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いつも「主に伺った」ダビデ

20. いつも「主に伺った」ダビデ

【聖書箇所】 23章1節~29節

はじめに

  • Ⅱサムエル23章 において特徴的な事柄は、ダビデが「主に伺った」という表現と、「仕切りの岩」と訳されたメタファーによる神の完全なセキュリティ用語です。その意味するところを瞑想してみたいと思います。

1. 「主に伺った」ダビデ

  • ダビデは「主に伺った」(新改訳)という表現はきわめて重要な言葉です。動詞の「シャーアル」(שָׁאַל)は旧約では171回の使用頻度ですが、そのうち47回がサムエル記で使われています。いわばサムエル記の特愛用語です。その意味は普通に「尋ねる、安否を問う、求める」と言った意味ですが、「主に伺う」という意味はそれほど多くありませんが、サウルとダビデを比較するとき、このことばが意味することは重要なのです。
  • 動詞の「シャーアル」(שָׁאַל)の語根שׁאלから、固有名詞としての「サウル」が、また、新約の「ハデス」に対応することばとしての「よみ」を意味する「シェオール」(שְׁאוֹל)が派生しています。そしてダビデの霊的な特徴を表わす動詞「(主に)伺う」という「シャーアル」も同じ語根から派生しています。言葉では表現できない不思議なつながりを感じます。

画像の説明

  • Ⅰサムエル14:37にはペリシテ人との戦いにおいて、祭司はサウル王に「われわれは神の前に出ましょう」と言われて、はじめてサウルは「神に伺った」とあります。しかし、神からは何の答えもありませんでした。もう一回Ⅰサムエル28章6節において、サウルはサムエルの死後、ペリシテ人と戦うために陣を張ります。しかしサウル王は恐れて、主に伺いを立てますが、夢においても、祭司によるウリムにおいても、預言者においてもなんら答えがありませんでした。そのためにサウルは女の霊媒師によって占ってもらいます。
  • 反対に、ダビデはⅠサムエル記23:2においてはじめて主に伺いますが、23:4、30:8、Ⅱサム2:1、5:19, 23においても「主に伺って」行動をしています。原文では「主に尋ねることを・・した」と表現されています。この点がサウルと全く異なり、際立っているところです。
  • 戦いにおいて、その都度、その都度、「主に伺う」ということは、以前にうまくいったから今回もということは保障されないということです。戦い方もその時によって主の指示は異なっているのです。ですから、過去の経験に頼ってはならないということを教えられます。

2. 「仕切りの岩」に象徴される神の完全なセキュリティ

  • 15節には「ダビデは、サウルが自分のいのちをねらって出て来たので恐れていた。」とあります。絶えずつけ狙われて、いのちの危険が自分の身に及んでいるということは、かなりのストレスをもたらします。しかし神のセキュリティは完全です。決してダビデはサウルの手に渡すことはありませんが、訓練を受ける側の者にとってはそう簡単ではありません。サウル王が執拗にダビデを殺そうとするのは、ダビデに対する妬みという理由もありますが、結局のところはダビデによって自分の地位やいのちが奪われてしまうかもしれないという恐れからでした。ダビデは神のセキュリティがあることを知り、訓練を受けるために荒野を逃亡することを余儀なくされているのです。神にあっては、意味のない苦しみはないのです。
  • ヘリシテ人によってケイラの町が略奪されていることを知ったダビデは主に伺います。すると主はペリシテ人を打つように答えした。ダビデは主の声に従いケイラの住民を救います。ところが、その住民に裏切られ、サウルの手に引き渡されようとしますが、ヨナタンの進言によって、危険がダビデの身に及ぶことがないことを知らされます。それはダビデが主によって選ばれた器であることを確信しているからです。
  • 私たちも様々な危機を経験するとき、再度、自分の召しを思い起こすことが必要です。ダビデに対するヨナタンの存在は、私たちにとっては助け主なる聖霊と同じです。ヨナタンがダビデを神の御名によって力づけたように、私たちに寄り添ってくれている聖霊の励ましの声に耳を澄まさなければなりません。
  • 「力づけた、励ました」と訳されている原語は「ハーザク」(חָזַק)で、ここではその強意形ピエル態が使われています。サウルを恐れるダビデは、ヨナタンによって大いに力づけられたのです。
  • 主が「仕切りの岩」とたとえられたもうひとつの出来事は、ダビデがジフの人々によって隠れている場所を密告され、今にもサウルがダビデとその部下たちを捕えようとしたとき、まさにその時に、ペリシテ軍が突入するという知らせをサウルが聞き、ダビデを追う事を断念したことです。まさに、神がサウルとダビデの間に立って「仕切り」となってくださっていることを確信したことばこそ、「仕切りの岩」です。「仕切り」と訳された「ハーラク」(חָלַק)は「分ける」という意味だけでなく、「なめらかにる、すべる、すり抜ける」という意味合いを持っています。そのような意味において、主にある私たちも、神は私たちの「仕切りの岩」となって下さる方なのです。

2012.6.27


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