****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

アラムの将軍ナウマンは主に選ばれていた

文字サイズ:

列王記の目次

27. アラムの将軍ナウマンは主に選ばれていた

【聖書箇所】 5章1節~27節

はじめに

  • イスラエルには二つのタイプの預言者がおります。一つのタイプはは、エリヤ、その後継者エリシャのような「行動の預言者」で、神への信仰が希薄となっている北イスラエルにおいて「主は生きておられる」ことを奇蹟によって示した預言者でした。もう一つのタイプは、奇蹟を行わず、ただ神から託された神のことばを告げ知らせた
    記述預言者で、ホセア、アモス、イザヤ、エゼキエルと言った預言者たちがおります。
  • 聖書はエリシャは10の奇蹟を記していますが、5章の「重い皮膚病であったナアマン将軍の癒しの奇蹟」は、そのなかの第五番目の奇蹟です。この奇蹟が何を訴えようとしているのかを考えてみたいと思います。

1. 主の器として選ばれていたナアマン

  • 1~3節に、神の導きの主権性を見ることが出来ます。

【新改訳改訂第3版】

5:1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。【主】がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。
5:2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
5:3 その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」

  • 「アラムの王の将軍ナアマン」という人物が、本人は自覚していなくとも、主によって選ばれていたことが分かります。彼は「主君に重んじられ、尊敬されていました。主がかつて彼によってアラムに勝利を得されられたからである。」とあります。イスラエルにとっては敵であるアラムに勝利を得させられた、その器としてナウマンという人物が紹介されているのです。彼が将軍という立場にあること、また彼には重い皮膚病を患っていたということ、しかもその病を癒すために、彼の妻に仕えるひとりの若い女奴隷がイスラエルの地から捕えられて来ていたこと、その女奴隷がイスラエルのサマリヤにナウマンの重い病気を治す預言者がいることを進言したのです。これらのことがすべて神の摂理のうちに備えられていたことを明らかにしています。
  • イエスの宣教は自分の育ったナザレから出発しましたが、ある日、会堂で預言者イザヤの書を手渡されて読んだ時に、ある箇所で意図的に読むのを止めたために、会堂にいた人々の目がイエスに注がれました。そしてイエスは、「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21)と言ったのです。イエスが意図的に読むことをやめた箇所のみことばは異邦人に対する復讐の箇所でした。イザヤ書61章2節には「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ」とありますが、その後半の部分をあえて読まなかったのです。
  • そこには神の深い救いのご計画の戦略が隠されていました。それを裏付けるために、イエスはエリヤの時代、エリシャの時代にあった起こった二つの奇蹟(エリヤの時代にシドンのサレプタにいたやもめ女に対してなされた恵みのしるし、エリシャの時代にツァラアトがきよめられたナアマンへの癒し)を取り上げ、イスラエルには多くのやもめがいたにもかかわらず、またイスラエルには多くのツァラアトがいたにもかかわらず、異邦人のやもめとナウマンだけに主の恵みが注がれたことを語ったとき、会堂にいた人々たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出す、がけから投げ落とそうとしたのです。
  • ですから、ナウマンのいやしの出来事は、単に、難病がいやされたということを意味するのではなく、神の救いのドラマにおける隠された戦略を備えた出来事であったのです。

2. エリシャの言う事に従順に従った報い

  • エリシャがナウマンに語ったことばは、彼にとって気に入りませんでした。直接、顔を合わせようとはせず「ヨルダン川に行って、七たび身を浸す」と言われたことばに、彼は自分が馬鹿にされたように思ったのです。それは、自分の思っている方法でいやしてほしいと考えていたからです。
  • 私たちは、しばしば主のことばに心がついて行かない時があります。しかし、私たちが自分の思いや感情に縛られずに、それを捨てて、神の言われるままに従うときに、主はそれに報いてくださるのです。
  • 「荒野の学校」を主催しているキム・ウヒョン監督が、日本に導かれて来たとき、主からイスラエルに行くように語られました。しかし、彼にとって誰にもましてユダヤ人が嫌いでした。そんなユダヤ人のいるイスラルエになぜ行くように語られるのか最初は理解できなかったそうです。しかし、彼が主の従順に従ったとき、神のみことばの秘密(奥義)が開かれるようになったとあかししています。
  • ナウマンを慕う女奴隷の進言によってイスラエルのエリシャのもとに来たこと。しかし、エリシャの態度に怒って帰ろうとしたナウマンに対して、彼を慕う部下たちがエリシャの言うとおりにしてみたらとナウマンに進言したことで、彼もエリシャのことばに従順に従い、ヨルダン川へ行って七たび身を洗ったとき、彼の肌は元通りになって、幼子のからだのように、きよくなったのでした。
  • これは重要な型です。主の言われる言葉に従順に従うとき(へりくだりも含んだ従順)、そこに神の報いがあるという原則の型です。この原則こそ、「イエス(イェシュア)の語った福音」なのです。

2012.10.31


a:13967 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional