****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「ダビデの」「ダビデによる」という表題が意味するものを知る

21. 「ダビデの」「ダビデによる」という表題が意味するものを知る


  • 詩篇の表題が「ダビデの・・」「ダビデによる」となっているものが73あります。実に詩篇全体の半数に及びます。「ダビデの」「ダビデによる」とは、文字通りダビデ自身の作であると理解し得るとともに、文法的に「ダビデに献呈された」「ダビデについての」「ダビデを偲んで」「ダビデの指示によって」とも理解されます。新約聖書において詩篇が引用されるときには、当然、ダビデの作であるという自明の前提に立って引用されています。驚かされるのは、なにゆえに、詩篇の多くに「ダビデによる」「ダビデの・・」といった表題をつける必要があったのか、ということです。
  • その根拠として、ダビデ自身が音楽歌であり、詩人であったということが上げられますが、明らかに捕囚時代以降に作られたと考えられる詩篇でも「ダビデによる」とあるのです。思うに、その根拠は、ダビデが人生のさまざまな苦難を経験し、それによって人間性の深みと神を恐れることを経験したこと、さらに彼は礼拝者としてのあらゆる時代のモデルであり、イエス・キリストを指向している存在であることが考えられます。とすれば、私たちはもっとダビデという人がどういう人物であったのかを知る必要があります。
  • 王としてのダビデ、夫としてダビデ、父親としてダビデ、戦いの勇士としてダビデ、神の代理者としての政治家のダビデ、音楽家としてのダビデ、詩人としてのダビデ等、いろいろなダビデの面があったにせよ、結局のところは<礼拝者としてのダビデ>、これこそダビデを不滅の存在とした理由ではないかと思います。ダビデ自身が作ったものではなくても、ダビデとしているは、そこにダビデの霊性が色濃く流れているからです。
  • 彼の人生は決して完璧なものではなかったものの、不変の愛で神から愛されながら、自らも神に飢え渇き、神を追い求めた姿はいつの時代の礼拝者にとっても模範となるべき、あこがれの存在です。私たちは、もっとダビデから学びながら、礼拝者としてふさわしく整えられる者でありたいと思います。

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