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あなたの奇しいわざを語り告げます

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38. あなたの奇しいわざを語り告げます

【聖書箇所】 詩篇9篇1節(後半)

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【読み】
アサッラー ル ニフレオーーハー

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。
【口語訳】
あなたのくすしきみわざを/ことごとく宣べ伝えます。
【新共同訳】
わたしは 驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
【NKJV】
I will tell of all Your marvelous works.

【瞑想】

(1) 「奇しいわざ」

1節の「私は・・・あなたの奇しいわざを余すところなく語り告げます」にある「奇しいわざ」という言葉に焦点を当てたいと思います。この語句を検索してみると、詩篇では実に29回も使われており、しかも詩篇全体にちりばめられています。そしてこの言葉が最初に登場するのが詩篇9篇なのです。

「奇しいわざ」(新改訳)を、口語訳では「くすしきみわざ」、新共同訳では「驚くべき御業」、LBでは「目を見張るばかりのお働き」、関根訳では「妙なる御業」となっています。wonderfulな 、marvelous な things, works, acts です。その内容は詩篇によって異なりますが、詩篇9篇に限っていうなら、それは「神のさばきの不思議さ」と言えます。

ダビデは4節で「私の正しい訴えを支持し、義の審判者として王座に着かれる」主に感謝し、その方を喜び、賛美しています(1、2節)。そして、正義と公正をもって世界をさばかれる神を「とりで」として拠り頼んでいます。詩篇7篇でもダビデは「神は正しい審判者」(11節)として、その御名を賛美しています。

テレビ番組の『水戸黄門』という時代劇が長年続いています。内容は決まってワン・パターンでありながら、なぜ人気を保っているのか、と考えさせられます。私はこの番組を見ることは滅多にありませんが、勧善懲悪の世界観は人々の心の中になにかスッキリとさせるものがあるようです。ストレスの多いこの時代、不正と不義がはびこる社会の中で、また、不条理な出来事の多い中で、はっきりと白黒をつけてさばいてくれるこの番組は、私たちの心の中にあるモヤモヤ感を吹き飛ばしてくれる何かがあるのだと思います。

詩9篇に見られる神のさばきの不思議さは二つあります。

その一つは、主に信頼し、主を求める者を主は決して見捨てないということです。8節に「主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行なわれる」とあります。「義」と「公正」ということばが出てきます。「義」のヘブル語は「ツェデク」צֶדֶקで、「公正」は「メーシャーリーム」מֵישָׁרִים 公平に、分け隔てなくという意味です。「さばく」は「シャーファト」שָׁפַט 神の統治理念を表わす統括用語で人に対する神のご計画や摂理、配慮などを表わします。後の「さばきを行なう」は「ディーン」דִּין、支配する、治めるという意味です。

神ははじめから私たち人間を厳しくさばかれる方ではなく、どこまでも愛をもってかかわりを持とうとされる方です。そのかかわりを聖書は「義」(ツェデク)という言葉で表します。「義」は、本来は「まっすぐ」という意味ですが、かかわりがまっすぐということは、その関係が最短距離にあるということを意味します。まっすぐな直線コースこそが最短距離です。つまり、神を求めて来る者に対して神は義をもってかかわってくださるということは、その者を最短距離で、つまりより親しいかかわりをもってそばに引き寄せてくださり、そのかかわりを保とうとしてくださるということです。これが「義」(ツェデク)の意味することで、私たちにとっては「救い」とも言えるのです。

もう一つは、神に敵対する者は、必ず滅ぼされ、あとかたもなく消し去られるということです。それは「自滅する」というかたちで終結します。これらの原則こそ、神のさばきの妙であり、「奇しいわざ」のひとつです。

「国々はおのれの作った穴に陥り、おのれの隠した網に、わが足をとられる」(15節)、「悪者はおのれの手でつくったわなにかかった」(16節後半)とあります。この「自滅の原則」は詩7篇14~16節にもみられますが、そこでは他人を落とそうと計画して穴を掘っている最中に、自分がそこに落ち込んでしまったことが述べられています。こうした自滅の例は聖書の中に数多くあります。たとえば、ユダヤ人モルデカイを陥れようとしたペルシャ王の側近ハマン(エステル記)、あるいは、王の寵愛を受け続けるダニエルを妬んで陥れようとした敵がその良い例です。彼らはそれぞれ自分の設けた穴に陥りました。  

もし私たちを脅かす者に対して、私たちが戦おうとするなら、やがて疲れ果て、敗北するに違いありません。しかし私たちが主を「しいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで」(9節)としてその御手の中におくならば、敵はその悪のゆえに勝手に自滅していくのです。これが神のさばきの妙なる御業です。

「自滅の原則」については、他の詩篇の箇所にも見られます(63篇9~10節、64篇8節、等)。この原則を知りつつ、義の審判者である主を自分の「とりで」とするなら、主がさばきをおこなってくださると信じます。使徒パウロもローマ人への手紙8章で「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(31節)と語っていますが、そこにはだれも敵対することはできないのだという強い確信があります。それゆえ、同12章では「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。」(19節)と語っています。

(2) 「語り告げる」

「語り告げる」と訳された原語は「サーファル」סָפַרです。本来の意味は「数える、数を調べる、記す」ですが、その強意形のピエル態では重要なことを「言い表す、語り伝える、語る、告白する、告げる、伝える、宣べ伝える、物語る」という意味になります。詩篇の特愛用語です(Ps50/OT105)。名詞形は「ソーフェール」סֹפֵרで、「学者、書記官」を意味します。したがって、ニュアンスとしては学者が事実を調べて、それを正確に把握し、整理して伝えるということの意味合いが強い言葉です。だれが、だれに、なにを、どのように、語り告げるのかに注目する必要があります。

詩篇44篇1節に、「神よ。私たちはこの耳で、先祖たちが語ってくれたことを聞きました。あなたが昔、彼らの時代になさったみわざを。」とあります。神の民は、それぞれの時代になされた神のさばきの不思議さを霊的遺産として大切に受け継ごうとしたのです。この「語り継ぎ」こそ、まさに神に対する信仰を生み出すものだったからです。

ルカは、福音書を書くときに、次のように述べています。
「私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」(ルカ1章1~4節)

詩篇9篇1節に「あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます」とあるように、神の驚くべき奇しいわざを、その確かな事実を、ことごとく、余すところなく、すべて、きちんと整理して「語り告げる」ことを自分たちの使命としたユダヤ人たちの存在によって、現在、私たちは聖書を手にすることができ、かつ、神を知ることができるのです。確かに聖書は、すべて神の霊感によって書かれたものではありますが。そのために用いられた人々は(ひとりを除いて)すべてユダヤ人です。異邦人のルカもユダヤ人の使徒パウロと深いかかわりを持つことなしには、「福音書」も「使徒の働き」(使徒言行録)も書くことはできませんでした。神によって選ばれたユダヤ人たちの存在によって、私たち異邦人は永遠の霊的な遺産を受けています。そのことを決して忘れてはならないし、軽く考えてはならないのです。なぜなら、ユダヤ人と異邦人はキリストにあって共に共同の相続人とされているからです。しかもそれは「キリストの奥義」(教会の奥義)なのです。

私たちはユダヤ人が記した神の「奇しいわざ」を正しく理解する必要があります。その神の奇しいわざを自分の経験として、どれだけ経験することができたのか、機会があるときにそれを語らなければなりません。ただ自分の救われた時だけのあかしだけにとどまることなく、むしろ神に出会った後の経験こそ重要です。ただし、手まい勝手なあかしとならないように、上からの知恵を与えられる必要があるのです。自分に与えられた人生においてどれだけのことを「語り告げる」ことができるのか、ユダヤ人たちはそれを「余すところなく」と記したこの意気込みを買いたいものです。


2013.3.24


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