****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「喜び」をもたらすぶどう酒

6.「喜び」をもたらす新しいぶどう酒

画像の説明

聖書箇所; 使徒の働き2章12~13節、
マタイの福音書9章17節、ヨハネの福音書2章1~11節

はじめに

  • 聖霊の象徴としての「ぶどう酒」について瞑想してみたいと思います。聖書においては、「ぶどう酒」は人生の楽しみ、喜びを象徴しています。詩篇4篇8節では「人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます」(新共同訳)とあるように(新改訳では「穀物と新しいぶどう」)、「穀物としての小麦と新しいぶどう」がセットになって、それらが喜びを表わす象徴となっています。「穀物」は春の雨によって収穫されるものであり、「ふどう」は夏の乾季における露によって実り、収穫されるものです。いずれも収穫による喜びを表わす象徴と言えます。詩篇104篇15節にも「人の心を喜ばせるぶどう酒」とあります。
  • 特に「新しいぶどう酒」はメシアによってもたらされる喜びのしるしであり、御国における終末的祝宴を意味しています。イエスも弟子たちとの最後の晩餐の時に、「今からのち、神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを決して飲まないであろう」(ルカ22:18)と言われましたが、神の国の完成の折には永遠の喜びの象徴として「ぶどう酒」を共に飲むことが暗示されています。

1.「彼らは甘いぶどう酒に酔っている」(使徒の働き2:12~13)

  • 使徒の働き2章には聖霊に満たされた弟子たちの様子を見て、「彼らは甘いぶどう酒に酔っている」と言ってあざける人々もいたのです。聖霊に満たされた弟子たちの様子は、ある人々の目にはそのように見えたのです。使徒ペテロは「彼らは甘い(新しい)ぶどう酒に酔っているのだ」とあざける者に対しては、「今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは(甘いぶどう酒に)酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事なのです」と説明していますが、聖霊に満たされている者の姿が「ぶどう酒に酔っているように」見えたことも事実なのです。
  • ところで、「彼らは甘いぶどう酒に酔っている」とは軽蔑用語です。しかしそうした軽蔑用語がそのまま軽蔑された者たちのアイデンティティをもたらす用語となっていることがあります。例えば、同じく使徒の働きにおいて、アンテオケの主の弟子たちが初めて「キリスト者(Χριστιαvος)と呼ばれるようになった」(11:27)と記されていますが、「クリスティアノス」Χριστιαvοςとは「彼らがキリストの奴隷となっている」という軽蔑用語でした。他には、バビロン捕囚後のイスラエルの民は「ユダヤ人」と呼ばれるようになりました。これも「彼らはユダ族の末裔だ」という異邦人たちの軽蔑用語でした。
  • 聖霊に満たされることは、ある意味で「ぶどう酒」に酔っているかのように見られることがあるということです。主の弟子たちが「異言を語った」からそのように見えたわけではないと思います。なぜなら、弟子たちは五旬節の祭りに集まっていた人々のめいめいの国語で神の大いなるみわざを語ったからです。酔っぱらいのように舌がもつれていては、神の大きなみわざを語ることはできなかったはずです。思うに、弟子たちの喜びようが、人々をして「甘いぶどう酒に酔っている」かのように見えたのだと思います。聖霊による「喜び」と「ぶどう酒」が密接に結び付けられているのです。
  • 使徒パウロは「酒に酔ってはいけません。(そこには放蕩があるからです。) 聖霊に満たされなさい。」と言っています(エペソ5:18)この箇所は「パラレリズム」です。「パラレリズム」とは、ある事柄を別のことばで重ねて表現するユダヤ特有の修辞法で、詩篇など知恵文学で多く見られます。パウロはユダヤ人でした。当然そうした「パラレリズム」を意識して使っていると考えられます。ここでは、「パラレリズム」の三つの型(同義型、反意型、総合型)のうちの「反意型」が使われています。その型で考えると、ここは「酒に酔ってはいけません。・・むしろ聖霊に酔いなさい。」となります。つまりここでは「聖霊に酔いなさい」ということを、「聖霊に満たされなさい」と表現を変えているだけで、聖霊という酒に酔うことも、聖霊に満たされることも実は同義だということになります。聖霊に酔うことも、聖霊に満たされることも、実は「喜びにあふれること」を意味していると言えます。()脚注
  • 「イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた」(ルカ10:21)という表現があります。ここでの喜びとは、弟子たちの名が天に書き記されていることの喜びです。目に見える働きに喜んでいた弟子たちに、イエスはそういうことで喜んでいけない、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさいと言われました。「天に名が書き示されるという喜び」は存在論的な喜びです。自分という存在が神によって愛され、完全に受け入れられていることからもたらされる喜びです。この喜びこそ聖霊によるものだと言えます。イエス自身がいつもこの喜びに満たされていたからです。存在論的な喜びは御霊のもたらす結実の一つです。
  • ネヘミヤ記8:10には「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(口語訳)とあります。「笑い」はパフォーマンスできますが、「喜び」はパフォーマンスできません。「喜びはひとつの力」なのです。ペンテコステにおける初代教会は、この「喜ぶ力」を神からの賜物として上から注がれたのです。

2. 新しいぶどう酒の発酵力 (マタイの福音書9:17)

  • マタイ9:14~17に、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、当時の習慣であった断食をしないことに疑問を感じて「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのか」と質問しました。そのことについてイエスは三つのたとえを用いて答えられましたが、その最後のたとえは次のようでした。「人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(マタイ9:17)
  • 新しいぶどう酒(甘いぶどう酒)は、非常に発酵力が強いため弾力性のある柔軟な革袋に入れる必要があります。もし新しいぶどう酒を古い硬くなった(弾力性のない)革袋に入れるなら、古い革袋は破れて折角の新しいぶどう酒は台無しになってしまいます。これは聖霊の力がもたらす主にある喜びのゆえに、古い形式や、生活スタイルでは、その内的なエネルギーの放出に耐えることができないということです。「聖霊による喜び」、「内なる喜び」を抑えることはできません。ぶどう酒を入れる皮袋が古く硬くなっているしるしは、喜びが薄れていることです。人が良かれと思って作った組織や制度や考え方(神学)が固定化して融通が効かなくなり、喜びの霊が自由に働くことができなったりします。そのために新しいぶどう酒には新しい皮袋が必要となってくるのです。
  • 御霊の新しいぶどう酒に象徴されるあふれる喜びの力は、固くなった様々な宗教的な形式を打ち破るほどの生ける力をもっているのです。御子イエス・キリストの聖霊による喜びは当時のサドカイ派やパリサイ人たちの宗教的要塞を打ち破る力をもっていました。その神的な生ける力に対する恐れのゆえに、イエスは彼らから拒絶され、殺されたのです。
  • 生ける喜びの力は人間が作り出すことができません。それゆえの「ねたみ」によってイエスが十字架につけられたことをマルコ福音書は記しています(15:10)。

3. カナの婚礼における良いぶどう酒 (ヨハネの福音書2:1~11)

  • ヨハネ福音書の2章1~11節には婚礼の喜ばしい日に肝心のぶどう酒がなくなるという事態が起こったこと、そしてイエスが「水をぶどう酒に変えた」ことが記されています。ヨハネはイエスが行ったこの出来事を「奇蹟」としないで、「しるし」としています。「しるし」とは、奇蹟の出来事を通して、隠れた深いところにある大切な真理を指し示そうとする「サイン」を意味します。
  • 人生の大切な節目としての婚礼において大切なことは「喜び」です。天における祝宴の顕著な特徴は「喜び」です。婚礼を迎えた家にはユダヤ教のしきたりによって、きよめのための水がめが六つ置かれてありました。しかしそれは婚礼を祝うためには何の役にも立たないものでした。イエスはそのきよめの水を用いてぶどう酒に変えたのでした。しかもこのぶどう酒は料理人も証言していますが、まことに「良いぶどう酒」でした。
  • 「良いぶどう酒」、当時の習慣では「はじめに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだ頃になると、悪いものを出す」のが通例のようでした。ところがイエスの差し出す「良いぶどう酒」は反対でした。「喜び」は時とともに薄れていくのがこの世の常です。しかし神の国(天国)では、ぶどう酒に象徴される「喜び」は、質においてますます良い物となっていくぱかりか、範囲においては限りなく無限に増大していくのです。ですから天国の礼拝においてはいつも大きな叫びがわき起こっているのです。その大きな叫びとは、神の愛に対する驚きであり、喜びの賛美の叫びなのです。

おわりに

メゴサレ
  • 「新しいぶどう酒」によって象徴される聖霊による「あふれる喜び」、それは今、私たちの日々の歩みにおいて味わうことが出来ます。しかしやがて訪れる天の御国の婚礼においては、その味わいはより無限大に広がります。ルカによれば、キリストの初臨は「すばらしい喜び」の出来事でした。しかしキリストの再臨はさらなる「喜び」にあふれることでしょう。なぜなら「良いぶどう酒」は後に取って置かれているからです。そのような聖霊による「喜び」を備えてくださった三位一体なる神に、賛美と誉れと栄光が世々限りなくありますように。

()脚注
「聖霊に満たされる」ということばは、単に「喜びにあふれる」ということだけを意味しませんが、この箇所に限っては、「酒に酔ってはなりません」という反意として「御霊に酔いなさい」との勧めと見なして良いと考えます。

E.H.Peterson;The Message new testamentでは、エペソ5:18を次のように訳しています。
Don't drink too much wine. That cheapens your life.
Drink the Spirit of God, huge draughts of him.
「飲む」ということばをパラレリズムのキーワードとして解釈し、「神の御霊を飲みなさい。しかも一気飲みで」ということでしょうか。ある集中したみことばの瞑想(祈りと賛美)を意味しているかもしれません。



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