****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イスラエルとユダの回復の預言

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33. イスラエルとユダの回復の預言

【聖書箇所】 30章1節~24節

ベレーシート

  • まず、「イスラエル」=「ヤコブ」ということばには、以下のような意味合いがあります。ですから、それぞれの箇所においてどの意味で使われているのかを知らなければなりません。

    画像の説明

  • エレミヤ書の心臓部(29~33章)のパート2です。この心臓部には神のみこころ―神のご計画の目的ーが啓示されています。主の祈りの中に「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」とあります。これは礼拝の中でただ単に繰り返して祈っていれば良いということではありません。その意味することを正しく理解する必要があります。神のみこころを尋ね求めることなく、教会を建て上げることは徒労に終わります。目に見える働きや成果に囚われることなく、御父がどのようなご計画を持っておられるかに関心が向けられなければ多くの時間を無駄にすることになると信じます。
  • エレミヤ書30章で語られている(記された)預言は、全イスラエルの回復という途方もない計画、そしてそれが実際どのように実現するのか予想もつかない預言に注目したいと思います。また、それに付随する重要な事柄にも注目したいと思います。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ30章3節

「見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの繁栄を元どおりにすると、【主】は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」


●「見よ。その日が来る。」というフレーズと、「わたしの民イスラエルとユダ」というフレーズが出てくる預言は、「終わりの日」の預言と考えなければなりません。それはキリストの再臨によって実現する預言なのです。


1. イスラエルとユダの回復

  • 29章では、バビロンの捕囚となったユダに対する将来と希望についての神の計画について語られました。そこには民が神を見出し、神が民によって見出されるということが実現されたときに、再び、ユダの民を元の所に帰すことが語られていました。ところが30章では、ユダのみならず、北イスラエルも元どおりに回復されるという預言です。次章の31章における預言も「全イスラエル」に対して語られています。
  • 30章3節にある「イスラエル」とは「北イスラエルの10部族」のことです。B.C.721年にアッシリヤによって滅亡し、すでに異教化した部族です。預言者エレミヤはユダ王国の預言者であり、彼が預言を始めたときには北イスラエルは全く過去の話であり、百年以上も前のことです。北イスラエルはサマリヤ人とも言われ、彼らは新約聖書の時代までユダの民(ユダヤ人)からは外国人に近い扱いをされ、犬猿の仲となっていました。しかしイェシュアは「良きサマリヤ人」のたとえ話をされ、また実際にサマリヤの女の渇きをいやされました。また初代教会においては、エルサレムでの大迫害によって、ピリポがサマリヤに逃れ、そこでイェシュアの福音を語って多くの人々がイェシュアをキリストとして信じました。しかし、北イスラエルの10の部族であった者たちの多くは世界中に散らされ、今現在もその末裔がどこにいるのかも分からずの状態なのです。
  • にもかかわらず、「見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの繁栄を元どおりにする」と【主】は約束されたのです。その日はまだ実現していません。しかもどのようにそれが実現するのか予想もつきません。しかしこのことは神の約束ですから、確実に、実現するのです。
  • 今から百年前に今日のイスラエルが国家として再建するとは、ごく限られた者以外は、ほとんどだれも考えることができませんでした。しかし今やそれ(国家としての再建)が回復されています。また1900年間も使われていなかったヘブル語が復活しました。これらはみな奇蹟です。あり得ないと思われていたことが実現したとするならば、エレミヤ書30章3節の預言も実現するのです。

2. 「昔のように」ー神の先取的恩寵ー

  • 22節には「こうして、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる」(新共同訳は「こうして」という接続詞の「ヴェ」(ו)は訳されていません)とあります。「あなたたち」とは、ユダとイスラエルを含む全イスラエルを意味しますが、その「あなたたちは、わたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる」ということ、これが神の全イスラエルに対する最終目的です。単にユダの民が捕囚から解放されるということだけではなく、イスラエルも共に20節にあるように、「その子たちは昔のようになり、その会衆は私の前で堅く立てられる」という終末的預言が語られています。
  • しかしそのことが実現される前に、30章7節にあるように「ヤコブの苦難」の時をくぐらなければなりません。この苦難はヤコブが純化されるための反キリストによる大患難による試練です。その日は「大いなる日、比べるものもない」苦難の日なのですが、そこから救われた者たちこそ、主によって「わたしの民」となる「残りの者たち」なのです。
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  • 「昔」と訳されたヘブル語は「ケデム」(קֶדֶם)ですが、この「ケデム」は「東」という意味もあります。この言葉の元になっている動詞の「カーダム」(קָדַם)は次のような意味を持っています。東は太陽が上って来る方角ですが、そこから「会う」「迎える」「出迎える」という意味を持っています。たとえば、詩篇21篇3節では「あなたは彼(王)を迎えて(קָדַם)、すばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます」とあります。同じく詩篇59篇10節では「私の神は、私を迎えに(קָדַם)来てくださる。」(新共同訳では「神は私に慈しみ深く、先立って(קָדַם)進まれます。」)。つまり動詞の「カーダム」は「先立って、出迎える」という神の先取的な恩寵的行為を表わすのです。したがって「昔のように」とは、この神の先取的恩寵による回復を意味しているのです。神の先取的恩寵によってはじめて「あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる」という新しい契約が成立するのです。主がイスラエルとユダの罪を赦して、神みずから出迎えてくださることなくしては、彼らも、またキリストを通して彼らに接木された私たち異邦人も、神の共同財産(=御国)にあずかることはできないのです。
  • さて、20節の冒頭にある「こうして」とあるからには、「どうして」というプロセスが存在します。そのヒントになるのが21節のことばです。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ31章21節

その権力者は、彼らのうちのひとり、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。──【主】の御告げ──

  • これはメシア預言です。イザヤ書53章に登場する「苦難の主のしもべ」を想起させます。全イスラエルから出るひとりの「権力者」「支配者」は神に近づく祭司的メシアであり、民のためにいのちを犠牲とする苦難のしもべです。この方はイエス・キリスト(イェシュア・ハマシアッハ)です。この方によってのみ、「昔のように」、ダビデの幕屋(全イスラエルが神を礼拝することを象徴する意味でのダビデの幕屋)が回復されるという希望があるのです。しかしこのことは、イェシュアが「山に向かって、『動いて、海に入れ』」と言われたように普通ではあり得ないような、想像し得ないような奇蹟的な出来事の実現なのです。しかし歴史はそこに向かって確実に進んでいますから、私たちは信仰をもって神のみこころの実現のために祈らなくてはならないのです。「主の祈り」の中にある「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」との祈りは、まさにそのことを意味する壮大な祈りなのです。

2013.3.13


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