****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イスラエルとユダの回復のヴィジョン

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34. イスラエルとユダの回復のヴィジョン

【聖書箇所】 31章1節~22節

ベレーシート

  • エレミヤ書の心臓部(29~33章)のパート3です。パート2では、「見よ。その日が来る」という表現によって「全イスラエルの回復」が預言されましたが、パート3の31章1~22節では、「そのとき」という表現によって、全イスラエルが回復するときに起こる「爆発的な喜び」を伴う主の祭りが行なわれることが預言されています。
  • エレミヤが預言活動をはじめたのはヨシヤ王の治世13年目でした。そして18年目にヨシヤ王が神殿の修理を命じた時に、大祭司ヒルキヤが主の宮の中で「主の律法の書」を発見しました。ヨシヤ王はこの「主の律法の書」による改革を行ないます。そのとき、彼はすでに滅びた北イスラエルの「残れる者たち」とユダの人々に呼びかけて、エルサレムにおいて主の祭りを計画します。かつてのダビデの時代の時のように、全イスラエルが集まって主を礼拝しようとしました。しかしそれは政治的な意図があると思われ、敬遠された感じがあります。しかしそこには預言的啓示があります。つまり、神の民イスラエルがエルサレムを中心として一つになるという「ダビデの幕屋の回復」です。しかし結果的にその時は見過ごされましたが、神はその計画を捨てられたわけではありません。最後の時まで持ち越されたのです。そこに目を向ける必要があります。
  • 31章はゼデキヤ王の治世第五年の頃に語られたもののようです。

1. 「そのとき」(「アーズ」אָז)

  • 4節に「エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。」と呼ばわる日が来るからだ。』」とあります。ソロモン以降、イスラエルは二つに分裂し、北王国の人々はエルサレムに巡礼に行くことができなくなりました。そして北王国はアッシリヤによって滅ぼされ、捕囚と離散によって散ってしまいました。そうした散らされた民が再び、エルサレムのシオンに上る日が来て、全イスラエルが神を礼拝する時が来るのです。
  • 「見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中にはめしいも足なえも、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに(シオン)に帰る。」(31:8)と主が語られたのです。これは最終的な帰還の預言です。それはいまだ実現していませんが、そのときは必ずやって来るのです。ここに神の「夢」(神のみこころ)ーダビデの幕屋の回復ーがあります。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書 31章13~14節

13 そのとき(「アーズ」אָז、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも共に楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。
14 また祭司のたましいを髄で飽かせ、わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。──【主】の御告げ──」

  • 神の夢の実現の時には爆発的な喜び(楽しみ)と言い表せない満足が押し寄せます。

2. 神の終末的な夢の視点から歴史を見る(森を見て、木を見る) 

  • 「そのとき」にもたらされる喜び、満足、解放、勝利というヴィションに目を向け、それが私たちの御父のみこころとして共有することで、はじめて「あなたの将来には望みがある」(31:17)のです。
  • 「主の祈り」の中に「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」とありますが、ここにある「みこころ」をこの祈りを祈る者たちがどのように理解しているのでしょうか。神の全体的なトーラー(みおしえ)の中に、日常の行動の細々とした指針を意味するミツヴァー(仰せ)があるように、神の主権的な不可抗力的なみこころの中に、神が私たちひとりひとりに対して望んでおられる細々としたみこころがあります。
  • 重要なことは、前者に注目することです。神のトーラーや主権的なみこころにいつも目を留める必要があります。神の救いのドラマの骨頂はその終結にあります。人間的にそれがどのようにしてなされるのか予測不可能であっても、それは必ず実現すると信じて、神の夢を共有することです。このことが神を愛することになります。このことをないがしろして、目先の守るべき「ミツヴァー」や「望まれているみこころ」にのみ心を向けているだけでは、主の民として生きる力が刷新することはありません。神の最終の目的の実現を共有することによって、生きる望みがはじめてドキドキ感、ワクワク感、ウキウキ感を伴ってもたらされると信じます。
  • 旧約の預言者たちが語った神のさばきの先にある喜び希望慰めを悟り、それを期待する視点を整えていく必要があるのです。それは「木を見て、森を見ず」ではなく、「森を見て、木を見る」見方です。日々、聖書を読む時も、瞑想する時も、「昼も夜も」です。この視点が養われないと迷路の中に置かれてしまうことになり、聖書が正しく理解できずに、いつになっても自分勝手な読み方から脱することができなくなるのです。
  • 聖書を正しく理解するキーワードは「イスラエルの回復」という神の夢です。そこに異邦人はキリストにあって接ぎ木されたという驚くべき恵みがあるからです。

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2013.3.15


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