****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「どうして」、「公平なさばき」

文字サイズ:

1. 「どうして」、「神のさばきの公平さ」

【聖書箇所】1章1~46節

1.「どうして」

  • 申命記1~3章は荒野における40年間を回顧している部分ですが、その最初の章において特徴的なことばがあります。それは、1:12にある「どうして」ということばです。「私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう」とあります。これは、「あなたがた」、すなわち、常に「もめごとと重荷と争いを生じさせる民」を率いていかなければならない指導者としての苦悩を表わすことばです。
  • 「どうして」と訳された原語は、「エーハー」(אֵיכָה)〔脚注〕で、哀歌では4度も「ああ」(後藤訳「悲しいことに」)という訳で使われています。「ああ」「悲しいことに」「どうして」こういうことになってしまうのか、あるいは、なってしまったのか、その悲惨な状況をもたらした要因に対する嘆きを表わす言葉です。
  • ユダヤ教の会堂においては、申命記のこの箇所が読まれる次の安息日に、エルサレムの神殿崩壊を嘆く哀歌(LXX訳は「エレミヤ哀歌」)が読まれると言います。哀歌の冒頭の言葉は、実に「ああ」「エーハー」(אֵיכָה)です。イスラエルの歴史における最も大きな災難であるエルサレムの神殿崩壊、亡国の憂き目に直面し、単に、嘆くばかりでなく、「どうしてこの災難がふりかかってきたのか」、それを究明することこそバビロン捕囚という神のお取り扱いでした。申命記においても同様、イスラエルの民が約束の地まで11日という道のりに、どうして40年間も荒野で費やさなければならなかったのか、それをモーセはイスラエルの民、つまり、次世代の者たちに教える必要があったのです。
  • イスラエルの民たちの不信仰と不従順は、指導者であるモーセを悩ませただけでなく、それが原因で約束の地に入るという夢さえも神から拒絶させられるという、傷心と挫折感をモーセにもたらしました(申命記3:23~27)。イスラエルの民たちは「人がその子を抱くように、あなたの神、主があなたを抱かれた」(1:31)という神の限りない愛といつくしみを受けたにもかかわらず、それに対して誠実に応えることをしませんでした。それゆえ40年という荒野の生活を余儀なくされたのです。そして、第一世代の者たちがみな(ヨシュアとカレブを除いて)約束の地を見ることができないというさばきを、自ら招きました。それゆえモーセは、約束の地に入る次世代の者たちに、再度「主がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げ」(1:3)なければなりませんでした。それがモーセの訣別説教「申命記」(「デヴァーリーム」דְּבָרִים)です。

2. 神の統治理念としての公平な「さばき」

  • 申命記第1章において注目すべきもうひとつのキーワードは、神のさばきの「公正さ」です。モーセは民のもめごとと重荷と争いをさばくために、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々の中からリーダーを選ばせました。その時、モーセがそのリーダーたちに命じて語ったことは、「さばきは神のものであるから、正しくさばかなければならない」ということでした。17節にはこう記されています。「さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。さばきは神のものである。」
  • ここには神の知恵、神の公平なさばきについて示されています。これは非常に重要な教えです。なぜなら、人がさばきをするとき、人を偏ってみやすいこと、印象も相手の地位や富によって左右されやすいこと、また人を恐れやすい者であるという現実があるからです。そのために、神の律法では2, 3人の証人によって明白に立証された事実に基づかなければ判断してはならないことが規定されています。その規定によって、一方の情報だけで性急に判断を下すことを回避することができます。なんとすばらしい神の知恵に基づく「さばき」(ミシュパート)でしょうか。私たちが常に神を自分たちの前に置くならば、私たちの周囲に起こるすべてのことにおいて、忍耐深く、そしてへりくだって、導きと知恵を神に求めるようにさせられるのです。
  • 神の「さばき」(「ミシュパート」מִשְׁפָּט)は、神の統治とその理念、支配、主権、父性的訓練(懲罰も含む)、計画、導きなどを表わしています。その統治の在り方は決して専制君主のようではなく、驚くべき愛に満ちた福祉理念に基づいています。まさにイスラエルの民はこのような神の統治理念を世に対して証しすることが求められたのです。
  • 旧約で名詞の「ミシュパート」使用頻度は421回です。詩篇119篇の作者は神の「さばき」(ミシュパート)を23回使っています(ただし、ヘブル語のコンコルダンスがなければ調べられません)。その中からいくつかを紹介します。以下のように告白しています。

詩 119:7
「あなたの義のさばきを学ぶとき、私は直ぐな心であなたに感謝します。」
詩 119:20
「私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。」
詩 119:30
「私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。」
詩 119:39
「私が恐れているそしりを取り去ってください。あなたのさばきはすぐれて良いからです。」
詩 119:62
「真夜中に、私は起きて、あなたの正しいさばきについて感謝します。」
詩119:75
「主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。」
詩 119:164
「あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。」


脚注〕
「エーハー」אֵיכָהは旧約で17回。申命記には5回(1:12/7:17/12:30/18:21/32:30)、哀歌では4回(1:1/2:1/4:1/4:2)。


a:9689 t:2 y:2

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional