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さあ人を造ろう。・・われわれに似せて

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64. さあ人を造ろう。・・われわれに似せて

【聖書箇所】 創世記1章26節前半

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【読み】
ヴァーメル エローーム ナアー アーーム
ベツァルーヌー キドゥムーーヌー 

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。
【新改訳第二版】
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」
【口語訳】
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、」
【新共同訳】
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」
【岩波訳】
神は言った、「われらの像(かたち)に、われらの姿に似せて、人を造ろう。」
【関根訳】
そこで神が言われた。「われわれは人をわれわれの像の通り、われわれに似るように造ろう。」
【NKJV】
Then God said, "Let Us make man in Our image, according to Our likeness;

【瞑想】

なにゆえに神は天と地を創造されたのでしょうか。その問いの答えこそ聖書全体を貫く本道です。その本道とは神が創造の冠として人を造り、交わりを持つことです。天と地の創造はすべて神が人との永遠のかかわりをもつための舞台設定と言えます。「創造の冠」とは人が神にとって他の被造物とは異なる特別な存在であるということです。

新改訳聖書の改訂第三版では、第二版の訳を改訂しています。どちらの訳にもそれぞれ味があります。第二版では原文の意味を日本語の表現としてふさわしいように訳しているように思えますし、第三版では原文の順序に従って訳しています。しかも「さあ」という言葉を加えて、未完了の「造る」という神の意志と願望を強く表わすような訳文となっています。一応原文を直訳すれば、「わたしたちは造ろう。わたしたちのかたちに、わたしたちの似姿のとおりに。」となります。前置詞を多分に意識した訳文です。

次節の27節は、前節の26節を別のことばで言い換えたものです。ちなみに、27節は「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」とあります。「人」(冠詞付きの「アーダーム」אָדָם)が、「神のかたち」にかたどって造られています。「かたち」と訳されたヘブル語「ツェレム」צֶלֶםが、27節に「ご自身のかたち」(ベツァルモー)、「神のかたち」(ベツェレム エローヒーム)と2回も使われていることで、そのことが強調されています。「ツェレム」צֶלֶםは、像、イメージ、型取ること、型に流し込むことを意味します。

ここで肝心なことは、神の言われる「われわれのかたち」、あるいは「われわれの似姿」というものがいかなるものかということです。私見としては、複数形で表される神「エローヒーム」אֱלֹהִיםが、やがて新約時代において啓示される三位一体の神(御父、御子、御霊)の愛のかかわりのイメージと理解します。創世記にはまだ三位一体の概念は啓示されていないとする学者もいます。確かにそのように思います。しかし聖書全体は聖霊の息吹によって記されているので、聖書全体から「エローヒーム」の概念を導き出す必要があります。啓示の漸次性を考慮しながら、聖書の神はいつどこの断面を切っても永遠不変であることを考慮するなら、三位一体の神秘性はすでに創世記に隠されていると考えます。

三位一体なる神はゆるぎない永遠の愛の交わりをもって存在しています。そうしたかかわりのイメージに似せて、そのかかわりに型取って造られたのが「人」です。ところが神が「人が、ひとりでいるのは良くない」と言って、彼のために、彼が深い眠りのうちにあったときに、「ふさわしい助け手」を造られました(2:21~22)。「人がひとりでいるのは良くない」とは、本来の存在の目的に合っていないことを意味します。つまり、人は孤独な存在としては造られませんでした。向かい合う存在、交わるべき存在として神のかたちに似せて造られたがゆえに「ひとりでいるのは良くない」のです。人は「ふさわしい助け手」を与えられることではじめて神のかたちを表し得るのです。

「ふさわしい助け手」とは、直訳的には「彼と向き合う者としての助け手」という意味です。新共同訳は「彼に合う助ける者」と訳しています。つまり「対等に向き合えるパートナー」を意味します。この「対等に向き合えるパートナー」の存在を欠くならば、人(アダム)は造られた目的を表現することができないのです。アダムはふさわしい助け手を見出したときこう言いました。「これこそ、今や(ついに)、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」(2:23)と。

創世記の1章26節の神の「かたち」、および、神の「似姿」の理解の秘密は、ギリシャ語では「プロス」προςという前置詞に隠されています。ヨハネの福音書1章1~3節には次のように記されています。

1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。

創世記1章の冒頭に似た表現ですが、ここで注目したいことは、「ことばは神とともにあった」というフレーズです。多くの聖書(翻訳)がヨハネの1章1節を「ことばが神とともにあった」と訳しているにもかかわらず、西南大学の教授である宮原望氏の「ヨハネの福音書ー私訳と注解」では、この部分を「神に向かっていた」と訳しています。

「共にある」というイメージと、「~に向かっている」というイメージをどのように理解したらよいのでしょうか。ギリシャ語には「共に」という意味の言葉に「スン」σύνがあります。しかしここで使われているギリシャ語は前置詞の「プロス」(προς)です。「共に」という意味もありますが、本来的には「~に向かう」という意味です。しかも、「~に向かっていた」の「いた」の時制は未完了形です。はじめから、今まで、ずっと「ことばは神に向かっていた」し、今も「向かっている」のです。ことばが人となってこの世にいたときにも「ずっと向かっていた」のです。ことばだけが神(父)に向かっていただけでなく、父もことば(子)に向かい合っているのです。こうしたかかわりを持ったイメージが「共に」なのです。

つまり、ギリシャ語の「プロス」προςという前置詞は、基本的に「~の方に向く」という意味として使われることが圧倒的に多いのですが、「向き合う」ことで「共に」という意味にもなるのです。この「向き合い」こそが、ヨハネの福音書では「いのち、永遠のいのち」なのだと私は理解します。そしてそのいのちに「とどまる」ことがヨハネの福音書のキーワードとなっています。

ギリシャ語文法の権威者である織田昭師も「聖書講解」の中で以下のように述べています。

ここの「と共に」は、普通の with に当たる前置詞とは違い、神と「向き合って」という感じの前置詞(προς)が使ってあります。これは、神と密なる交わりを持って、意志を伝え合い交流し合ってというような内容の「向き合って」を表す言葉です。「言」は単に神の意志や思いの別名ではなくて、本当に神と向き合って、親しく交わりを持つような存在―命のつながりの原型と言えるような性質を持っているのです。


 

2013.4.19


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