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しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む

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7. しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む

【聖書箇所】7章1~20節

ベレーシート

  • 前の章で、主が求めておられるのは「公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと」だということを取り上げました。7章では、このことがより俯瞰的な視点(神のマスタープラン)から語られているように思います。特に、「へりくだって、神とともに歩む」とは具体的にどういう歩みなのかを考えてみたいと思います。

1. 絶望的な状況におけるミカの信仰の告白

【新改訳改訂第3版】ミカ書7章7節前半
しかし、私は【主】を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む


(1) 絶望的な状況を指し示す「しかし」

  • 上記のフレーズで注目すべき第一の点は「しかし」という接続詞です。この背景には「ああ、悲しいことだ」(1節)とあるように、人間の力ではどうすることもできない絶望的な状況があります。「ああ、悲しいことだ」と訳されたヘブル語は「アルライ」という感嘆詞で悲しみに満ちた嘆きで、口語訳では「わざわいなるかな」と訳しています。この間投詞は2回しか使われていません(ミカ7:1/ヨブ10:15)。1~7節はそうしたエルサレムの状況を記しています。

    ①果物の実がなっていない(7:1)

    ●食べられるぶとうの房が一つもない。自分の好きな初なりのいちじくの実もないという現実。この現実が指し示しているのは、本来あるべき果実、つまり、公義や正義という果実を実らせているはずの木に、何一つなっていないという状況、それが神の都エルサレムの状態であったという事実です。イェシュアも実のなっていないいちじくの木を呪われたという話があります(マタイ21:18~22参照)。
    ●メシア王国においては、「木はその実を実らせ、いちじくの木とぶどうの木とは豊かにみのる。」(ヨエル2:22)とあります。いちじくの木とぶどうの木とはワンセットで使われます(ヨエル1:7, 12)。

    ②社会における指導者層の不正(7:2~4)

    ●政治、裁判の有力な指導者たちが自分の利益を得るために平然と賄賂を受け取り、公義と正義を捨ててしまっていました。

    ③友人、親子、兄弟、嫁姑といった親しい間柄における不信(7:5~6)。

    ●もはや親しいかかわりである家族や友人さえも、信頼できないという不信感。日本の徳川幕府がキリシタン撲滅のために五人組制度を設けて密告させ、あらゆる手段を使って日本各地でしらみつぶしにキリシタン狩りを実施しました。一人でもその中にキリシタンがいれば連帯責任を取らされるために、家族の信頼関係は崩されます。そのような悲しむべき状況をミカは見たのです。たとえ、自分の生きた時代でなかったとしても、神の示すヴィジョンの中にそれを見ることは可能であったと言えます。なぜなら、神に召された真の預言者は、神に立てられた見張り人として、常に神と同じ視点でものごとを見ていたからです。

(2) 預言者ミカの神に対する待望

  • ミカは神の都の絶望的な状況にもかかわらず、主を仰ぎ、救いの神を待ち望むことのできた人です。7節には二つの待望用語があります。
  • 一つは「仰ぎ見る」と訳された動詞「ツァーファー」(צָפָה)で、主がしようとすることを見張る、監視するという意味です。これが使役態で使われると「仰ぎ見る」という意味になります。もう一つは「待ち望む」と訳された動詞「ヤーハル」(יָחַל)です。この動詞は主を信頼しながら静かに待つことを意味します。将来なされる神の善を信じて今日を生き抜く力を与える、というニュアンスをもった言葉です。この「ヤーハル」はバビロン捕囚という状況の中で瞑想された詩篇119篇の特愛用語で、5回(43, 49, 81, 114, 147節)も使われています。
  • 主に対する「待ち望み」が以下のような確信に満ちた告白となっています。預言者個人の告白のように記されていたとしても、それは神の民の中の一人として、あるいは神の民の代表として告白されているのです。

【新改訳改訂第3版】ミカ書7章8~10節
8 私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、【主】が私の光であるからだ。
9 私は【主】の激しい怒りを身に受けている。私が主に罪を犯したからだ。しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、私を正しくさばいてくださるまでだ。主は私を光に連れ出し、私はその義を見ることができる。
10 それで、私に向かい、「あなたの神、【主】は、どこにいるのか。」と言った私の敵は、これを見て恥に包まれる。私もこの目で敵をながめる。今、敵は道の泥のように踏みにじられる。


2. エルサレムの再建のヴィジョン

  • ミカの時代には、エルサレムはまだ破壊されていません。しかし、やがてエルサレムが再建する前に破壊されることを預言者ミカは神の幻によって見ているのです。

【新改訳改訂第3版】ミカ書7章11~13節
11 あなたの石垣を建て直す日、その日、国境が広げられる。
12 その日、アッシリヤからエジプトまで、エジプトから大川まで、海から海まで、山から山まで、人々はあなたのところに来る。
13 しかし、その地は荒れ果てる。そこに住んでいた者たちのゆえに。これが彼らの行いの結んだ実である。

  • 「あなた」とは神の都「エルサレム」のことです。その「石垣を建て直す」とは、エルサレムが神の都として再建(回復)されるということです。これはメシア王国において実現する預言です。「その日、国境が広げられ」、主がアブラハムに約束されたことが実現します(創世記15:18参照)。しかし、その地もやがては「荒れ果て」、最終的な段階である「新しいエルサレムの到来(完全な救い)」への待望が示唆されているようにも思えます。

3. ミカの神への賛美と祈り

  • ミカ書の最後(18節以降)は、ミカの賛美と祈りで締め括られています。その賛美は、「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。(他には絶対にない)という内容のものです。ちなみに、「ミカ」という名前は「ミカヤフー」の短縮形で「だれが主のようであろうか」という意味です。つまり、ミカという名前の意味が、7章18節で、「あなたのような方は他にはいません」との告白と対応しているのです。ちなみに、御使いの「ミカエル」(מִיכָאֵל)も、「だれが神のようであろうか」という意味の名前です。
  • さて、どのような意味において、ミカはその神の無比性を述べているのでしょうか。それは、罪の赦しにおける神のいつくしみとあわれみにおいてです。

【新改訳改訂第3版】ミカ書7章18~20節
18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。
19 もう一度、私たちをあわれみ私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。
20 昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。

  • ここでの神への賛美は、愛とあわれみについての神の無比性がたたえられています。神は、ご自分のものである残りの者のために
    ①「咎を赦す」方
    ②「そむきの罪を見過ごす」方
    ③「咎を踏みつける」方
    ④「すべての罪を海の深みに投げ入れる」方
  • 「海の深み」とは、「二度と人の目に触れず、思い出さない所」という意味です。イェシュアは「いちじくの木の呪い」と「罪の赦し」について語られましたが、おそらくその背景にミカ書7章があったと考えられます。以下がそれです。

    【新改訳改訂第3版】マルコの福音書11章20~25節
    20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
    21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
    22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。
    23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
    24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
    25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」




2014.12.27


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