****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

あなたの舌を制御せよ

文字サイズ:

5. あなたの舌を制御せよ

【聖書箇所】3章1~12節

ベレーシート

  • ヤコブの手紙が成熟したキリスト者の歩みをするためのきわめて実際的な指導書であることをこれまで学んできました。成熟したキリスト者とは、
    ①試練の中で信仰が試され、その結果、忍耐を備えた人であること(1章)
    ②聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそい人であること(1章)
    ③人をえこひいきしない人であること(2章)
    そして今回は、
    ④「舌を制御することのできる人」(3章)について学びたいと思います。
  • ヤコブの手紙には繰り返し「完全に、完全な」という言葉が出て来ます(1:4, 4,17, 25/3:2)。これは「完全無欠な、完璧な」という意味ではなく、「十分に成長を遂げた」という意味です。神は私たちが完璧であることを求めてはいません。不完全な者であることを十分に知っておられるからです。ですから、失望落胆してはなりません。むしろ神は、子である私たちを「成長させてくださる方」です。しかも「十分に」です。
  • 私たちが身体の調子を崩して病院に行くと、医師から「ちょっと舌を見せてください」と言われます。舌を見れば身体の調子がどうなっているか分かるように、霊的な健康の程度も、その人の舌を見れば分かるということです。「舌」をどの程度制御できるかがキリスト者の成長・成熟の程度を計るバロメーターだということです。
  • 「私たち(特に、教師)はみな(例外なく)、多くの点で失敗するものです。もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人はからだ全体もりっぱに制御できる完全な人(成長・成熟した人)です。」とヤコブは言っています。政治家が言わなくてもいい一言の失言で、やっと与えられた大臣の椅子から降ろされることがあるように、舌をコントロールすることはとても難しいのです。
  • 小さな「舌」の持つ影響力について、3~12節にかけて6つの比喩が記されています。

① 馬を御すための「くつわ」(3節)
② 船を操縦するための「かじ」(4節)
③ 大きな森を燃やしてしまうことのできる「火」(5~6節)
④ 死をもたらす「毒」(8節)
⑤ 渇きをいやす「泉」(11節)
⑥ 私たちを楽しませる「木の実」(12節)


●これらの比喩はおのおの二つずつのグループに分類できます。
(1) 「くつわ」と「かじ」、(2) 「火」と「毒」、(3) 「泉」と「木の実」です。この順に従ってテキストから学んでいきたいと思います。


1. 舌は人々の人生に方向性を与える

  • 馬の口にくわえさせる「くつわ」は、馬のからだ全体から見れば、とても小さなものです。また、船の「かじ」に至ってはなおさらです。小さな「くつわ」や「かじ」ひとつが、馬の行くべき道や方向を指し示したり、どんなに大きな船であっても自由に操縦したりすることができる力を持っています。まず「舌」の持つ良い面について考えみましょう。
  • あなたは、だれかのわずかな言葉で自分の人生の方向を決定づけられたことはないでしょうか。ある人は、自分の先生の「ほめ言葉」が自分の進路を決定づけたと言っていました。人の言葉だけでなく、神のことば、聖書のあるフレーズがその人の人生をひっくり返してしまう力を持っているのです。逆に、私たちが語るわずかな言葉が、だれかの生涯の方向を決定する力を持つものであるとすれば、とても責任あることです。特に教師とか、親とか、そのような立場にいる人の責任は大きいと言わざるを得ません。しかし現実にはみな「多くの点で失敗する」のです。
  • 言論の自由と言われますが、それは時と場所を選ばず、また相手のことを考えずに勝手気ままに語れる自由ではないはずです。時と場合によっては、沈黙しなければならないこともあるはずです。もし私たちが語る権利と時と場が与えられるならば、それは聞く者に対して恵みを与えるものでなければなりません。エペソ人への手紙4章29節に「必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く者に恵みを与えなさい。」とあるからです。
  • イェシュアはまさにそのような方でした。サマリヤの女にしても、ザアカイにしても、ニコデモに対しても、聞く者に恵みを与える会話をされました。それゆえに、そのことばは相手の生涯をひっくり返してしまうような、影響力のあることばとなりました。まさにイェシュアが「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)と言われた通りです。個人の生涯を変えただけでなく、町全体をも変えたのです(サマリヤの女の場合)。
  • 私たちの語る言葉が、果たして、人をして良い方向に向かわせる言葉を語っているかどうか、吟味する必要があります。なぜなら、私たちの語る言葉が「くつわ」のように、また「かじ」のように、人の人生を方向づけてしまうことがあるからです。

2. 舌は人々の人生に災害や破壊をもたらす

  • ところで、舌は決して良い面ばかりではありません。「舌」の第二の比喩は、「火」と「毒」です。この両者に共通するのは、どんなに小さくても、そしてどんなにわずかな量であっても、恐ろしい影響力を持っているということです。森全体を焼き払うこともできます。1995年の夏にモンゴルで発生した山火事はなんと北海道よりも広い領域が焼き尽くされたようです。乾燥していてたまたま木と木が擦れ合って火が着くということもありますが、故意に、計画的な犯行としてなされることもあります。ある友だちの口から発せられた一言が、相手を死に追いやることもできるのです。
  • ローマ人への手紙3章に人間の罪が描かれています。「義人はいない。ひとりもいない。・・彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」と。「彼らの」「彼らは」とは、他人事ではなく、実は私のことであり、あなたのことです。やがて私たちは、神の前にすべての口がふさがれて、私たちの語ったすべての言葉が取り調べられて、神のさばきに服することになると聖書は語っています。人間関係を破壊する恐るべき大災害、恐るべき破壊力は何かと問われれば、それは私たちの舌です。不用意な発言、衝動的なことばが、どれだけ多くの人を傷つけ、破壊することでしょうか。
  • あるご婦人が友だちをお茶の会に招待しました。ご婦人たちの会話に花が咲きました。そこに主人役のご婦人がお茶の準備をするために席を外しました。彼女が部屋を出るや否や、あとに残ったご婦人たちは彼女の棚卸し(悪口)を始めました。5分ほどたって彼女はお茶を載せた盆をもって客間に戻って来ました。そして微笑みながら、「今日はみなさんをびっくりさせようと思って、ちょっといたずらをいたしました。」と言って、テープレコーダーを出して、「さっき大分お話がはずんでいたようですが、その皆さんの声をお聞かせしましょう」と言いました。それを聞いて真っ青になったのは客人たちです。何も知らないその家の婦人は、そのテープを再生し始めたから大変です。お客は一人去り、二人去り、結局全員が逃げ出してしまったという話。そんな経験の一度や二度、あるのではないでしょうか。
  • 行ないと口とが違わなければ、何も恐れることはないのですが、聖書が言うように、「彼ら(私たちの)のどは、開いた墓であり、彼ら(私たち)は、その舌で欺く・・」のです。サタンの最後の砦は舌であるとある人は言っています。まことに、ヤコブが8節で記しているように、「舌を制御することは、だれにもできない」のです。・・変な所で安心しないようにしましょう。私たちは自分の舌で人との関係を破壊してしまうような恐ろしい「火」と「毒」を持っていることを忘れてはならないのです。私たちは神の赦しと神の恵みの支配によらなければ、だれ一人として舌を制御できない者なのです。

3. 人々の期待(信頼)を裏切る(失望を与える)舌

  • 最後に、舌は人を信頼させる力ともなれば、その信頼を裏切る力でもあります。舌は「泉」と「木の実」にたとえられているように、これらは人々に多くの期待を与えるものです。泉はのどの渇いた人に冷たい水を提供し、渇いたのどを潤します。ところが、やっとのことで口にするその水が苦い水であったならどうでしょうか。期待は完全に裏切られます。また、「木の実」に人々が期待するものは甘い果実です。店で買ってきた柿がどうしようもない渋柿であったとしたらどうでしょう。もうその店で買い物をすることはないでしょう。
  • 逆に、私たちは自分の舌をもって神の期待を裏切っていることはないでしょうか。「賛美とのろいが同じ口から出て来るようなことがあってはならない。」と聖書は教えています。賛美の口で「主よ。あなたはなんとすばらしい。あなただけを信頼します。愛します。」と告白しながら、一歩、教会を出ると、神以外のものに頼ったり、神のことばを疑ったり、不信仰になったとしたら、神は期待を裏切られた気持ちになるはずです。手間ひまかけて育てたぶどうを栽培して、その良い実を期待していたのに、すっぱいぶどうの実ができたとしたら・・。
  • 舌は人々に信用をもたらすと同時に、その舌で人を裏切ることもできるのです。ある有名な伝道者は言いました。「人々にあなた自身を信用させることができなければ、救い主を信じさせることは、到底、難しい。」と。舌はその人の真実さを計るバロメーターです。「舌」の問題は、実は「心」の問題なのです。
  • 人々は真実さを求めています。何度も人に裏切られながらも、それでも真実なことばに出会うことを求めているのです。真の真実さは私たちのなかにはありません。しかし、
    ①「私たちは不真実であっても、彼(イェシュア)は、常に真実である。」(Ⅱテモテ2:13)。
    ②「(父のみもとから来られた)この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)。
    私たちの父なる神も、
    ③「霊とまことによって礼拝する真の礼拝者を求めて」(ヨハネ4:23)おられるのです。
  • 結論として言えることは、私たちは「真実」という点において少しでも成長できるようなキリスト者とならせていただくように祈ることなのです。しかし完全に制御できるためには、私たちのからだが新しくされなければならないのです。

1996.11.10 改訂2017.12.14


a:4987 t:3 y:2

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional