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あなたの終局がやって来ている

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7. あなたの終局がやって来ている

【聖書箇所】 6章1節~7章27節

ベレーシート

  • エゼキエル書6章と7章には、「わたしが主であることを知ろう」という定型句が七回使われています(6:7, 10, 13, 14/7:4, 9, 27)。「主を知る」ことは、ここでは具体的に「主のさばきを知る」ことと同義です。そして7章では、「主のさばき」を、「終わりが来る」(2, 3, 6節)、「その時が来る」(7節)、「その日が来る」(10節)、「その日が近づいた」(12節)という表現で言い直されています。直接的にはバビロンによるエルサレム陥落の預言ですが、同時に、これは終わりの日の患難時代に起こるイスラエルに対する型です。

画像の説明

1. 神のさばきの確実性 

主のさばきの同義.PNG
  • 7節と10節に「終局」(新改訳、新共同訳)という言葉があります。口語訳は「最後の運命」と訳しています。岩波訳は「輪」と訳しています。このことばの原語は「ツェフィーラー」צְפִירָהで、旧約では三回しか使われていません(イザヤ28:5、エゼキエル7:7, 10)。この語彙は「花輪、(環状の)冠、循環、夜明け、終局」といった意味のようです。7節の後半に、その日(終局)は「歓声の日ではなく、恐怖の日だ」とあります。このことから、終局にはある者にとっては「報いとして喜びの冠が与えらる日」ともなれば、ある者にとっては「恐怖の日」ともなることを暗示しています。
  • イスラエルの民に対する神のさばきは神の統治(ミシュパート)のことです。旧約における神のさばきの実例は、パウロが言うようにひとつの型です。今日に生きる私たちに対する教訓的戒めです。私たちが主を知ることは、主の正しいさばきを知ることを意味します。そして、やがて私たちひとりひとりは、主のさばきの座で、自分のした行いについてさばかれるのです。それはある者たちにとっては「喜びの日」となりますが、ある者にとっては「恐怖の日」となるのです。このさばきは必ず来ることを聖書は繰り返して教えています。たとえば、主が王であることを告白する詩篇にそのことが多く取り上げられています。例えば、詩篇96篇の最後の節にこうあります。

    確かに、主は来られる。
    確かに、地をさばくために来られる。
    主は、義をもって世界をさばき、
    その真実をもって国々の民をさばかれる。(96:13)。

  • 同じような内容が詩篇98篇9節にもあります。神は義と真実、公正をもってさばかれます。この世の基準ではなく、神の基準でさばかれるのです。

2. キリストのさばきの御座に立つ

  • 使徒パウロはイスラエルの民が神にさばかれたことが書かれているのは、戒めのためであり、世の終わりに臨んでいる私たちの教訓とするためだとしています(Ⅰコリント10:11)。信仰によってこの方とのかかわりを持つことができた者にとって、神の終局のさばきは決して恐ろしいものではありません。なぜなら、キリストの義と真実が完全な救いを保証してくださっているからです。さらに、救いのみならず、神の子としてどのようにふさわしく歩んだのか、その報いが与えられます。ある者にとってその報いは、朽ちることのない「冠」が与えられます。その「冠」は、「喜びの冠」「いのちの冠」「金の冠」であり、しぼむことのない「栄光のと誉れの冠」です。
  • 神(キリスト)のさばきという神の統治の概念は、神の子どもとされた者たちが主を知ることにおいて、また、主に仕えていくことにおいて、より優れた形で、より確実な形で動機づけられると信じます。しかし、キリストの救いを信じなかった者に対しては、キリストの「大きな白い御座」において、自分のした行いに応じてさばかれることが定まっています(黙示録20:11~13節)。

2013.5.8


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