアンスです。宇宙的な広がりのニュアンスのゆえに、人間が立ち行かない神秘が隠されているように思います。あまりにも人間の基準や思いを超越していて、神を求めようとすればするほど見出すことができない神秘、神に近づこうとすればするほど理解できないことが多くなってしまう。そのようなニュアンスが、この「神は人よりも偉大である」というフレーズの意味ではないかと考えます。

2. 37章23節の「私たちが見つけることのできない全能者」

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  • ここで注目すべき点は、まず「全能者」を意味する「シャッダイ」でことばが切れていることです。そして、その後に、「私たちは彼を見出すことはできない」とあります。全能者の力においても、その義においても、その統治においても、その神秘を見出すことはできないと語っているフレーズです。にもかかわらず、エリフは神について実に多くのことを語ろうとしたのです。
  • 「マーツァー」(מָצָא)は「見つける、見出す、出会う」という意味です。聖書で最初に使われているのは創世記2章20節です。そこには、「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見つからなかった。」とあります。「ロー・マーツァー」(לֹא־מָצָא)です。人にとって最も必要とするもの、最も大切なものを、自らの力で見出すことができないという現実が創造の当初からあったのです。
  • このエリフのことばは、私たち人間の知識では分からないことが神の世界にはあるという事実を意味しています。最も知りたい答えが見つからないのです。特に、苦難の問題についてはなおさらのことです。事実、38章から主が登場してヨブに語りかけますが、ヨブの「苦難」とその原因について一切ふれていないのです。これは驚きです。ヨブが最も知りたいことについて、神はなにも答えない。これが神の答えです。それゆえ主は、エリフに対して一言、「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」(38:2)と断罪しています(脚注)。
  • 私たちはヨブ記の物語が、天的現実として、神とサタンとのやり取りがあったことを知っています。しかし地的現実の中にあるヨブを含めたすべての登場者にはそのことが一切知らされていないという設定があることを知らなければなりません。これは神が登場しても人間には知らされないままなのです。
  • 使徒パウロも人間の次元からその解決の光を得ようと知恵を求めたとしても、それを得ることができないのは神の知恵なのだと語っています。つまり、神ご自身が自ら至現(啓示)されない限り、私たちは神の世界の神秘(天的現実)を知り得ないのだということなのです。

脚注
もっとも、この主のことばはヨブに語られたものであるとする解釈が一般的です。しかし「この者」とは、ヨブだけでなく、それまで語ってきたエリフも、そして三人の友人たちも含めた「者」と解釈することも可能です。とすれば、主なる神はこの一言でエリフを断罪したことになります。エリフの長い弁論は、神の「摂理を暗くする」つまらない話の連続にすぎなかったことになります。とすれば、エリフの登場は、まさに主が、38~41章において舞台に登場するための「架け橋的存在」(位置づけ)にあるということになります。

2014.7.5


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