「見よ。その日が来る。」
エレミヤ書の目次
35. 「見よ。その日が来る。」
【聖書箇所】 31章23節~40節
ベレーシート
- エレミヤ書の心臓部(29~33章)のパート4では、「見よ、その日が来る」というその日には、神がイスラエルの家とユダの家との間に「新しい契約」を結ばれますが、このことはエレミヤ書のみならず、旧約聖書において最も核心的な箇所です。「新しい契約」ということばは、旧約においてはここエレミヤ書の31章31節のみです。この「新しい契約」の「新しさ」とはどこにあるのか。その特質とはいったい何なのかを語られた御言葉から思い巡らしてみたいと思います。
1. 「見よ。その日が来る」というフレーズ
- 「見よ。その日が来る」というフレーズ(原文では「見よ。そのような日々が来る」と複数になっています。新改訳2017では「見よ、その時代が来る」と訳しています。)は、旧約で10回使われていますが、そのうちの7回がエレミヤ書です(9:25/23:5/30:3/31:27, 31, 38/33:14)。他にはアモス書が2回(8:11/9:13)、そしてマラキ書が1回(4:1)です。エレミヤ書の7回のうち、最初の9:25を除けば、あとはすべて終末的預言です。
- 「見よ。その日が来る。」
(1) その日には、イスラエルの家とユダの家に、建て直し、植えるための「種」が蒔かれます(27~28節)。
(2) その日には、「だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮く」(つまり、父の犯した責任を子が問われることがなくそれぞれ自分の犯した責任が問われる)ようになる(29~30節)。
(3) その日には、主がイスラエルとユダの家とに、新しい契約を結ぶ。しかもその「新しい契約」は、創造世界の秩序が不変であるように、神とイスラエルとの絆も不変となる。しかもそれは絶対的な恩寵に基づくものである(31~37節)。
(4) その日には、エルサレムが主のために建て直され、永遠に根こぎにされることも、壊されることもない(38~40節)。
2. 「新しい契約」の三つの特性
- 31章31節に初めて登場する「新しい契約」の特質として、以下のようにまとめることができます(図式参照)。
(1) 内面性(心に律法が記される)
33節に「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す」とあります。それは外からの義務や強制によるものではなく、内からの意志ー自発性、主体性、自立性ーによって神の律法(トーラー/みおしえ)を守り、従おうとすることです。この内面的な意志によって、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」ことが可能となる契約です。
(2) 個人性(主を知るようになる)
34節に「人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。」とあります。「身分の低い者から高い者まで」というのはへブル的表現で、「すべての者」を意味します。その日には、すべての者が直接的に主を知るようになります。
(3) 完全な赦罪
34節に「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない。」とあるように、完全な赦罪(しゃざい)があるということです。これは本来契約関係においては絶対にあり得ないことなのです。律法なしの契約というものはありません。律法は良いものであり、正しくなければなりません。しかもその律法には契約の内容が記されています。問題はそれを守り切れないという人間側の矛盾性にあります。使徒パウロはそのことで悩みました。ローマ書7章にはこの矛盾と葛藤の悩みが記されています。
人間の罪の現実性と矛盾性に対する深い掘り下げなしには、神の「赦罪」を正しく理解することは困難です。罪や咎に対する神の赦しは「二度と思い出さない」(記憶しない)という驚くべき恵みです。
- 神の「赦罪」の動機は、エレミヤ書31章20節に記されていることばです。
わたしのはらわたは、彼のためにわななき、
わたしは彼をあわれまずにはいられない。
- 上記の31:20のフレーズの「わたしは」は、主であり、「彼」とは、エフライム、すなわち北イスラエル(10部族)のことです。主は北イスラエルの部族のために「はらわたがわななく」(=「あわれまずにはいられない」と同義)とあります。なぜなら、エフライムにとって主は「父」であり、主にとってエフライムは「長子」(かけがえのない存在)だからです(31:9)。これが「新しい契約」における神の動機と言えます。
- 「はらわた」(内臓)とは感情が生じる場所として考えられていました。その部分が「わななく」のです。この「わななき」と訳された原語は「ハーマー」(הָמָה)。この動詞は「騒ぐ、荒々しくする、吠えたける、大声で叫ぶ、動乱する」という意味ですが、このことばには「痛み」と「愛」が入り混じっていると日本の神学者である北森嘉蔵氏は断言しています。それゆえ、「ハーマー」(הָמָה)を「痛みに基礎づけられた愛」と表現しています。このことばから(イザヤ書63:15の「ハーモーン」הָמוֹןも加わって)「神の痛みの神学」が構築されました。
- 「新しい契約」
(「ベリート・ハダーシャー」בְּרִית חֲדָשָׁה)においては、エレミヤはその方向性だけを指し示しています。その契約を成立させる仲介者もその方法について一切不透明です。新約に生きる私たちにはそれが神の御子イエス・キリストの肉と血によって締結されたことを知っています。しかし、イスラエルの家とユダの家とに対して、その「新しい契約」が完全に結ばれるのはこれからのことです。「見よ。そのような日々が(必ず)来る」のです。終末論的希望です。この終末論希望を使徒ペテロは「生ける望み」、使徒パウロは「栄光の望み」「永遠のいのちの望み」「祝福された望み」と言っています。
2013.3.16
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