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あなたの神、主は、あなたのただ中におられる

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6. あなたの神、主は、あなたのただ中におられる

【聖書箇所】 3章14節~20節

ベレーシート

  • 14節以降は、ゼパニヤ書の中で最もエキサイティングな箇所です。主がこの地上に到来する時、ダビデの幕屋が回復します。ダビデの治世において突如にして始まった「ダビデの幕屋」礼拝はまさに天の礼拝の啓示であり、その基調は喜びです。14~20節には、「喜び」を表わすヘブル語が立ち並んでいます。しかも、人が神に対して「喜ぶ」だけでなく、「主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」とあるように、神も人を「喜び」「楽しむ」世界です。何とも心躍る約束です。とりわけ、主が「高らかに歌って、喜ばれる」というのは珍しい表現です。というのは、この「喜ばれる」は「ギール」(גִּיל)という動詞で、人間に使われる場合には「大喜びをする」、「すずめ踊りする」というような喜びなのです。この動詞が何とここでは神に使われているのです。

1. 「歓喜」を表わす語彙

【新改訳改訂第3版】ゼパニヤ書3章14~17節
14 シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ
15 【主】はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、【主】は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。
16 その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。
17 あなたの神、【主】は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。


A. 神に対する民の「喜び」
(1)「喜び歌え」ー「ラーナン」(רָנַן)喜びをもって賛美すること。命令形「ロンニー」(רָנִּי)
(2)「喜び叫べ」-「ルーア」(רוּעַ)喜びの叫びを上げること。命令形は「ハーリーウ」(הָרִיעוּ)
(3)「喜び勝ち誇れ」-「サーマハ」(שָׂמַח)と「アーラズ」(עָלַז)の二つの語彙が含まれています。それぞれの命令形は「シムヒー」(שִׂמְחִי)、「アールズィー」(עָלְזִי)。

B. 民に対する神の喜び
(1)「喜ぶ」ー「スース」(שׂוּשׂ)
(2)「楽しみ」(名詞)「シムハー」(שִׁמְהָה)
(3)「高らかに歌う」ー「ラーナン」(רָנַן)
(4)「喜ぶ」-「ギール」(גִּיל)

  • このように「喜び」という語彙がまとまっている箇所は聖書でも珍しいのです。私たちは、今、「イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8〜9)とあります。「ことばに尽くすことのできない喜びに踊っている」とは尋常な喜びではありません。この箇所をヘブル語にすると、「喜び」(「シムハー」שִׁמְהָה)をもって「踊る」(「ギール」גִּיל)と訳されます。
  • しかしその喜びは、「その日(とき)」の喜びに比べるならば、喜びの「種」のような、「つぼみ」程度のものでしかありません。天における「喜び」の結実も、三十倍、六十倍、百倍という私たちの想像を絶するものだと信じます。それゆえ私たちは、「花婿を迎える花嫁」のようにひたすら花婿を慕い求める者とならなければなりません。「その日」「そのとき」にもたらされる「ことばに言い尽くせない」喜びを、その麗しさを、みことばと御霊によって思い描く者でありたいと思います。

2. 「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる 」とは

  • 15節と17節にある「(あなたの神、)主は、あなたのただ中におられる 」ということばに注目したいと思います。「あなたのただ中におられる」というフレーズは、ヘブル語で「ベ・キルベーフ」(בְּקִרְבֵּךְ)となっています。この「ベ・キルベーフ」は、「〜の中に」(in)という意味の前置詞「ベ」(בְּ)に、「あなたの」という人称語尾が付いた名詞で「中、内部」(within)を意味する「ケレヴ」(קֶרֶב)が一つになったフレーズです。それを新改訳も新共同訳も「あなたのただ中に」と訳しているのです。
  • ちなみに、「ケレヴ」(קֶרֶב)の女性名詞は「キルヴァー」(קִרְבָה)ですが、その意味は「接近、近づくこと」となります。「悪者が栄えている」ことに対する妬みによる霊的葛藤の果てにたどりついた結論が、詩篇73篇の最後の節(28節)に記されています。そこにはこうあります。「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」と。神に近くあるということが至福の世界であることを悟った者の告白です。ちなみに、ヘブル人への手紙の著者は、「神(神の御座)に近づく」ことができるということが「救い」だと教えています。

3. 「その時、わたしはあなたがたを連れ帰る」

  • 14〜17節では「シオンの娘」(「バット・ツィヨーン」בַּת־צִיּוֹן)、「エルサレムの娘」(「バット・イェルーシャーライム」בַּת יְרוּשָׁלַיִם)が単数の「あなた」で呼ばれていますが、18節以降では複数となります。「例祭から離れて悲しむ者たち」「彼ら」「あなたがた(の)、あなたがた(に)」と。
  • 神の恩寵が以下の動詞によって表わされています。

    (1) 「集める」(18, 19, 20節)ー「カーバツ」(קָבַּץ)のピエル態
    (2) 「連れ帰る」(20節)-「ボー」(בּוֹא)の使役形
    (3) 「帰す(繁栄を元どおりにする)」(20節)-「シューヴ」(שׁוּב)
    (4) 「(名誉と栄誉を)与える」(20節)ー「ナータン」(נָתַן)

  • 「その時」といわれるメシア王国の時には、神の恩寵として選びの民である「シオンの娘」を単に「集め」「連れ帰る」だけでなく、彼らに本来与えられていた名誉と栄誉という特権を回復してくださるのです。
  • ゼパニヤ書はユダに対して語られた預言ですが、神のみこころのうちには、アッシリヤによってすでに滅びて離散したエフライム(北イスラエル)も決して忘れられてはいません。彼らの「残りの者」たちは、必ず、3章18節の祝福に与るようになるのです。これが聖書の言う「御国の福音」です。異邦人である私たちはその祝福にイェシュアを信じる信仰によって接ぎ木されたに過ぎないのです。ですから、誇ってはならないのです。

2015.7.4


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