****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「隠された宝」と「高価な真珠」のたとえ

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57. 「隠された宝」と「高価な真珠」のたとえ

【聖書箇所】マタイの福音書13章44~46節

ベレーシート

●今回取り上げるのは、マタイの福音書13章に記されている 「天の御国の奥義」の中にある「畑に隠された宝」のたとえと、「高価な真珠を探している商人」のたとえです。この二つのたとえはきわめて類似しています。その類似点は、宝も真珠もいずれも単数であること。そしてそれらを見つけた人(商人)が、「行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買う」という点です。このたとえが意味することを考えてみたいと思います。まずはテキストを読んでみましょう。今回はわずか3節からのメッセージです。

【新改訳2017】マタイの福音書13章44~46節
44 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。


1. 二つの例えを解釈する視点

●その前に、マタイの福音書13章の「天の御国の奥義」の緒論で学んだことを思い出していただきたいと思います。「御国の奥義」のたとえは、以下の事柄を含んでいることを述べました。

①「御国の奥義」のたとえは、イェシュアが語り、そして実現・完成される「主の定め」であること。
②「主の定め」は、神のご計画とみこころ、御旨と目的にそって理解すること。
③「主の定め」は、「すでに」(初臨)と「いまだ」(再臨)という終末的緊張関係の中で理解すること。
④「主の定め」は、それを聞く者に信仰的決断を促していること。
⑤「主の定め」は、御国の民となる者とそうでない者とを分けるものであること。

●44~46節に記されているたとえは、「畑に隠された宝」と「高価な真珠」(正式には「高価な真珠を探している商人」)のたとえです。前回の31~33節では「からし種」と「パン種」のたとえが登場しました。いずれも一対のたとえとして考えられ、御国の力はこの世では隠されているが、やがては外面的にも内面的にも大きく伸展していくという解釈が十中八九なされている中で、天の御国が完全に到来する収穫の時までは、毒麦も一緒に育っていること、敵の支配も畑であるこの世界に最大限にまで伸展するというたとえが「からし種」と「パン種」のたとえだと解釈しました。今回の「畑に隠された宝」と「高価な真珠」のたとえも、十中八九が、天の御国という宝を見つけた人がどのようにしてそれを手に入れることができるのかを教えていると解釈されています。つまり、「人」は価値ある宝(真珠)を得るために、それまで価値あるものだと思っていたものをすべて売り払ってでも、それを得る人の話となります。使徒パウロがその一人として挙げられます。なぜなら、彼はキリストを得るために、彼にとって得であったものをすべて捨てたからです (ピリピ3章)。確かに、パウロのヘブル名は「シャーウール」(שָׁאוּל)で、語源の「シャーアル」(שָׁאַל)には「神を熱心に尋ね求める」という意味がありますが、キリストがそうさせてくださったとあります。御国には全てを捨ててでもそれを求める価値があるのだというメッセージは魅力があり、これは決して間違っていませんが、しかしそれに似た話はこの世の中にいくらでもあります。

●価値あるもののために、自分の持ち物の一切を売ってそれを得ようとすること、それはギリシア的なエロスの愛となんら変わりません。エロスの愛は価値あるもののためには自分のすべてを犠牲にするのです。今回のたとえが、「天の御国」は、それまで価値のあったすべてのものを売り払ってまでも手に入れる価値あるものだと教える話だとするなら、すでにイェシュアが山上の説教で語った「まず神の国と神の義を求めなさい。それらのもの(=生きるに必要な衣食)はすべて与えられる」だけでも十分だと思います。今回のたとえが「天の御国の奥義」とするならば、そこには神の深い重要なご計画が隠されていると考えるのが自然ではないかと思います。

●「天の御国の奥義」を示す13章のたとえで、これまで「種を蒔く人」、「自分の畑に良い種を蒔いた人」がイェシュア・メシアであったのに、「畑に隠された宝を見つけた人」や「高価な真珠を見つけた商人」が私や私たちであるというのは腑に落ちません。いずれも、それはイェシュア・メシアであるべきです。

●そこで私は、ここでのたとえの視点を、「畑に隠された宝」とは天の御国ではなくイスラエル、「高価な真珠」とは主の花嫁なる教会のことだと考えます。しかもその宝を見つけた人、および真珠を見つけた商人をイェシュア・メシアだと考えます。その解釈の有力な理由としては、いずれも、「行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います」とあるからです。これはイェシュアがそれを買うために自分のいのちを身代わりとして、すなわち、贖いの代価として支払うことで宝や真珠を手に入れることを意味しているからです。だれでもできることではありません。神の目から見て価値あるものが、だれの目にも価値があるとは限りません。神が「わたしの目には高価で尊い」(イザヤ43:4)と言っているのは、盲目の民イスラエルに対してなのです。なぜ盲目のイスラエルが「高価で尊い」のかといえば、それは「神が選ばれた民だから」としか言えません。これが詩篇78篇でいう「昔からの謎」であり、イェシュアが群衆にたとえで語る理由でした(詩78:2)。

2. 「畑に隠された宝」のたとえ

●「宝」はギリシア語で「セーサウロス」(θησαυρός)で、マタイ13章52節では「倉」と訳されています。ヘブル語では「セグッラー」(סְגֻלָּה)で、私的な財産、宝、所有物を意味します。その初出箇所は出エジプト記19章5節にあります。そこではエジプトから救い出されたイスラエルの民に対して、「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから」とあります。ここには「全世界」である畑の中から、つまりあらゆる民族の中にあって隠されてきたイスラエルの民が、神にとって「わたしの宝となる」と言われているのです。イスラエルのことを神の「ご自分の宝」(「セグッラートー」סְגֻלָּתוֹ)だとするフレーズが、旧約聖書の中に他に5回あります。

①申命記7章6節「あなたは、あなたの神、【主】の聖なる民だからである。あなたの神、【主】は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分のの民とされた。」
②申命記14章2節「あなたは、あなたの神、【主】の聖なる民だからである。【主】は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分のの民とされた。」(7章5節と全く同じフレーズです)
③申命記26章18節「今日、【主】は、あなたに約束したとおり、あなたが主のすべての命令を守り主のの民となること、」
④詩篇135篇4節「【主】はヤコブをご自分のために選び イスラエルをご自分のとして選ばれた。」
⑤マラキ書3章17節「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の【主】は言われる──わたしが事を行う日に、わたしのとなる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」

●上記のことから、「畑に隠されている宝」がイスラエルのことを指していることは明らかです。そしてその宝を見つけた人というのは、イェシュアしかいないことも明らかです。

●この宝は畑に隠されていましたが、これは出エジプトの出来事によって、神の目にふさわしいものとして見出されました。しかしイスラエルは偶像礼拝の罪によってしばしば隠されました。ヘブル語の「隠す、埋める」(「ターマン」טָמַן)という語彙が神によって用いられるとき、「何の役にも立たなくなってしまった」存在を、神はやがて「なにをしても栄える」存在へと回復させるために、神の手の中に隠されるという意味です。それはアブラハム契約に基づいており、イェシュアが来られた時には、異邦人の支配の下にあったことで選びの民としての価値は世に隠されていました。イェシュアが贖いの代価としてご自身のいのちを差し出した後も、イェシュアがメシアであることを拒んだために、イスラエルの民(ユダヤ人)は世界中に離散の民となります。しかし、再びイェシュア・メシアは彼らを連れ戻して回復させるのです。実に、歳月をかけた神の取り組みが含まれます。彼らが悔い改めて神との正しい関係が回復されるときに、ただちに祝福が回復するのです。「宝を見つけても畑にそれを隠して、畑ごと買う」とはそのようなことを言っていると思われます。

●また、この宝を見つけた人は畑を買うために持ち物をすべて売り払いました。マタイ13章44節ではその動機が「喜びのあまり」とあります。ここでの「喜び」とはギリシア語では「カラ」(χαρά)ですが、へブル語にすると「シムハー」(שִׂמְחָה)で、この語彙は御国の完成における終末論的喜びとして、詩篇や預言書(イザヤ書)の中に多く見られます。つまり、畑の中に隠しておいた宝を再び掘り起こして喜び楽しむのが、宝を見つけた人(メシア)の喜びなのです。その喜びは御国が完成するまではイスラエルのかたくなさによって隠されています。しかしその喜びは千年王国において必ず実現するのです。

3. 「高価な真珠」のたとえ

●また、天の御国にはメシアである王とその民が不可欠ですが、その民となる構成員はイスラエル教会しかありません。神の目にとってこの二つはかけがえのない宝であり、特に教会は高価な真珠そのものなのです。そう理解することで、天の御国の神のご計画が見えてくるのです。教会はキリストの花嫁として神のご計画にとって極めて重要です。旧約聖書においては、「教会」は隠された奥義でした。これは後の使徒パウロに示された奥義で、イェシュアが語った人々にも隠されていました。

45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。

●この高価な真珠(「マルガリトス」μαργαρίτος)を探している商人とは、花婿となるイェシュアのことです。それを見つけたならば、隠された宝と同様に「行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います」とあります。それは十字架の尊い血潮によって贖うことを意味します。高価な真珠は、「畑の中に隠されていた宝」をたまたま見つけた人とは異なり、良い真珠をずっと長い間探していた商人によってやっと見つけられたものです。イスラエルはアブラハムの子孫でエジプトにいた時、世に神である主の名を知らせるために救い出さたれた宝の民です。しかし教会に召された人たちは、パウロによれば「世界の基の置かれる前からキリストにあって選ばれた者」たちなのです(エペソ1:3)。

●マタイの福音書で「教会」(「エックレーシア」ἐκκλησία)という言葉が初めて登場するのは、16章18節の「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」と言われた箇所です。この箇所は、ペテロの「あなたは神の子キリストです」という信仰告白の後です。イェシュアはイスラエルのことだけではなく、教会のことを考えておられたのです。しかもそれは旧約の預言者イザヤが「主のしもべの歌」の中に預言していたことなのです。イスラエル教会、これが神のご計画における奥義です。教会の存在は神のみこころの中にずっと隠されていた真珠なのです。教会の奥義を啓示されていたパウロは、教会を「世界の基が据えられる前から・・選び」と言っています。

【新改訳2017】エペソ人への手紙1章4節
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たち(=教会)を選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

●そのご計画は預言者によって次第に明らかにされます。イザヤ書49章に預言されている「主のしもべ」であるメシアなるイェシュアは、「イスラエルを回復する」だけでなく、「異邦人に救いをもたらす」ことであることが明らかにされています。この主のしもべの使命について次のように記されています。

【新改訳2017】イザヤ書49章6節
主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

●【新改訳2017】で「小さなことのためだけではない」と訳された部分を、【新改訳改訂3】では「(イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせる)だけではない」、新共同訳は「だが、それにもまして」、七十人訳では反対に「大きなことである」と訳されています。つまり、それは「わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」という「主のしもべの使命」が預言されているのです。

① イスラエルの残りの者を連れ帰らせること 〔イスラエルの回復
② 国々の光として、地の果てにまで神の救いをもたらすこと 〔異邦⼈の救い

●ルカの福音書2章で、イスラエルの慰め(=救い)を待ち望んでいた老シメオンが幼子イェシュアを抱いたとき、聖霊によって次のように神をたたえました。

【新改訳2017】ルカの福音書2章29~32節
29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
30 私の目があなたの御救いを見たからです。
31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」

●イザヤ書49章6節は、使徒の働き13章47節にも引用されています。

【新改訳2017】使徒の働き13章47節
主が私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを異邦人の光とし、地の果てにまで救いをもたらす者とする。』

●ここはメシアに与えられた使命を、使徒パウロとバルナバが引きついでいます。しかしそれはイスラエル(ユダヤ人)たちが福音を拒否したためです。パウロはこう言っています。

【新改訳2017】ローマ書11章11~12節
11 それでは尋ねますが、彼ら(=ユダヤ人のこと)がつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、その背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。
12 彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らがみな救われることは、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。

イスラエルの回復と異邦人の救いは、神のみこころの中心であり、神のご計画の心臓部です。一方だけが成就することは決してありません。救いの順序としては「後の者が先になり、先の者が後になります」(マタイ20:16)が、御国においては必ず双方が共同相続財産を受けるのです。この二つの関係を「イスラエルと教会のかかわり」と言い換えることができます。これは天の御国の奥義である「主の定め」であり、イェシュアは「」(イスラエル)と「真珠」(教会)にたとえているのです。私たちはこのことを正しく理解しなければなりません。これまでのキリスト教会の歴史はこのことを正しく理解してこなかったという経緯があります。そのために、神のご計画を知ることができなかったのです。これはサタンの蒔いた毒麦のゆえでもあるのです。

●イスラエルと教会は天の御国における大切なメンバーなのです。しかも教会はユダヤ人と異邦人から形成されています。この教会は、国々(諸国)から呼び出された者たちの集合体なのです。私たちはメシア・イェシュアの尊い血潮という代価によって、買い取られた者なのです(Ⅰコリント6:20、7:23)。

画像の説明

●ヨハネの黙示録21章にある「聖なる都、新しいエルサレム」には、「真珠でできている12の門」があります。12の門は、いずれの門も桁外れに大きい「一つの真珠」で造られています。御国の民はその真珠の門を通って都に入るのです。真珠は貝の中に異物が入り込むことによって、貝そのものが分泌するものが幾重にも重なって作られるそうです。そのように、教会はキリストの苦しみによって生み出されたものだからです。キリストと教会の結婚の奥義は偉大なのです。なぜなら、創造の時から、天の父は御子に花嫁を与えるというご計画を持っておられたからです。人が男と女とに造られたことはこのことを型として啓示しておられたのです。

●天の御国の奥義は残すところあと二つです。「地引き網」と「御国の学者」のたとえ(13:47~52)は次回に学びます。

2019.7.7


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