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イェシュアの葬りと封印された墓


125. イェシュアの葬りと封印された墓

【聖書箇所】マタイの福音書27章53~66節

ベレーシート

●イェシュアが十字架につけられて死なれた前後の五つの奇蹟的な出来事は、後に起こる預言的な出来事を啓示していることを前回学びました。今回はそれらを見た「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たち」がどのような反応をしたのか、そしてそれが示していることは何かを考えてみたいと思います。先ずは今回のテキストの一部を見てみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書27章54~61節
54 百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」
55 また、そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。
56 その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。
57 夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。
58 この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた。
59 ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、
60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入り口に大きな石を転がしておいて、立ち去った。
61 マグダラのマリアともう一人のマリアはそこにいて、墓の方を向いて座っていた。


1.「この方は本当に神の子であった」という告白

【新改訳2017】マタイの福音書27章54節
百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」

●「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たち」とは誰のことでしょうか。それはローマの兵士たちで、異邦人です。ユダヤ人たちよりも、異邦人の方が先にイェシュアが神の子であったと告白したのです。これは、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」(マタイ19:30)、あるいは「後の者が先になり、先の者が後になります。」(同20:16)とイェシュアが話したように、「先の者」とはユダヤ人たちのことであり、「後の者」とは異邦人のことを意味しています。つまり、ユダヤ人たちよりも、異邦人が先になるということです。「なる」とは、イェシュアを神の子として信じるようになるという事実です。このことは、ローマの百人隊長の信仰に対して、「わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません」(同8:10)とイェシュアが称賛していることでも分かります。

●「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たち」の「この方は本当に神の子であった」という告白は、イェシュアの人性のうちにあった神性を認めたことを意味しています。イェシュアの十字架の死によって、神殿の垂れ幕が上から下に真っ二つに裂けたことをマタイは記しています(マタイ27:51)。それは神と人を隔てている仕切りの幕が裂けただけでなく、神の民であるイスラエルと異邦人との間にある「敵意という隔ての壁」が、イェシュアの肉体によって打ち壊されたことをも意味しているのです(エペソ2:14) 。また「奴隷と自由人、男性と女性」といった隔ての壁も打ち破ってくださったのです(ガラテヤ3:28)。このように、イェシュアの十字架の死に際して記されている一つひとつの記述には、神のご計画における重要な事柄が啓示されているということなのです。

2. 大勢の女性たち

【新改訳2017】マタイの福音書27章55~56節
55 また、そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。
56 その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。

●イェシュアの周りには常に多くの群衆がいましたが、その群衆の中にはイェシュアに仕えていた大勢の女性たちがいました。56節に「その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた」とあります。「ヤコブとヨセフの母マリア」と「ゼベダイの子たちの母」は同義です。つまり、ここでは「マグダラのマリア」と「ゼベダイの子たちの母マリア」がいたことを記しています。イェシュアの母マリアとベタニアのマリアは記されていません。しかし、ここで重要なのは、「マリア」という名前が持っている意味なのです

●キリスト教の歴史において女性の存在とその働きは重要でした。彼女たちはいつもイェシュアの傍らに存在していました。使徒の働き1章15節にはイェシュアの昇天した後の事が記されていますが、「百二十人ほどの人々が一つになって集まっていた」とあります。その中の人とは、11名の使徒たち、その「彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた」とあります。イェシュアの兄弟たちとは4名(ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン)です。使徒たちと合わせても、男だけで15名です。他の男性もいたとは思いますが、他に記されているのはイェシュアの母と女たちです。ということは、女性たちがいかに多かったかが分かります。当時のユダヤでは男性中心の社会であったため、女性は重要視されていませんでした。ところが、イェシュアは多くの女性たちから信奉されていたのです。

●女性たちの中でも、「マリアという名」は特別な意味があります。イェシュアの母の名がマリアだからではありません。マリアという名が啓示している事柄が重要なのです。ヘブル語では「マリア」のことを「ミルヤーム」(מִרְיָם)と表記します。これはモーセの姉である「ミリアム」と同じです。余談ですが、なぜ「ミルヤーム」(מִרְיָם)を「ミリアム」と表記するのでしょうか。それは英訳の弊害です。英語表記がMiriamとしているからです。日本語訳は英語に追従してしまっているからです。しかしヘブル語では「ミルヤーム」なのです。また、【新改訳2017】では、それまでの「マリヤ」を「マリア」に改訂しています。それはギリシア語表記であるΜαρίαを優先したからです。ユダヤ人の名前は固有名詞であるにもかかわらず、正しく表記されることなく、自由に訳出されているのです。「イェシュア」を「イエス様」と訳している聖書もあるほどです。原初に帰るという意識で訳された聖書であってもこの有様ですから、その時点でその意識が削がれてしまいます。

3. イェシュアの葬り

【新改訳2017】マタイの福音書27章57~61節
57 夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。
58 この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた。
59 ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、
60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入り口に大きな石を転がしておいて、立ち去った。
61 マグダラのマリアともう一人のマリアはそこにいて、墓の方を向いて座っていた。

●ユダヤの律法によれば、十字架につけられた者は呪われた者とみなされ、その者によって地が汚れることがないように、「安息日」の前までに死人を十字架から引き降ろさなければなりませんでした。そのとき、イェシュアのからだを引き降ろして墓に葬ろうとして下げ渡しを願った人物が突如現れたのです。その人物こそ、ここではじめて登場する「アリマタヤのヨセフ」です。もし彼が現れなかったとすれば、イェシュアは二人の囚人とともに、囚人用の墓地に埋められていたかもしれません。

●マタイの福音書ではイェシュアの受肉と誕生の時にイェシュアの父となるヨセフが登場します。そして、イェシュアが贖い(身代わりの死)を成し遂げられた後にも、イェシュアの遺体を引き取って自分のために備えてあった墓に葬ったアリマタヤのヨセフが登場します。つまり、御子イェシュアの生涯の始まりと終わりに、「ヨセフ」という名前がかかわっているのです。これは単なる偶然ではありません。そこには隠された巧妙なつながりが意図されています。聖書をユダヤ的な視点(ヘブル的視点)から読むということは、こうしたことにも着目し、その意味するところを思い巡らすことでもあるのです。なぜなら、御子イェシュアはそれまでの旧約聖書の中に啓示されてきたことを満たす(実現する・成就する)ために神から遣わされているからです。つまり、イェシュアと旧約聖書とはきわめて密接なつながりをもっているからです。

(1) 「アリマタヤ」という地名

●イェシュアの遺体を十字架から引き降ろしを願い出た人物が「アリマタヤ」出身であったことは、深い意味があります。「アリマタヤ」とはギリシア語の「ハリマサイア」άριμαθαίαで、「高い所、山地」という意味のヘブル語の「ラーマ―タイム」に定冠詞のついた「ハーラーマ―タイム」הָרָמָתַיםをギリシア語に音訳したもので、預言者サムエルの故郷である「ラマタイム・ツォフィム」と同一視されています。通称「ラマ」とも呼ばれ、イスラエルには他の三つの地域にも「ラマ」と称するところがありますが、おそらくアリマタヤのヨセフは、預言者サムエルの生まれ故郷と同じ場所だと考えられます。

●アリマタヤ出身の預言者サムエルは、最後のイスラエルの士師として、王を求めるイスラエルに対してイスラエルにおける王制の理念を文書化した偉大な預言者です。やがて彼から油注がれたダビデが登場しますが、ダビデ以降、預言者サムエルの警告どおり(Ⅰサム8章参照)、イスラエルの多くの王が牧者の心を失って行きます。その結果、イスラエル(北も南も)は亡国という憂き目に遭遇します。そうした中で預言者エゼキエルは真の牧者なるメシアを神がお遣わしになることを預言しました。エゼキエル書34章にあるように、羊を知り、羊を養い、敵から守り、憩わせ、そして羊のためにはいのちを捨てるという、そのような牧者こそイスラエルの真の理想的な王の姿です。それはダビデに勝る真の王、メシアなる王イェシュア・メシアを指し示しています。つまり、「アリマタヤ」という地名には、真の王となるべきメシア・イェシュアがやがて来られるということが隠されていると言えるのです。

(2) アリマタヤのヨセフという人物

●アリマタヤのヨセフは、預言者サムエルと同じ出身地であり、サムエルが指示した「まことのイスラエルの王であり、かつ真の牧者であるメシア」を待ち望んでいた人のひとりでした。ルカは彼のことを老シメオンと同様、「神の国を待ち望む人」として紹介しています。彼らは預言者サムエルの霊性の流れを汲む者たちなのです。

●彼のプロフィールを四つの福音書から拾ってみると、以下のようになります。

①マタイ27章57節・・金持ちで、イェシュアの弟子になっていた。
②マルコ15章43節・・有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。
③ルカ23章50節・・・議員の一人で、善良で、正しい人であった。
51節・・・彼はアリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた彼は議員たちの計画や行動には同意していなかった。
④ヨハネ19章38節・・イェシュアの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していた。

●上記の情報から明確に分かることは、アリマタヤのヨセフが最高法院の有力な議員であったが、イェシュアこそメシアであることを信じてイェシュアの弟子となった人であったということです。つまり、彼がイェシュアのために選ばれた人であったということです。彼がもしお金持ちでなかったとしたら、自分のために作っておいた新しい墓をイェシュアに提供することはできなかったはずです。使徒パウロは「神は知恵ある者や強い者をはずかしめるために、この世の愚かな者や弱い者を選ばれた」としながらも、主にある知者や身分の高い者たちも少なからずいることを述べています(Ⅰコリント1:26~27)。アリマタヤのヨセフはそのような身分の高い者の一人であり、イェシュアがメシアであることをあかしする者であったということです。

●アリマタヤのヨセフが「金持ち」であったことは、かつて取税人であったマタイだけが記す特記事項です。このことによって、イェシュアはユダヤの王としてそれにふさわしく、丁重に葬られることになりました。イェシュアは誰も使ったことのない新しい墓に納められたのです。「新しい墓」の「新しい」(「ハーダーシュ」חָדָשׁ)ということばは、聖書においては王に対して使われている語彙なのです(出1:8)。「新しい王」「新しい歌」「新しいいのち」「新しい契約」「新しい創造」「新しい生ける道」などすべて、王なるメシアと関係する語彙なのです。また、ヨセフはイェシュアの遺体を「きれいな亜麻布に包み」とありますが、「きれいな」と訳された語彙も、神にふさわしい「汚れのない、純粋な、真新しい」ものでした。

●さらにイェシュアの受難と死を契機として、アリマタヤのヨセフは自分がイェシュアの弟子であることを公に示す機会ともなりました。それまでの彼はユダヤ人を恐れて、自分がイェシュアの弟子であることを隠していたのですが、イェシュアのからだの下げ渡しを願い出たことで、イェシュアの弟子であることを公にしたのです。そのことによって、同じく最高法院の議員であり、律法の教師でもあったニコデモが、信仰を同じくする仲間としてイェシュアの葬りに携わっています。最高議員の中でイェシュアを神の子として信じた弟子たちは、わずか二人です。数としてはわずかですが、たとえ二人であったとしてもそこに神が共におられるというあかしが成り立っているのです。ちなみに、「ヨセフ」(「ヨーセーフ」יֹסֵף)の名前の意味は「加える」という意味です。創世記48章にはヨセフの二人の息子である「マナセ」と「エフライム」がヤコブの孫であるにもかかわらず、ヤコブの息子として受け入れられ、やがてカナンでそれぞれの相続地が与えられることを保証されます。同様に、最高法院のヨセフとニコデモは、やがてイェシュアを殺したイスラエルが神の相続を得られる保証ともなっているのです。このように、森の生態系がすべて一つにつながっているのと同様に、聖書が記す一つ一つのすべてがつながっているのです。

4. イェシュアの葬りに付き添っていたマリアという名の女性たち

●マタイでは、61節に「マグダラのマリアともう一人のマリアはそこにいて、墓の方を向いて座っていた」と記しています。マグダラのマリアはどの福音書にも共通して登場していますが、マタイの場合には二人のマリアです。これはマタイの「証人である」ことの特徴です。四つの福音書を総合するとイェシュアの葬りを見ていた女性はマグダラのマリア、クロパの妻マリア、イェシュアの母マリアとその妹サロメの4人なのです。ちなみに、イェシュアがエルサレムに来たときに必ず訪れていたベタニアの村の「マルタとマリア」の姿はここには見られません。なぜならマリアはすでにイェシュアの葬りを予感し、香油を塗っていたからです。

●マリアという名前に隠された意味は、その初出箇所にあります。

【新改訳2017】出エジプト記 15章20~21節
20そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た。
21ミリアムは人々に応えて歌った。「【主】に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」

●ミリアムはアロンとモーセの姉で女預言者です。タンバリンを打ち鳴らしながら、賛美をもって預言しています。「主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」と。これはイスラエルの民を滅ぼそうとして追跡してきたエジプトの軍勢、すなわち神に敵対する者をさばくことで、神が神の民を救われることを意味しています。このミリアム(=マリア)がヨセフの名と一つになることを通してはじめて意味を持つことになります。それはどういうことかと言えば、主がイスラエルの民を救うのはイェシュアを通してであるというメッセージが隠されているということです。そのためには、イェシュアを葬るためにアリマタヤのヨセフが登場しなければならないという神の必然性があるのです。この二人の名前が揃うところに意味があるからです。

●イェシュアは受肉する際にも母マリアと父ヨセフがおり、公生涯を終える時にもやはりマリアとヨセフという名を持つ人物が登場しているのは決して偶然のことではなく、神のシナリオでは必然なのです。その必然はイェシュアが葬られる墓の前で、「マグダラのマリアともう一人のマリアはそこにいて、墓の方を向いて座っていた」という記述に表されています。ここで二人のマリアが登場しているのは、マタイの場合は律法の規定に従って、「証言者は二人」という神の定めに従っているからです。

●その二人のマリアが「墓の方を向いて座っていた」のです。「~を向いて」と訳されている語彙はヘブル語の「ミンムール」(מִמּוּל)です。それは、大祭司がエポデをつける際に二個の純金の環を用いて、肩当てと帯のそれぞれの継ぎ目を向かい合わせるように付けるというところに使われています(出28:27)。しかしここではマリアと墓、つまりマリアと墓を提供したヨセフとが向かい合っているのです。旧約のヨセフの生涯は「苦難と栄光」です。それは御子イェシュアの生涯の型そのものです。マリアとヨセフという二つの名前が「ミンムール」(מִמּוּל)されることで、つまり向き合うことで、イスラエルの民の救いはイェシュアを通してであるということが啓示されているのです。

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5. 封印されたイェシュアの墓

【新改訳2017】マタイの福音書27章62~66節
62 明くる日、すなわち、備え日の翌日、祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのところに集まって、
63 こう言った。「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。
64 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものになります。」
65 ピラトは彼らに言った。「番兵を出してやろう。行って、できるだけしっかりと番をするがよい。」
66 そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。

(1) 封印されたイェシュアの墓

●イェシュアが墓に納められたときはもう夕暮れで、その夜から始まる安息日のために、いわば葬りの応急処置をしたにすぎませんでした(下の写真の左側)。ですから、彼らは後できちんとした葬りをするために墓の入り口に大きな石を転がして帰ったのでした(マタイ27:60、マルコ15:46)。ところが祭司長と律法学者たちは、イェシュアが「わたしは三日の後によみがえる」と言ったことを思い出し、ピラトのところに集まり、イェシュアの遺体が盗まれて死からよみがえられたと吹聴されないように、三日間、兵士たちが墓の警備に当たるように嘆願しました。なぜなら、ユダヤ人は安息日を守らなければならないために墓の番をすることができなかったからです。交渉の結果、総督のピラトは番兵を出すことを許可しました。祭司長とパリサイ人たちは墓まで行って石が封印されたことを見届けています(写真の真ん中と右側)。封印されたということは、ピラトの許可なく、だれも墓の石を動かすことができないことを意味しています。墓はしっかりと封印され、墓は警備されることになったのです(マタイ27:62~66)。ここにイェシュアに対する彼らの執拗な敵愾心のすさまじさを見ます。

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(2) アリマタヤのヨセフの墓が提供されたことの意味

●ヨセフがもし自らの墓を提供することがなければ、イェシュアを公に葬ったことを証しすることはできませんでした。これはイェシュアの復活の事実を明確にするためにとても重要なことであったのです。アリマタヤのヨセフがイェシュアを墓に入れたことで、イェシュアが葬られたことをユダヤ当局が確認したことを意味します。このことはイェシュアの復活がより明確にされる結果となるのです。

(3) イェシュアがダビデの町に葬られたことは、ダビデ王の子孫であることのあかし

●ユダの王にとって「エルサレム」(ダビデの町)に葬られることは重要なことでした。

①【新改訳2017】Ⅰ列王記 2章10節
こうして、ダビデは先祖とともに眠りにつき、ダビデの町に葬られた。
②【新改訳2017】Ⅰ列王記 11章43節
ソロモンは彼の先祖とともに眠りにつき、父ダビデの町に葬られた。
③【新改訳2017】Ⅰ列王記 14章31節
レハブアムは先祖とともに眠りにつき、先祖とともにダビデの町に葬られた。
④【新改訳2017】Ⅰ列王記 15章24節
アサは先祖とともに眠りにつき、先祖とともに父ダビデの町に葬られた。・・

●このように、ダビデの町(エルサレム)に葬られたユダの王たちの名前は他にも、ヨシャパテ、ヨラム、ヨタム、ヒゼキヤ、ヨシヤがいます。これらの王たちはすべて善王と呼ばれる王たちです。イェシュアをダビデの町に葬ることは、「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル7:12~13)とするダビデに対する神の約束(ダビデ契約)を成就するために、とても重要なことであったのです。神のご計画は揺り動かされることなく成就することを、聖書そのものが証ししているのです。

2022.3.6
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