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いこいのある幸いな道を見いだせ

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9. いこいのある幸いな道を見いだせ

【聖書箇所】 6章1節~30節

べレーシート

  • エレミヤ書1~6章までがエレミヤの初期の預言が集められたと言われています。エレミヤが預言者として神に召されたのは、ヨシヤ王の治世の第13年目でした。ヨシヤはその治世第8年目(ヨシヤ16歳)からすでにダビデのように神を求めるようになりましたが、宗教改革への道を踏み出したのは治世第12年目でした。そして、その治世第18年目(B.C.622)には「律法の書」の発見により大胆な宗教改革を断行しました。
  • その時代背景を見ると、エレミヤが召された時にアッシリヤの王アッシュルバナパルは死に、その翌年(B.C.626)には新バビロン帝国が興したナボポサルスが即位し、さらにその翌年(B.C.625)には、メディアのキアクサレスが即位しています。やがてナボポサルスとキアクサレスが協力して、アッシリヤの都ニネベを占領することになり、こうしてアッシリヤは滅亡していきます。長い間、アッシリヤによって支配されて来た国々が再び立ち上がる時代が到来したのです。この転換期にあたって国際社会は様々な動きをするようになったのは至極当然のことです。ユダの王ヨシヤも北イスラエルを回復して、ダビデ・ソロモンの時代のような大イスラエル王国を再建しようと夢見ました。中東の国際情勢はこれから新しい良い時代になっていくという機運が高まっていたのです。
  • エレミヤ書6章の中から、いくつかのメッセージのフレーズを拾ってみたいと思います。

1. 平和でないのに、「平和だ、平和だ」と叫ぶ声

  • 当時のアッシリヤの勢力が衰退した時代の流れの中で、エレミヤが語ったメッセージは当時の国際情勢の流れとは全く異なるものでした。ユダに対するわざわいと大いなる破壊が北から必ず来るというものでした。当時の偽預言者たち、祭司たちは、平和ではないのに、「平和だ、平和だ」と叫んでいました。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書 6章14節
彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。

  • ここでいう「平安」の原語は「シャーローム」שָׁלוֹםです。ヘブル語のシャーロームの本来の意味は、単に、争いのない、平和な状態を表わすだけでなく、力と生命に溢れた動的な状態をいいます。シャーロームが意味するものは、以下にあげるようにきわめて豊かです。

(1) 平和 (対国、対神、対人) ・・・和平、和解
(2) 平安 (個人的)・・・平穏、無事、安心、安全
(3) 繁栄 (商業的)
(4) 健康 (肉体的、精神的) ・・・健全、成熟
(5) 充足 (生命的) ・・・満足、生きる意欲
(6) 知恵 (学問的) ・・・悟り、霊的開眼
(7) 救い (宗教的) ・・・暗闇から愛の支配へ
(8) 勝利 (究極的) ・・・罪と世に対する勝利

  • アッシリヤの大国が衰退して、政治情勢が明るくなってきたかのように誰もが思っていた中での事です。神のさばきは時代の流れとはなんら関係がないのです。ユダの指導者(祭司たちや預言者たち)は神の思いとは逆に人を喜ばせ、人に受け入れられる発言を繰り返していたようです。

2. 四辻に立って、幸いの道を見いだせ

【新改訳改訂第3版】 エレミヤ書 6章16節

【主】はこう仰せられる。
「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね(「シャーアル」שָׁאַל)、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ(「マーツァー」מָצָא)。しかし、彼らは『そこを歩まない』と言った。・・」

  • 「四辻に立って」とは意訳です。直訳は「道に立って」。口語訳は「分かれ道に立って」と訳しています。しかも「道」は「デラーヒーム」(דְּרָכִים)と複数形です。ですから、新共同訳は「さまざまな道に立って」と訳しています。多くある道の中でどの道を選ぶべきか。ここで、6章16節にある四つの語彙に注目したいと思います。

(1) 「見渡せ」 「ラーアー」(רָאָה)
これは「よく見る」ことです。偽りの預言を聞いて安心し、それがなぜか自分で見ようとはしないことへの警告です。ただ人の言葉を鵜呑みにするのではなく、自分自身でどの道に歩むべきかを見極めなければならない。人に教えてもらうだけではいけないという。自分の目を使い、自分の耳を使い、自分の理性を使い、自分自身での目で判断せよ。これがここでいう「見渡せ」ということばの意味です。

(2) 「昔からの通り道」
「通り道」とは「四つ辻」と同義的パラレリズムで、複数形です。それらを尋ねて、幸いな道を見出せということです。

(3) 「幸いな道」
「幸いな道」は単数形です。つまり、ただ一つの道なのです。「幸いな道」はヘブル語で「デレフ・ハットーヴ」( דֶרֶךְ הַטּוֹב)です。古ければ何でも良いという事ではなく、「幸いな道」とは唯一の「トーヴ」な道です。つまり、善の道、良い道であり、それを多くの道から選択しなければなりません。その道とは神の律法に従って歩む道です。しかし当時は、まだ神の律法は神殿の中に隠されており、発見されていない時でした。

(4) 「いこいを見いだせ」
主の律法の道を「尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ」とあります。「いこい」(英語ではrest) と訳された原語はここにしか使われていてない語彙「マルゴーア」(מַרְגּוֹעַ)です。もとになっている動詞は「ラーガ」(רָגַע)で、「休息する」「いこわせる」「一瞬にして~をする」という意味があります。その祝福は神によって与えられるものですが、それを見いだすように尋ね求めるのは民の責任です。ところが、驚くべきことに、ユダの人々はそれ(幸いな道)を「歩まない」(「ロー・ネーレーフ」לֹא נֵרֵךְ)と拒否したのです。

「見いだす」と訳されたヘブル語は「マーツァー」(מָצָא)です。エレミヤ書29章にある神の平安を与える計画ー将来と希望を与える計画とは、神から来る「いこい」、それは同時に「神を見出す」ことです。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書29章13~14節
13もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるならわたしを見つけるだろう
14 わたしはあなたがたに見つけられる。──【主】の御告げ──わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。──【主】の御告げ──わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」

心を尽くして神を尋ね求めることによって、神が見だされることこそ、神の民の将来と希望につながるのです。このこととバビロン捕囚は連動しているのです。

  • 新約においては、イェシュアは「たましいの安らぎ、安息」(マタイ11:29)を得られる道を示しておられます。その道とはイェシュアのもとに行き、くびきを負ってイェシュアに学ぶことです。

新改訳改訂第3版 マタイの福音書11章28~30節
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませて(άναπαυω)あげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎ(άναπαυσις)が来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」


①マタイ11章28節「休ませる」(άναπαυω)のギリシア語読みは「アナパウオー」で動詞です。
②マタイ11章29節「安らぎ」(άναπαυσις)のギリシア語読みは「アナパウスィス」で名詞です。

これをヘブル語にすると、いずれも、名詞で使われています。
①マタイ11章28節 は「ヌーアッハ」(נוּחַ)、「休む」を意味する動詞です。
②マタイ11章29節 は「マルゴーア」(מַרְגּוֹעַ)で、「休息、やすらぎ」を意味する名詞です。このヘブル語が使われている箇所はエレミヤ6章16節ここ一箇所のみですが、ギリシア語の「アナパウスィス」(άναπαυσις)はマタイ11章2節の他に、同12章43節、ルカ11章24節、黙示録4章8節, 14章11節です。


2013.1.25


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