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わたしはあなたを連れ出した主である

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94. わたしはあなたを奴隷の家から連れ出した主である

【聖書箇所】 出エジプト記20章2節

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【読み】
アーノヒー アドナーイ エローヘーハー アシェル ホツェーティーハー
メーエレツ ミツライム ミベート アヴァーディーム

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、【主】である。
【口語訳】
「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
【新共同訳】
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
【NKJV】
I am the Lord your God, who brought you out of the land of Egypt, out of the house of bondage.
【NIV】
I am the LORD your God, who brought you out of Egypt, out of the land of slavery.

【瞑想】

このフレーズは十戒の序文に当たります。十戒全体の土台となる部分であるため、非常に重要です。

「十戒」は、神とイスラエルの民との愛と信頼のかかわりを規定するもの(憲章)です。序文と言われる20章2節にこうあります。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」と。原文では「アノーヒー(わたし)・アドナイ(主)・エロヘーハー(あなたの神)」とあり、「わたしは、あなたの神、主」と宣言されます。

この宣言の後に、関係代名詞があって「私は、あなたの神、主」という方がどのような方なのかを説明する文節が続いています。それは、「わたしがあなたをエジプトの地から、奴隷の家から連れ出した」者であるからだとしています。「連れ出した」と訳されている動詞は「ヤーツァー」יָצָאです。旧約では1069回の使用頻度です。その意味は、「連れ出す」「導き出す」「引き出す」「携え出す」「救い出す」といった救出用語ですが、ここではその使役形(フィヒール態)が使われて「連れ出した、導き出した」となります。その意味するところは、あの強大な権力と力を誇るエジプトにおいて奴隷となっていた者たちをそこから連れ出し、絶体絶命の状況の中で紅海の水を分けてそこに道を設けて通らせて、荒野に導いてそこで人間が生きる上で必要な水とパンを与え、またアマレクとの戦いにおいては勝利を与えて彼らを守りました。20章2節ではそうした説明が一切記されていません。しかし当然のこととして、神がこれまでなさった出来事が、「わたしは、あなたの神であり、主である。」というこの自己宣言の背景に歴然としてあるのです。

まさに神は、エジプトでの苦しみから、奴隷という境遇から解放して、自由を与えてくださったばかりか、生存と防衛の保障を与えてくださる方であることをあかしされました。そして神はイスラエルの民を聖なる国民、祭司の王国としてふさわしく生きることができるように、律法(トーラー)を授けられました。もしこの律法が与えられなかったとしたら、イスラエルの民はなんら烏合の衆と変わらない民となってしまいます。したがって、神の支配する国には憲章が必要なのです。十戒はその憲章の土台ともいうべきものです。

ところで、ここで主が語りかけている対象が「あなたがた」ではなく、なぜ「あなた」なのでしょうか。もしひとりひとりに対して語りかけるとすれば、「あなたがた」であるべきです。しかしここで「あなた」としているのは、イスラエルの民が集合人格として受け止められているからです。これはへブル人たちの独自な思想です。聖書において「私」や「あなた」という人称が必ずしも個人であるとは限りません。イスラエルという民の集合人格として理解することが可能なのです。

さて、律法の中核は「十戒」です。なぜ自分のために偶像を造ってそれらを拝んではならないのか。エジプトを出てからの40~50日間、神がなさったことをひとつひとつ思い起こすならば、偶像を造ったり、拝んだりすることは決してあり得ないはずなのです。なぜ「安息日を覚えて、これを聖なる日とし」なければならないのでしょうか。神はすでに彼らが安心して安息日を覚えることができるようにと、その前日には二日分のマナを与えられました(出16章)。神こそ生存と防衛の保障なのです。イスラエルの民たちが意識してこの神とのかかわりを第一として生きるならば、不安や恐れからも解放されるばすなのです。

十戒の序文にあるように、神によってエジプトから連れ出され、導き出されたことを思い起こすならば、他の戒めも守ることはあまりにも当然なことです。それゆえ、神を知り、神の語られたことを悟ることはきわめて重要なことです。神に対する認識が希薄になるとき、あるいは自分の基準で認識されるとき、神と人とが結ぶ契約は土台から危うくなってしまいます。イスラエルの歴史の失敗は、神を知ることを最も大切なこととして受け止められず、自分のために偶像を求めた結果もたらされましたことを聖書はあかししています。

かくして、出エジプト記20章2節のフレーズを繰り返して味わうことは、神に対する信仰の根をますます太くし、強めていくことになるのです。

2013.5.19


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