****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「来てください。」

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1. 「来てください。」

【聖書箇所】 ヨハネの黙示録22章17節

ベレーシート

  • 聖霊の導きに従って、聖書的な「キリストの花嫁」についてランダムに(=思いつくままに)取り上げて行きたいと思っています。その最初に取り上げるのは、ヨハネの黙示録の最後の章(22章)にある「見よ。わたしはすぐに来る。」と語る花婿に対する花嫁のことばー「来てください。」―です。新約聖書の最後の書であるヨハネの黙示録から取り上げるのは、「終わりには、永遠の始まりがある」というすばらしい希望があるからです。私たちはこの希望に満ち溢れていなければなりません。
  • 礼拝前に流れているCDの曲をお聞きになっていると思いますが、そこに流れている曲はTerry MacAlmon(テリー・マッカルモン)という方が作詞・作曲された“Even so”というタイトルの曲です。とてもすばらしいメロディーです。出だしは、Even so come Lord Jesus comeと歌われます。これはキリストの花嫁の声です。以前、私はこの曲を訳して歌いたいと思いましたが断念しました。それは英語のEven soという言葉をどうしてもうまく訳せなかったからです。Even soとは、「そうです、そのとおりです、・・でも、どうか」といったニュアンスなのですが、日本語の言葉にして歌えない英語の独特な表現らしいのです。ギリシア語原文のネストレ27版にはそのEven so に当たる言葉は無くなっているのですが、それまでの原本ではギリシア語で「ナイ」(ναί)という言葉が入っていたのですが、この「ナイ」に当たることばが英語のEven soなのです。この言葉がヘブル語になると「ナー」(נָא)となるのですが、その「ナー」という言葉から、最近になって、Even soとは「どうか」(please)というニュアンスだと理解できたのです。「しかり、わたしはすぐに来る」という花婿の声に対して、花嫁が「はい。そのとおりです。分かっています。でも、どうか、少しでも早くおいでください。いつもあなたをお待ちしていますから」というニュアンスなのです。花嫁の花婿に向けられたこの待望のことばで新約聖書は終わっているのです(最後の節の祝祷のことばを除けばですが・・)


1. 花嫁は「ひとり」(単数)

  • 最初に取り上げなければならない重要な事柄は、花嫁はひとりであるということです。聖書の「キリストの花嫁」は複数の「花嫁たち」ではなく、単数の「花嫁」だということです。「ひとりの花嫁」です。これは重要なことです。「花嫁」とは教会のことですが、一人の花嫁として表わされています。世界中の多くのクリスチャンたちは、一人の「花嫁」なのです。まずはこの感覚を私たちの心に深くなじませる必要があります。男性はこの概念になじむのに少々難しさを覚えるかもしれませんが、繰り返し、瞑想を深めていくことで、それが自分にとって重要な表象であることに気づかされていくと思います。
  • 「キリストの花嫁」はすべてのクリスチャンの集合体です。教会は聖書の中で以下のようにさまざまなイメージで表現されています。「一人の牧者を持つ羊の群れ」、「ぶどうの木の幹につながる枝々」、「ひとつの礎石を持つ建物」、「かしらとからだ(肢体)」、「一人の王とその民」、そして、「一人の花婿とその花嫁」です。
  • 教会を表象するこれらのなかでも、特に、「キリストの花嫁」という表象は、神学的な用語を使うならば、以下のように三つの領域を含んでいます。
    三つの領域をカバーする概念.JPG

(1) 救済論とは、キリストの贖罪による義認、聖化、栄化を含む領域。
(2) 教会論とは、神のご計画において奥義として啓示されたキリストと教会の関係を含んだ領域。
(3) 終末論とは、神のご計画における完成へのプロセスとその成就について扱われる領域。

  • これらの三つの領域を「キリストの花嫁」はカバーしています。ですから、これから「キリストの花嫁」を瞑想していくときに、おのずとこれらの領域と密接なかかわりをもつことになるのです。

2. 「わたしは・・来る」という花婿の声

  • ヨハネの黙示録22章には三度、花婿の声が記されています。その内容は、微妙に異なるところもありますが、ほとんど同じです。

(1) 7節 「見よ、わたしはすぐに来る。」・・・イェシュアのことばを御使いが代弁している
(2) 12節「見よ、わたしはすぐに来る。」・・・イェシュア自身のことば
(3) 20節「しかり、わたしはすぐに来る。」・・イェシュア自身のことば

  • ここでひとつの突っ込みをしたいと思います。「わたしはすぐに来る」という表現。この表現になにか違和感を持ちませんか。この表現を不思議に感じませんか。感じない方もいると思いますが、私は違和感を持つのです。「わたしは来る」という表現はギリシア語では「エルコマイ」(ἔρχομαι)という語彙です。一人称現在形で使う表現です。未来形ではなく現在形です。今すぐにでも行こうとしているところだというニュアンスです。英語も I come と訳しています。今、花婿であるイェシュアはどこにいるのでしょう。天におられるとすれば、「わたしはすぐに来る」ではなく、「行く」ではないでしょうか。実際、「エルコマイ」(ἔρχομαι)は、来る、行く、いずれにも使われます。ところが多くの聖書はこの部分を「わたしはすぐに行く」とは訳さないで、「来る」と訳しています。ここが私には謎なのです。
  • ヨハネの福音書14章で、イェシュアは次のように言われました。

    【新改訳2017】ヨハネの福音書14章1~3節
    1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
    2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
    3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

  • ここでは「行く」「来る」ということがはっきりしています。イェシュアがまだ地上におられたとき、弟子たちに語ったことばですから、地上の側から語っています。ですから、「行って」また迎えに「来る」わけです。しかし黙示録の場合、御子イェシュアは今、御父の家にいて弟子たち(花嫁)を迎える準備をしているわけです。御子は御父のゴーサインがあってはじめて迎えに来ることができます。迎えに来る空中再臨の時期がいつなのか分からないのはそのためです。父の家の側からすれば、私たちを迎えに「来る」ではなく、迎えに「行く」となるのではないでしょうか。黙示録22章の花婿は天の御父の家にいて、花嫁は地上にいます。花嫁側からならば、花婿に迎えに「来てください」となりますが、花婿側からすれば、花嫁を迎えに「行く」となりませんか。「今いくよ、くるよ」というすばらしい関西の女性漫才師のペアがおられましたが、「行くよ」「来るよ」という日本語の表現は、その動詞を使う主体によって、使い方が異なっています。ところが、不思議なことにギリシア語も、ヘブル語も、「行く」も「来る」も同じことばなのです。
  • このようなところに突っ込みを入れても、花婿が花嫁を迎えに来ることは事実なのですから、すべて「来る」で通しても構わないと言えばそれまでです。何よりも、花婿を待つ花嫁に強調点が置かれているということにしたいと思います。

3. 「すぐに」という表現

  • 次に、「わたしはすぐに来る」というフレーズの中の「すぐに」ということばに目を留めてみたいと思います。「すぐに」と訳されたギリシア語は「タキュス」(ταχύς)で、タクシーはここから派生したのではないかと思いますが、どうでしょうか。「遠からず、遅からず、すぐに」という意味です。あるいは神のご計画では絶妙なタイミングなのだと思いますが、そのように信じない人々にとっては、「盗人」のように来ると言えます。信じている私たちにとっても、実はこの「すぐに」ということばは「惑わし」となることがあります。いまだ花婿は花嫁を迎える準備中なのです。準備ができたら迎えに来てくださるのですが、人によっては、結構、「準備が長いなー」という感じを持っている人も少なくないと思います。「急いで準備を終えて、早く迎えに来てください。」と思ったとしても無理はありません。なぜなら、どうしても私たちはこの「すぐに」ということばを人間の感覚で受け取ってしまいやすいからです。「すぐに」ということばを正しく理解する必要があります。それは、神の時計で考えてみる必要があるということです。
  • 「すぐに」とは、「神のご計画における絶妙なタイミングで、しかもそれは、少しも狂いがなく、なされること」と理解するとすれば、私たちはその絶妙な神のタイミングにいつも私たちの時計を合わせていることが必要となります。それはどういう意味でしょうか。
  • 「終わりの日」や主の再臨の教えについては、今日いろいろな説や考えがあるために、それを語ると人が混乱してしまうのではないかと心配して、そのことについて話さない牧師もいるようです。主の再臨の話をすると、現実の問題を解決するのに精一杯なのに、そういうことまで勉強しなければならないのかと思われる信徒もおられるかもしれません。今生きる力を必要としているのに、何か明後日のことを話されても・・・。そのような人たちは、主の再臨の教えを、あたかも難しい教理、現実の問題とは別のこと、と思われているかもしれません。日常的なことに心がいっぱいになっていて、主の再臨の話は日常生活とは別の世界のことだと思われているとすれば、日常生活そのものもゆがんでくるということを知らずにいるのです。
  • イェシュアは「人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。」(【新改訳2017】マタイ24:37)と言われました。人々はノアが箱舟に入るその日まで、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」していました。つまり、普通の生活をしていたのです。ここで指摘されているのは、人々が神のご計画と予告のことばに対して全く無関心で、日常生活に浸りきっていたことです。神はノアを通して「義を宣べ伝え」(Ⅱペテロ2:5)ておられたのですが、人々はそのことに無関心でした。あるいは、主の警告を無視して、そのことを否定していた者もいたと思われます。
  • 使徒ペテロは、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(Ⅱペテロ3:8)と述べています。これが神の世界の単位です。ですから「すぐに来る」と神が言われても、人間の時間感覚ではなく、神の感覚で理解しなければなりません。「遅くなっても」という表現も私たちの感覚で理解しようとするならば、ある人々のように、「彼(キリスト)の来臨の約束はどこにあるのか。・・・すべてが創造のはじめからのままではないか。」(Ⅱペテロ3:4)と言い張るのです。そのような者は、心のまっすぐでない者で、「心高ぶった」者なのです。「終わりの日」に向かって行くこれからの時代は、「人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれていくような時代になる」(Ⅱテモテ4:3~4)ゆえに、ますます伝道困難な時代になると聖書は述べています。今一度、私たちは神のご計画のマスタープランを知り、今、「すぐに」、私たちの時計を神の時計に合わせるべきではないかと思います。


4. なにゆえに、「御霊」と「花嫁」なのか

  • 今回の最後のこととして、黙示録22章17節にある「御霊と花嫁が言う。『来てください。』」というフレーズにある「御霊と花嫁」ということばに注目したいと思います。花嫁だけでなく、なにゆえに「御霊」なのでしょうか。「御霊と花嫁」の関係とはどういう関係なのでしょうか。
  • アブラハムが自分の息子イサクの花嫁を見つけるために、最年長のしもべであるエリエゼルを遣わした話が創世記24章に記されています。息子イサクの嫁探しです。イサクにどのような妻を迎えるかはアブラハムにとって大きな問題であり、生涯の最後の課題ともいうべきものでした。アブラハムは信仰をもってエリエゼルを自分の生まれ故郷(といってもここではハランを意味しています)に遣わして、そこでイサクにふさわしい嫁を探すようにと託しました。
花婿ー御霊―花嫁.JPG
  • この課題のためには、アブラハムのしもべ(エリエゼル)とリベカ、そしてリベカの母と兄(ラバン)に対する神の導きが必要でした。24章はこれら三者が神からの導きを確信する必要があったことが記されています。この導きは、キリストの花嫁に置き換えるならば、ふさわしいキリストの花嫁は御霊の導きが必要であるということの例証なのです。人間的な判断ではなく、御霊の導きによる花嫁でなければならないのです。この場合、アブラハムとイサク、そしてエリエゼル(=「神の助け」)は、御父と御子と御霊の関係の型を予表しています。イサクにふさわしい花嫁が与えられたのは、エリエゼルを型とする御霊の導きなのです。ですから、キリストの花嫁と御霊は密接な関係にあると言えます。キリストの花嫁を花婿にふさわしく整えるのも、花嫁の傍らにいつも寄りそっておられる御霊なのです。ですから、「御霊と花嫁が言う。『来てください。』」となるのです。
  • さらにすばらしいことは、17節の後半です。そこにはこう記されています。

【新改訳2017】黙示録22章17節後半
これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。

  • 「これを聞く者」とは、花婿を待ち続けるその美しさに心打たれる者のことです。つまり、まだ救われていない者に対して、同じく「来てください」という者になるように呼びかけているのです。「渇く者は来なさい。」という呼びかけは、かつてイェシュアが仮庵の「祭りの終わりの大いなる日に」、つまり、「八日目に」大声で人々に語ったことばです。「渇き」とは人間が生きるために満たされなければならない最も根源的な欲求です。黙示録では「いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」とありますが、ヨハネの福音書に記されているイェシュアの言葉は、以下のことです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書7章38節
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。

  • このことばは、最後の最後まで、キリストの花嫁として導かれる者たちへの招きなのです。それは、最後の最後までキリストの花嫁となるチャンスは開かれていることを意味しているのです。とすれば、すでにキリストの花嫁とされている者はますます真剣に花婿に対して、真実に「来てください」と言わなければなりません。なぜなら、その姿には永遠の愛の美しさをあかしする秘めた魅力があるからです。またその先には、永遠の新しいはじまりを予感させる生ける希望があかしされているからなのです。


2015.6.14
改定2018.11.8


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