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「しるし」と「象徴」の違いについて

序  「しるし」と「象徴」の違いについて 

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  • 聖書では、あることを伝達するための手段として「しるし」や「象徴」を用いています。前者の例としては、預言者イザヤが当時の王アハズに対して、「主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる」と述べ、処女が身ごもって男の子を産んだなら、それが「インマヌエル」(神がともにおられる)のしるしだと語ります(イザヤ7章14節)。そしてそれが成就します(マタイ1章18~25節)。他にも、御使が喜びの知らせを伝えるために羊飼いたちのところに現われます。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのためのしるしです。」(ルカ2章11節)
  • 野球で監督やコーチが選手にある指示を伝達するときにサインを送ります。同様に、神も私たちにサインを送るのです。「処女が身ごもって男の子を産む」ような出来事が起ったなら、あるいは、布にくるまって飼葉おけに寝ているみどりごを見たなら、それが神が遣わした救い主なのだという「しるし」、つまり「サイン」だということです。
  • 神のサインは視覚で確認できる出来事(圧倒的にこれが多い)であったり、あるいは聴覚で確認できる音であったりします(サムエル第二5章24節)。イエスはしばしば人々にしるしと不思議なわざによって、自分が神から遣わされて者であることをあかししました。
  • 一方、「象徴」は、「しるし」とは異なり、ある深い隠された真理を伝えるために用いられるものです。聖霊なる方を「鳩」「風」「息」「雨」「露」「酒」「油」「火」などで表わされます。この世にある自然のものによってイメージさせます。ある実体に隠されているものを指し示すための象徴的表現が必要なのです。象徴となるもの自体が問題ではなく、象徴自体が指し示しているところの重要ななにかを、隠された真理を伝えようとしているのです。
  • たとえば、有名な詩篇23篇には「主は私の羊飼い。私は乏しいことはありません。主は私をみどりの牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」とあります。「羊飼い」ということば、「みどりの牧場に伏させる」、「いこいの水のほとりに伴われる」と言った表現は、神の愛と恵みの豊かさを表わす象徴的表現です。目に見える「みどりの牧場」「水のほとり」それ自体が重要なのではなく、それが指し示すもの、それがイメージさせる目に見えない何かが重要なのです。
  • 使徒パウロも「私たちは、見えるものではなく、見えないものにこそ目を留めます。」と言いました。なぜなら、大切なものは目に見えないからです。
  • 使徒パウロはイエス・キリストの救いを受けてから、キリストの福音を宣べ伝える者と変えられますが、その彼の生涯には「ある夜」という三つの夜があったことをルカは「使徒の働き」に記してています。それは「昼」の反対としての「夜」という意味ではなく、「ある夜」と表現される目に見えない特別な「夜」を意味します。いわばパウロの人生の節目となるような特別な「夜」であり、象徴的な意味を持った夜なのです。行き詰まりの状態を指し示す「夜」、恐れと不安の中にある「夜」、将来のヴィジョンと励ましを与えられた「夜」に、パウロは主の幻や語りかけを経験したのです。
  • 今回の待降節の瞑想で取り上げる象徴は、特に、マタイの福音書のイエスの誕生にまつわる箇所に登場するものです。「14」という数字、「夢」、「星」、「光」、そして「東」です。これらの象徴的表現を通してなにが見えてくるのか、それを瞑想することによって探り求めて、神の隠された救いの計画のすばらしさを再発見する試みです。特に、象徴による瞑想は直感的であることが求められます。

2011.11.28


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