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きよめのための青銅の洗盤


8. きよめのための青銅の洗盤

【聖書箇所】出エジプト記30章17~21節

ベレーシート

●幕屋の庭に入るとそこには祭壇があり、祭壇と聖所との間に「青銅の洗壇」が置かれます。主はモーセに次のように語っています。

【新改訳改訂第3版】出30章17~21節
17【主】はまたモーセに告げて仰せられた。
18 「洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。  
19 アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。
20 彼らが会見の天幕に入るときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである。また、彼らが、
【主】への火によるささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、
21 その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。」

●今回は、この「青銅の洗盤」に注目し、それがイェシュアとどのような関係があるかを考えてみたいと思います。この洗盤はアロンとその子たちのためのものです。


青銅の洗盤.JPG

1. 「青銅の洗盤」とその目的

●主はモーセに「青銅の洗盤」(「キッヨール・ネホーシェット」כִּיּוֹר נְחֹשֶׁת)と「青銅の台」(「ハンノー・ネホーシェット」כַנּוֹ נְחֹשֶׁת)を作るように告げられました。

●洗盤の使途目的は、「会見の幕屋」(聖所)に入るアロンとその子らがそこに入る前に、洗盤の水によって両手と両足をきよめるためです。「青銅の洗盤」は「祭壇」と「会見の幕屋」の間に位置しており、祭壇におけるいけにえの血による贖いによって与えられる「立場」を得ることによって、はじめて洗盤に近づくことができます。

洗盤で手を洗う祭司.JPG

●アロンとその子らは「そこで手と足を洗う」とあります(30:19)。「そこで」と訳されていますが、原文は「そこから」を意味するもので、前置詞の「ミン」(מִן)と3人称単数接尾辞の付いた「ミンメヌー」(מִמֶּנּוּ)が使われています。つまり、直接に洗盤の中に手(複数)と足(複数)を入れて洗うという意味ではなく、「洗盤から」(=それから)汲み取った水で両手両足を洗うというニュアンスです。ですから、右図は間違ったイラストと言えます。

手足を洗うために用いられた器.JPG

●20節の「水を浴びなければならない」と訳されたフレーズも一見全身を洗うようなイメージですが、そうではなく、両手と両足を洗盤から汲み取った水で洗うという意味です。とすれば、当然、そのための器具があったと思われます(聖書はそれについての言及がなかったとしても)。

●祭司たちが手と足を洗うのは、20節の前半に記されているように、「死なないためである」としています。しかもそれはアロンとその子孫の代々にわたる祭司職に対して与えられた永遠のおきて(「ホク・オーラーム」חָק־עוֹלָם)であるとしています。

●洗盤があるだけでは、アロンとその子らたちは、身をきよめることができません。務めのたびに繰り返しその洗盤の中の「水」によって「洗う」(「ラーハツ」רָחַץ)ことが不可欠でした。

●「青銅の洗盤」と「青銅の台」は「女たちの鏡で作られた」(出38:8)とあります(脚注)「鏡」と訳されていますが、正確には「青銅による鏡」で作られたということです。新共同訳は「臨在の幕屋の入り口で務めをする婦人たちの鏡で作った」と訳しています。昔の鏡は、今日のような鏡ではなく、青銅を磨いたものであったようですが、はっきりとではなく、ぼんやりと映るものであったようです。使徒パウロの「今、私たちは鏡にぼんやりと映るものを見ています。」(Ⅰコリント13:12)という表現がそれを裏づけています。

●「鏡」と訳されたヘブル語は「マルアー」(מַרְאָה)で、動詞の「見る」(「ラーアー」רָאָה)を語源としています。女性たちは自分が大切にしていた鏡を主のためにささげたことが分かります。と同時に、良く磨かれた金属の「鏡」の役割は「写し出されたものを見る」ことにあります。「見る」とは、祭司たちが青銅の洗盤できよめられる(聖別される)ことと関係があります。

2. 「青銅の洗盤」が象徴していること

(1) 「洗盤」とその「土台」が意味すること

●「洗盤」とその中に入れる「水」は、いずれも「神のことば」を象徴しています。祭司は、常に洗盤の水、すなわち「神のことば」によって日々聖別される必要があります。なぜなら、祭司たちは、世の思想(イデオロギー)、概念、常識、価値観によって汚されてはならないからです。彼らの働きや歩みだけでなく、彼らの思いが汚されないためには、神に仕える者たちが日々神のことばによってきよめられ続ける必要があるのです。

【新改訳改訂第3版】ヘブル書4章12~13節
12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

●洗盤にはそれを置く台があります。幕屋におけるすべての「土台」(青銅や銀の台座)はすべてイェシュアを指し示めしており、それ以外の土台はありません。したがって「洗盤」の水は、正確には、イェシュアを土台とした神のことばを象徴しています。

(2) 「神のことば」「聖霊」「真理」は密接な関係をもっている

●「神のことば」の周辺には「聖霊」「真理」といった語彙も密接なかかわりをもっています。幕屋の洗盤の「水」は「神のことば」そのものであり、同時にそれは「真理」そのものなのです。

画像の説明

●上の図の「渇くことのない生ける水」は、ヨハネ4章、7章に記されています。また「水」は、3章にある「霊と水」によって上から(新しく)生まれるために不可欠な「水」でもあります。さらにそれは、人が「霊とまことによって」神を礼拝する上で不可欠なものです。

●「洗盤」の寸法が指定されていないのは、人を神の前にきよめていく神の真理のみことばと聖霊の働きが、測ることができないからです。「水」(「マイム」)は、液体、気体、固体と形を変えてもその絶対量は決して変わらないように、不変の霊的真理を象徴しています。

●祭司たちがなぜ「手と足」(原文は「両手と両足」)を、繰り返し水できよめるのは、彼らの「働きと歩み」がきよめられるためです。「きよめられる」とは、神に仕える者としてふさわしく整えられること。つまり神のご計画と御心と御旨と目的を知ることによって、神のために聖別されることです。この目的のために、水に象徴される「神のみことば」が不可欠なのです。

(3) 神のことばによるきよめ

●アロンとその子らたちが洗盤の中の「水」によって「洗う」(「ラーハツ」רָחַץ)ことが日々不可欠であったように、私たちも神のみことばによって日々聖別される必要があります。イェシュアの十字架の血潮によって一回限りにおいて贖いがなされたことで、それを信じる者は神の前に罪を赦された神の子どもとしての特権が与えられています。しかしそれは「立場」であって、「実際」ではありません。私たちが「肉」を持っている以上、私たちの思いも心も口も行動もすべて汚れてしまう弱さを持っています。ですから、日ごとに神のみことばによってきよめられ続ける必要があるのです。

●イェシュアは、最後の晩餐において弟子たちに「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」(ヨハネ15:3)と言われました。イェシュアが「話したことば」とは「神のことば」のことです。しかしその後に、ご自身に「とどまること」を強調されました。なぜなら、イェシュアから離れては弟子たちはなにもすることができないからです。「とどまる」ことができなければ、「枝のように投げ捨てられて、枯れます。」と警告されました。イェシュアが御父に「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」(ヨハネ17:17)と祈ったのはそのためです。

●詩篇19篇の作者は、神のことばを以下のように表現しています。

画像の説明

●神のことばを象徴する水の入った洗盤の水は、決して人の考えや思いで汚されてはならないのです。神のことばは常に澄んでいて、純粋、かつ綺麗なものでなければなりません。詩篇19篇7~9節には、「神のことばの完全性、確実性、清純性、純粋性、真実性」が上図のようにたたえられています。

3. 花婿キリストの花嫁とされた教会のきよめ

使徒パウロは教会のきよめについて次のように記しています。

【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙 5章26~27節
26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

●26節の「キリストがそうされたのは」とは、十字架による贖い(身代り)の出来事です。この出来事によって、キリストの花嫁である教会の神の前の立場が与えられました。ですから、それ立場にふさわしい姿(「栄光の教会」)へと聖別されていく必要があること。つまり、そのための「水の洗い」が必要であることが記されています。

●「洗い」(「ルートロン」λουτρόν)という語彙は、他にテトスへの手紙3章5節にだけ出て来る言葉です。教会を「水で洗う」とは、神のことばによって教会を神のものとする(=聖別する)ことを意味します。つまり花婿は花嫁を水で洗う、すなわち「水の洗い」とは、「神のみことば」「真理のことば」「救いの福音」によって花嫁を花嫁としてふさわしく聖別することを意味します。

●エペソ書5章26~27節には、モーセの幕屋での祭壇におけるささげものがその背景にあります。特に「聖く傷のないもの」とは、祭壇の上で焼かれる「いけにえ」を示唆しています。

●「花嫁を花婿の前に立たせる」とは、夫婦の型である「キリストと教会」の結婚式の光景を思わせます。しかしここの「聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせる」のは、キリストの再臨の時です。そのときに、花婿なるキリストの横に完全にきよめられた花嫁なる教会が立つのです。ユダヤでは、婚約状態であっても、法的には「妻」と同等の立場とみなされました。ですから、キリストの花嫁は婚約者でもあり、また同時にキリストの妻でもあるのです。この一見矛盾のように思える事柄こそ、ユダヤ的ルーツと言われるものなのです。私たち異邦人はユダヤの慣習をそのまま理解し、受け入れるしかありません。


脚注
●「青銅の洗盤」と「洗盤の台」は、一般の人々が自ら進んでささげたささげ物ではなく、出38章8節によれば、「会見の天幕の入口で務めをした女たちの鏡」でそれを作ったとあります。ここでの「会見の天幕の入口で務めをした女たち」とは、岩波訳聖書の脚注によれば、「聖所の入口の清掃等を担当していたものと思われる」とありますが、洗盤に水を汲んだり、祭司たちが手や足を洗って聖所に入るための介助をしていたとも考えられます。いずれにしても、女性が聖所の入口に常に控えていることは、時として誘惑のもとにもなったようです(Ⅰサムエル記2章22節を参照)。但しサムエル記の時代ではシロに主の宮があり、移動式のモーセの幕屋ではなかったようです。なぜなら「祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた」とあるからです(Ⅰサムエル1:9)。

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2016.4.20


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