****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「世とは異なる王の憲章」

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11. 「世とは異なる王の憲章」

聖書箇所 17:1~18:22

はじめに

  • No.11の範囲の中で取り上げたいトピックは、他の所にはみられない「王の資格」について記されている箇所です。申命記17:14~20を取り上げます。そこにはこの世の常識とは全く異なる王となるべき者の条件が明記されています。もしイスラエルの歴史において、王なる者がこの申命記に記されているとおりに歩んだならば、決して亡国の憂き目を経験することはなかったと言えます。しかしその非劇は実際に起こってしまったことを私たちは知っています。
  • イスラエルの民が約束の地において、「聖なる民」であることを揺るがす「二つの危機」が訪れることをだれよりも知っていたのは神ご自身でした。ですから神は、モーセを通して、民にその危機に備えさせようとして語りました。その第一の危機は、「土地取得による危機」です。これは豊かさのゆえに、異邦の民のように、神がいなくても、祈らなくてもやっていけるという思いであり、それはおのずと偶像礼拝をもたらしかねない誘惑でした。その危機は士師記から列王記全般にわたる問題でした。
  • 第二の危機は、「王制導入の危機」です。周囲の国々の脅威に対する恐れから、神の民が「他のすべての国民と同じく、人間の王を立てたい」という強力なリーダーシッブに対する渇望が起こってくるということを神はご存じでした。しかし王制を導入することは、やがてイスラエルの信仰と社会構造を全体的に変えてしまう懸念がありました。それは「主なる神こそイスラエルの王」であるという信仰が希薄化し、神に信頼するよりも、目に見える人間に頼ろうとする懸念があったからです。また、王が国を私物化する懸念がありました。もしそうなれば、民は王の圧制に苦しみ、再び、王の奴隷となりかねないという危険をはらんでいたのです。こうした危機に神は備えさせるために、預言的に、リーダーに関する規定を定めました。それが申命記17:14~20の箇所です。しかし、そこにある原則は今日の教会に立てられている様々なリーダーたちが心しなければならないものだと信じます。

1. 神の定めた王の憲章

  • 申命記17:14~20に記されているイスラエルの王の憲章は、他国の王とは全く異なる憲章です。以下、この世と異なる、神が示す王(指導者)の憲章とは、

(1) 私物化の禁止
申命記17:14~20の箇所に繰り返し出て来るのは、「自分のために・・してはならない」(16, 17,18,というフレーズです。このフレーズはたとえ神の選ぶ王(指導者)であったとしても、それはあくまでも神の代理者にすぎないということを強調しています。他国の王であるならば、「自分のしたいようにする」のが常道です。しかしイスラエルの王はそのような専制君主的な存在となることは認められませんでした。

(2) 軍馬増強の禁止
軍馬は強さのシンボルです。軍事力を増強するために、それをエジプトに求めてはならない(当時、エジプトは馬の産出国でした)ということです。つまり、イスラエルは神の力をあかしするために、あくまでも「弱くなければならなかった」のです。神が選び、神が立てた王は、神の力を信じて武力の強さを求めてはならなかったのです。

  • 神を信頼して生きる道は、人間的に見るならば常に不安定な道であり、リスクを伴う道なのです。敵の戦車の一隊が目の前に迫った時、果たして神を信頼するだけでいいのかという疑問が頭をかすめます。しかし、神の言われることが真実である出来事はイスラエルの歴史の中に繰り返し起こっています。
  • シセラに率いられたカナン軍に対するイスラエルの戦いを例をみてみよう(士師記4~5章)。カナン軍は進歩した装備を持ち、「鉄の戦車九百両」を有した軍隊を職業軍人が率いていました。しかしそれとは対照的に、イスラエルには戦車はなく、率いていたのは武器さえもたない女性デボラと心の弱いバラクという指揮官であった。そして戦いは起こった。カナン軍のシセラはすべての戦車とその強力な軍勢を集結させて戦いの用意を整えた。ところが主が介入された。川の水があふれ、土手は破られ、戦車の車輪が動かなくなり、シセラと兵士たちは徒歩で逃げなければならなかった。まさに戦いが始まろうとする時、雨が降り、強力で殺傷力のある敵の戦車は全く使い物にならなかったです。イスラエルはあわてふためく敵を追撃し、戦いに終止符が打たれた。こんな戦いをだれが想像しえたでしょうか。こうした信仰の戦いがイスラエルに求められたのです。リーダに求められたのはこの徹底的な神への依存なのです。

(3) 他国との同盟関係の禁止
聖書には、他国との同盟関係を結ぶという表現はありません。しかし、王が「多くの妻を持ってはならない。それに心をそらせてはならない。」(17節)という表現は、王が多くの他国との同盟関係のあかしとして政略結婚をすることを禁じたことばです。事実、ソロモンは多くの妻をもち、そばめを持っていましたが、それは神によって政治を行なうということではなく、同盟関係を結ぶことによって平和を築き、それによって繁栄を築いてこうする政治的意図がありました。そしてそれは成功していきますが、同時に、迎え入れた妻たちの信仰によって、偶像礼拝が持ち込まれてしまいます。

  • 17節は「多くの妻をもってはならない」という規定と、「金銀を多くふやしてはならない」という規定とが結びついています。つまり、多くの妻を持つことで、他国と同盟関係を結び、その結果、富を得て繁栄を手にします。しかしその代償として、偶像礼拝が当然のごとく導入され、イスラエルは神の聖を喪失する結果となり、そのために、国を失い、神殿を失い、指導者としての王を失うことになったのです。このことは、申命記に記されている「王の規定」が正しかったことを証明しています。

(4) 律法の遵守
イスラエルの王はあくまでも神の代理者でしかありませんでした。したがって王はその務めを果たすために、神の律法を自分の手とに置き、一生の間それを読まなければなりませんでした。申命記はその理由をこう記しています。「それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることのないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。」(20節)と。ソロモン王以降、2, 3の王を除いて、多くの王がこれらの神の定めた規定から逸脱し、国を滅びへと向かわせました。

2. 詩119篇とのかかわり

  • 詩篇119篇の作者は、神の定めた規定から逸脱することがどんなに愚かなことであるかを、歴史的現実の痛みの中から想起しています。そして、バビロン捕囚の苦しみと辱しめの経験を踏まえて、「苦しみに会ったことは、私(集合人格としての私と理解することができます)にとってしあわせ(良いこと)でした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたのおきては、私にとって、幾千の金銀にまさるものです。」(71~72節)と結論づけています。そして作者は、神のトーラーで語られていたことがひとつも間違いなかったことを発見しただけでなく、それを真剣に学び、神の民としての土台をそれによって再建しようとしたのです。その取り組みの心情が詩篇119篇の中に繰り返し、表現を変えながら、告白されているのです。
  • 作者は、異国において神への信仰を自己表現し、それをライフスタイルの中に真剣に取り入れようとすればするほど、新たな苦しみを余儀なくされます。たとえば、安息日を聖として守ろうとすることや、食物規定を守ろうとすれば、当然、理解されず、周りの異教徒たちから憎まれ、迫害され、いじめられます。「私はひどく悩んでいます」(119:107)。「私は、いつもいのちがけでいなければなりません」(119:109)。「悪者は私に対してわなを設けました」(119:110)などは、そうした現実を物語っています。「しかし、私は」・・・「あなたのみおしえを忘れません」、「迷い出ません」、「あなたのおきてを行なうことに心を傾けます」(同、109, 110, 112節)との強い意志をもって、神に従う決意を告白しています。そうした戦いを支えたのは、ひとえに、神のトーラーこそ神からの永遠の嗣業として与えられたものであることを見出したからでした。
  • 今日に生きる私たちも、単に、神に愛され、神に選ばれたことだけで満足することなく、神のことばが与えられていることの重大さを悟り、それを喜びとし、いつもそれに学び、神の深いみこころを知る歩みをしなければなりません。たとえば、ユダヤ人たちの安息日は、食事の時でもトーラー以外の話しは禁物です。その日は神のトーラーに思いを寄せ、互いに問いを投げかけ、みなで真剣に考える日として過ごしているのです。それに比べ、現代のキリスト者の礼拝後の過ごし方、食事時の話題等を思う時、真剣さにおいてなんとほど遠いことかと考えてしまいます。詩篇119篇の作者の生きた運命共同体は、今日の私たちに大切な「何か」を問いかけてはいないでしょうか。思いは巡ります・・。


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