****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イエスのバリア・フリー的宣教

〔1〕ルカの福音書の学びの「視座」

2. イエスのバリア・フリー的宣教脚注1〕・・・貧しい者との連帯と赦しの実践

(1) 当時の社会における様々なバリア(障壁)

  • ①指導者(祭司、パリサイ人、律法学者)とアム・ハーレツ(羊飼いたち)階級的バリア
    ②富める者と貧しい者 経済的バリア 
    ③ユダヤ人とサマリヤ人(異邦人の中でも、特にサマリヤ人に対するユダヤ人の憎悪は強かった) 人種的・宗教的バリア
    ④エルサレムとガリラヤ 地域的バリア
  • ルカの福音書においてイエスが交わりを持った特定の種類の人々がいる。その最初に挙げられるのが貧しい人々である。さらに、女性を初めとして、取税人やサマリヤ人と交わりを持っていることが強調されている。ー社会的、宗教的障壁を乗り越えることは、当時の社会においては驚くべきことであった。ルカの福音書において、イエスのすべての活動とイエスがこれらすべての人々およびその他の無視されていた人々と関係をもっていたことは、イエスが当時のバリア(障壁)を越えてあわれみを実践していたことを証しするものである。

(2) イエスのバリア・フリー的宣教を指し示す記述

①サマリヤ人、サマリヤの記述

  • ルカはサマリヤ人について何度か言及しているが、その中の少なくともいくつかは、非常に重要である。マルコはサマリヤ人やサマリヤについて何も言及していないし、マタイはイエスがサマリヤ人の町に入ることを禁止したことを記録しているだけである(10:1)。サマリヤ宣教は異邦人宣教の最初であり、神のご計画の一部であることを示すためであった。
  • ルカの中心部分、すなわちイエスのガリラヤからエルサレムへの記事(9:51~19:40)は、イエスがサマリヤ人と出会う記事(9:51~56)で始まっている。イエスは使いを送ってサマリヤの街に彼と弟子たちが泊まるところを用意させたが、町の住民は彼らが泊まることを拒絶した。ヤコブとヨハネは怒って、晩年のエリヤのように、天から火を呼び下してサマリヤ人の町を焼こうとしたが、イエスは二人の弟子を叱り、他の町へ行った。イエスの反応を理解するために、ここで心に留めておかなければならないことは、国粋主義的ユダヤ人にとって、サマリヤ人は異邦人よりも受け入れがたいということである。この態度は、サマリヤ人がユダヤ人の神殿を汚し、ユダヤ人の巡礼の人々を殺したことによる。それゆえ、ルカによる福音書を読んだユダヤ人は、ヤコブとヨハネの態度は十分に理解できるが、イエスの反応は理解できなかったに違いない。なぜなら、同胞が復讐の思いを抱くことをイエスガ否定したからである。
  • サマリヤ人について、ルカの次の言及、特に良きサマリヤ人のたとえ(10:25~37)はここで扱うテーマにとってさらに重要である。ユダヤ教の立場からするなら、サマリヤ人はユダヤ人の敵だけでなく、神の敵でもある。この記事の文脈の中では、サマリヤ人は否定的宗教価値しかないと思われている。彼は律法の成就からは最も離れており(これはイエスがこのたとえを語るきっかけになった問題である)、宗教的道徳的階級の底辺に位置しているのに対し、祭司やレビ人は頂点にいた。ユダヤ人はユダヤ人でない者から愛のわざを受けることが禁止されていたし、サマリヤ人が所有していた油やぶどう酒を買うことも許されていなかった。しかし、ユダヤ人の社会において、強盗に襲われている人にあわれみをかけるのは「人間」ではなく、「人間以下」の者であった。その彼が犠牲者に「祝福に満ちた友情」を示したのである。
  • ルカはサマリヤ人についてもう一つの出来事を述べている。それは重い皮膚病の患者の癒しである(17:11~17)。重い皮膚病の恐怖は、ここではユダヤ人とサマリヤ人の区別もなくしていた。この物語は10人の重い皮膚病患者のうち9人はユダヤ人であり、一人はサマリヤ人であったことを示唆している。全員が祭司に自分を見せるために行ったが、イエスに感謝するために帰ってきたのは、サマリヤ人ただ一人であった。イエスが彼に言った。「行きなさい。あまたの信仰が、あなたを直した(いやした、あるいは救った)のです」という言葉は、救いはこの軽蔑されていた人にも与えられたという事実を明らかに示すもうひとつの例である。
  • ルカは使徒の働きにおいて、復活した主は、エルサレムとユダヤの後に、サマリヤが福音の受け取り手となるであろうと告げた(使徒1章8節)。サマリヤ宣教は、伝統的なユダヤ的バリアからの決別を示唆するものであった。〔脚注2〕

②公生涯最初のナザレの出来事(ルカ4章16~30節)・・「復讐を克服されたイエス」

  • わたしの上に主の御霊がおられる。
    主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。
    主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。(4:18~19)
  • ここはイエスの公生涯全体の序文、あるいはこの福音書の物語全体の要約といわれている箇所である。なぜなら、ここにはイエスの活動全体の基本的特徴があらわされているからである。
  • ルカは聖書朗読のあと、イエスが語ったことをごくわずかしか告げていない。むしろ、彼はイエスの故郷ナザレにある会堂の会衆がいかに反応したのかに焦点を当てている。その反応から明らかなことは、イエスが彼らに敵対心を起こすような、拒絶されるような何かを語ったということである。
  • ルカ4章16~22節と4章23~30節の間の矛盾について、引用されたイザヤ書61章が当時のユダヤ人にとってどのように理解されていたかたを見てみよう。イエスが引用したイザヤ書61章は途中で終わっている。つまり「われわれの神の復讐の日を告げ」という部分の直前で終わってしまったのである。イエスは、メシアによるイスラエルの敵に対する復讐が来ることを預言していることばをはずして、「主の恵みの年」のみを告げ知らせた。そのために「会堂にいるみなの目がイエスに注がれた」のである(ルカ4章20節)。そして、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」(21節)と語った。これは当時の人々が待望していたメシアとは全く異なっていたことと、イエスが神が異邦人を祝福れた出来事を語ったことのために、人々はイエスを殺そうとしたのである。
  • イエスが復讐についての言及を除外しているのはナザレだけではない。このモチーフは、ルカの福音書の他の箇所にも見ることが出来る。例えば、ルカ7章22~23節。ここではバプテスマのヨハネに対するイエスの答えの中で、イエスはイザヤ書のいろいろな聖句を繋ぎ合わせて答えている。これらの箇所はなんらかの形において、神の復讐について言及されている(イザヤ35:4,29:20,61:2)。これはイエスガ無意識にしたのではない。なぜなら、イエスは「わたしにつまずかない者は幸いです」(ルカ7章23節)ということばを付け加えているからである。
  • ここで重要な事は、救いの時代は人々の期待とは異なっていたということ、そして貧しい者、見捨てられた者、イスラエルの敵でさえも神の憐れみが復讐を克服したという事実である。
  • 事実、イエスの逮捕、裁判、処刑を通じてのイエスの行動は、確固たる暴力否定の態度を強調している。ルカは、イエスが悪をもって悪に報いることを拒絶した人として理解していた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」(24章34節) この十字架上の最初のことばは(ルカの独自のものであるが)、イエスがことばと行いにおいて、敵を愛することを教えたのである。

(3) イエスの与える「平和」(シャローム)

① 平和(シャローム)を作り出すこと

  • 今日、現代世界において、テロ、暴力、犯罪、戦争、貧困が最も重要な問題となっている。しかもそれらは互いにしかも密接に関係している。まさにこのような現実の問題がルカの福音書の焦点でもある。天軍賛歌の「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(2章14節) 平和を作り出すことは、ルカ神学の重要な要素であり、教会の宣教の重要なメッセージである。使徒の働き10章36節にも「神がイエス・キリストによって平和を告げ知らせ」と記されている。イエスに従う者の心には復讐が入り込む余地はない。それは、イエスが自分を十字架につけた者のために祈った祈り(23章34節)の記事、また、殉教で死んでいくステパノの祈り(使徒7章60節)にも反映している。

② 非暴力による平和

  • イエスの与える平和は、ローマ帝国の軍事力によって得る「平和」とは無関係である。悪に対する非暴力によって、愛によって作り出される平和、それこそ、この世における教会の果たすべき役割なのである。そのためには、私たちの様々な領域におけるバリアが取り払われることが必要である。しかもそのバリアを取り払って下さる方こそ、救い主イエスである。

脚注1〕
1994年、「ヒトに優しいモノ作り」をコンセプトに異業種間で結成されたE&Cプロジェクト(Enjoyment & Creation)が、「バリア・フリー」という言葉を初めて世に出して大きな反響を得た。「バリア」とは、身体障害者、高齢者、妊産婦、けが人、病人そして子供たちの立場から見た生活環境上の「障壁や障害」を意味する。したがって、バリア・フリーとは「障壁、障害を取り払う」ということを意味する。今回、イエスの福音宣教を「バリア・フリー的宣教」としたのは、モノのバリアではなく、社会制度や文化や心のバリアを問題としたいからである。特に、私たちの「こころ」の中にあるバリアはなかなか取れない。口では「バリア・フリー」を叫びながら、心の中には強力なバリアを作っていることが多いのである。たとえば、「あの人よりも私はここが優れている。私をあの人と一緒にしてほしくない。あの人たちは私たちとは違う、特殊な人たちだ。」といった発想、見方。これがバリアである。 


脚注2〕
ルカの福音書を注意深く読むなら、ルカはユダヤ人と彼らの宗教や文化に対して、非常に肯定的な態度をとっている事がわかる。ルカはイエスの教えと律法学者の教えとの相違を、他の福音書ほど強調していない。イエスはパリサイ人を批判しているが、マタイほど厳しくない。彼らは決して「偽善者」とか「盲目の手引き」とは呼ばれていない。ルカはイエスがパリサイ人の食事に招かれた三つの例を伸べている。しかもルカは論争的な記事(マルコ7章1~20節のような)を除外しているが、それをユダヤ人が読んだならば、不快感を覚えるであろう。彼はマタイのように、毒麦のたとえを祭司長、バリサイ人に適用していない。ルカの受難物語においては、群衆は「その血の責任は、われわれと子孫にある」(マタイ27章25節)とは叫んでおらず、かえってルカは「大勢の民衆」がイエスのことで嘆いたり悲しんだりした(23章27節)と述べている。ルカだけが、十字架につけられたイエスが「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(23章24節)と祈ったと述べている。ルカはユダヤ人の指導者たちが無知のゆえに行なったということを、しばしば強調している(使徒3章17節、13章27節参照)。

ルカは、イエスの幼児期物語においてイスラエルの重要性を強調している。異邦人のルカは、ここでイエスを何よりもまず古い契約の民の救い主であることを示している。マリヤの賛歌においてマリヤ「神はそのしもべイスラエルを受け入れて、あわれみをお忘れになりません.私たちの先祖に言われたとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」(1章54~55節)と言っている。ザカリヤの賛歌においても、同じ感情が表現されている。「ほめたたえよ、イスラエルの神を。主はその民を訪れて解放し、われらのために救いの角を、しもべダビデの家から起こされた。」そしてシメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望」(2章38節)んでいた。彼は自分の目で「救い」を見る特権(2章30節)と、「あなたの民イスラエルのほまれ」のゆえに神をほめたたえた。さらに女預言者アンナは、「エルサレムの救いを待ち望んでいる」人々に、幼子イエスのことを語った。

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