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わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ

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4. わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ

【聖書箇所】 ヨエル書2章28~32節

ベレーシート

  • 2章28~32節の部分は、新改訳と口語訳以外の訳では、ヘブル語の原文どおり、3章1~5節として区分されています。しかもこの部分は、使徒の働き2章で、五旬節(ペンテコステ)での出来事を説明する根拠として使徒ペテロによって引用された箇所でもあります。
  • 先ずは、ヨエル書と使徒の働きを比較して見たいと思います。

【新改訳改訂第3版】ヨエル書 

2章28~32節(=3章1~5節)

28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
30 わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である。
31 【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
32 しかし、【主】の名を呼ぶ者はみな救われる。【主】が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、【主】が呼ばれる者がいる。

【新改訳改訂第3版】使徒の働き 

2章17~21節

17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』

1. ヨエル書の預言における5W、1H、1D

  • 聖書を読む時に大切なことは、いつ(when)、どこで(Where)、だれが(Who)、だれに(Whom)、なにを(What)、どのように(How)、したか(Doing)を、正確に把握することです。もし、「だれに」という部分に、いつも自分(の名前)を入れて読むならば、聖書のメッセージが正しく理解されず、神のご計画の鳥瞰的視野を描けない者となる懸念があります。たとえば、今回のヨエル書の場合、5W1H1Dを当てはめてみると、以下のようになります。

    ①いつ(When)ー「その後」「その日」
    ②どこで(Where)ー「シオンの山」「エルサレム」
    ③だれが(Who)ー「主」
    ④だれに(Whom)ー「すべての人」
    ⑤なにを(What)ー「わたしの霊」「不思議なわざ」「しるし」
    ⑥どのように(How)ーなし
    ⑦する(Doing) ー「注ぐ」「示す、現わす」

  • 「すべての人」とは、ここではヨエルが語っているユダの人々です。このことが実は重要です。異邦人である私たちも彼らに約束された「わたしの霊」のおこぼれにあずかりますが、第一義的には、ユダの人々に対してなのです。このことをしっかりと理解しないと神のマスタープランにおけるヴィジョンは見えてきません。

2. 五旬節に起こった聖霊降臨の出来事

  • 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていたところに、聖霊が降臨しました。「みな」とは使徒の働き1章15節にあるように、120名ほどのイェシュアの弟子(兄弟)たちです。彼らはみな心を合わせて、祈りに専念していたとあります。この祈りには冠詞がついており、おそらく、あの「主の祈り」と思われます。私たちが思い描くような祈り会をしていたのではなく、「主の祈り」についての瞑想的な祈りをしていたように思われます。「御名があがめられますように」(神の視点からすべてのものを見ることで)、「御国が来ますように」(神の支配が実現すること)、「みこころが天にあるごとく地にもなさせたまえ」(天と地がひとつになること)・・、そして御子が到来することで実現する神が与えてくださる糧によって生きる世界、すべての人との平和な世界、悪の支配から解放された世界を思い巡らしていたに違いありません。
  • 祈っていたイェシュアの弟子たちの上に約束の御霊が注がれ、その御霊に満たされた彼らは御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出しました。折も折、五旬節で各地から集まっていたユダヤ人たちやユダヤ教改宗者たちがエルサレムに集まっていましたから、これを見聞きした人々は驚きました。その驚きの一つは、祈っていた者たちの多くがガリラヤ出身であったにもかかわらず、離散していた各地から祭りのために来ていた人々の国語で話したことでした。もう一つの驚きは、神の大きなみわざを語ったことです。その内容は記されていませんが、神のご計画のヴィジョンについてのことであったろうと推測します。おそらく、語っている者たちは自分が何を語っているのか分からなかったはずですから。
  • これを聞いたある人々が「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」とあざけったことから、使徒ペテロがこの出来事がヨエルの語った預言の成就であることを説明し、イェシュアの十字架の死と復活の出来事を語って人々に悔い改めを迫りました。
  • 先にも記したように、ここでのペテロの説教は五旬節のためにエルサレムに集まってきていたユダヤ人(改宗者)に対して語られたものです。使徒ペテロはこの出来事が預言者ヨエルによって語られた事だと説明しましたが、そのすべてが成就したわけではありません。「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」と神はヨエルを通して約束しましたが、この時、「すべての人に」注がれたわけではありません。一部の人々に注がれたに過ぎません。
  • 民数記11章29節にモーセの願いが記されています。彼は「主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」と自分の後継者となるヌンの子ヨシュアに言いましたが、「終わりの日」(最終段階)にはそうなるのです。まさにヨエルが預言したように「息子や娘が預言をしたり、青年は幻を見、老人は夢を見る」ようになるのです。神のことを黙想したり、熟考したりして夢見るのは常に年配者でした。しかし聖霊が注がれると、若者たちもそのようなことができるようになるのです。しかもまた、しもべにもはしためにも主の霊が注がれて、霊的な力と祝福にあずかるようになるのです。それはヨエルの時代には信じがたいことであったに違いありません。まさに「すべての人」に主の霊が注がれる時が来るのです。それはすでに来ています。しかし未だ完全には来ていません。
  • ゼカリヤ書には、ユダヤ人が反キリストの大患難を免れて隠れているボツラで、「恵みと哀願の霊」が注がれて民族的な救いを経験することが預言されています(ゼカリヤ12:10、エゼキエル39:29も参照)。引用されたヨエル書の預言の多くの部分は、キリストが再臨される前に完全に成就する出来事なのです。


3. 神のみわざにおける「すでに」と「いまだ」(Already, but not yet)

  • 英国の新約学者であったC.H.ドットという人は「実現された終末論」を強調した人で有名です。「実現された終末論」の教えは、「神の国はすでに私たちのうちにある」という事実です。確かにそれは正しいのですが、それを強調することで、神の国の到来における「しかし、いまだ」(but not yet)という部分が希薄になってしまいました。その証拠に、使徒の働きの2章で引用されているヨエル書の内容のほとんどは今だ実現していないにもかかわらず、今日のキリスト者はヨエルの預言を正しく理解することができずにいるのです。この私も長い間そうでした。聖霊降臨は二度あるのです。そしてその二度目はメシアが再臨される前です。
  • イスラエルにおいては、穀物の収穫に必要な雨として「初めの雨」(秋の雨)と「後の雨」(春の雨)があるように、聖霊の注ぎも二度あるのです。イェシュアの来臨も初臨と再臨があるように、再臨も「空中再臨(空中携挙)」と「地上再臨」とがあるのです。神のご計画における最終ステージも「メシア王国」(千年王国)と新しい天と新しい地における「神の都エルサレム」(神の幕屋)があるのです。すべて二段階です
  • 最初の聖霊降臨の時の出来事は使徒の働きを読めば、そのときどのようなことが起ったのかを知ることができます。しかしメシアが再臨される直前に起こる「聖霊の注ぎ」の時にどのようなことがあるのかと言えば、多くの預言者がその出来事のピース(一部分)を語っているのです。ヨエル書もその時に起こるピースを語っています。それによれば、神の民イスラエルが民族的に神の霊を受けることによって、神を知るようになるということです。その結果、息子や娘が預言し、青年が幻を、老人は夢を見るようになるのです。それは、文字通り「すべての人」が聖霊の注ぎを受けて、神ご自身を知ると同時に、神のご計画の全貌を知るようになるだけでなく、神のみこころを行う力さえも与えられるのです。神のみこころを知る力が与えられるということはヨエル書にはありませんが、エレミヤ書の「新しい契約」にはそうした力が与えられることが預言されています。やがて必ず預言されたとおりのことが起こるのです。しかしそうした「その日」が来る前には、以下のような事が起こります。

4. 「わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす」

  • 「終わりの日」には、「いなごの来襲」に象徴される反キリストによる大患難が起こることがすでに語られていますが、それに加えて自然界での天変地異も起こるのです。終わりの日に、神である主はかたくななユダヤ⼈たちの⼼をなんとか開かせるために大患難という試練の中で、主を求めさせ、聖霊を注いで、再臨のメシアを受け⼊れさせる準備をされるのです。そのために起こる出来事は、かたくなな者にとっては「主の大いなる恐るべき日」となり、救いを求める者にとっては「神の大いなる輝かしい日」ともなるのです。「さばき」と「救い」、それが必ず実現するしるしこそ、ここでいうところの「不思議なしるし」であり、そのしるしは「血と火と煙の柱」によるものなのです。

(1) 地における不思議なしるし

  • 地においての不思議なしるしである「血と火と煙の柱」とは何でしょうか。「血と火と煙の柱」を流血と戦争の象徴であるとする解釈が多い中で、創世記15章に主がアブラハムと一方的な契約を結んだ出来事があります。その契約の内容はアブラハムの子孫に「エジプトの川からユーフラテス川まで」の土地を与えるというものです。当時の契約方法は、真っ二つに切り裂かれた動物の半分を互いに向かい合わせにして、その裂かれたものの間を双方が通り過ぎるというものでした。ところが深い眠りがアブラハムを襲います。そして結局、その間を通り過ぎたのは主ご自身だけでした。そのときのことを次のように聖書は記しています。

    【新改訳改訂第3版】創世記15章17節
    さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。

  • 上記の「切り裂かれたもの」は「血」、「燃えているたいまつ」は「火」、「煙の立つかまど」は「煙の柱」と解するならば、終わりの日の「血と火と煙の柱」のしるしは、神がアブラハムに対して約束したことを決して忘れてはいないというサインとなります。つまり「血と火と煙の柱」とは、アブラハムの子孫であるイスラエルの民たちに対する神の約束を思い起こさせるサインだとも解釈できるのです。

(2) 天における不思議なしるし

  • 天において現われる不思議なしるしは、「太陽はやみとなり、月は血に変わる」という異変です。地の不思議なしるしが神の約束の確証を与えるものだとすれば、天変地異という言葉があるように、天における異変のしるしは地のしるしを支えていると考えることができます。イェシュアとヨハネはその異変について、以下のように語っています。

    【新改訳改訂第3版】マタイ 24章29節、マルコ13章24~25節
    だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます


    【新改訳改訂第3版】ヨハネの黙示録6章12~13節
    12 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
    13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。


おわりに

  • ただし、キリストの花嫁である教会はすでに空中携挙によって天に携え挙げられていますので、上記の光景を見ることはありません。しかし、神のマスタープランを知るためには学んでおく必要があるのです。なぜなら、神を愛する者とは神のヴィジョンを共有する者だからです。

2015.1.21


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