七つのともし火皿が燭台の前方を照らす
【聖書順索引】
51. 七つのともし火皿が燭台の前方を照らすように
【聖書箇所】 民数記8章2節
【読み】
ベハァローテハー エット ハネーロート エル ムール ペネー ハメノーラー ヤーイール シヴアット ハルーロート
【文法】
【翻訳】
【新改訳改訂3】
「あなたがともしび皿を上げるときは、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい。」
【口語訳】
「『あなたがともし火をともす時は、七つのともし火で燭台の前方を照すようにしなさい』」。
【新共同訳】
あなたがともし火皿を載せるとき、七つのともし火皿が燭台の前方を照らすようにしなさい。
【NKJV】
"Speak to Aaron, and say to him, 'When you arrange the lamps, the seven lamps shall give light in front of the lampstand.' "
【瞑想】
このフレーズは大祭司アロンに告げられたことばです。
「ともしび皿を上げるとき」と新改訳は訳していますが、口語訳では「ともし火をともすとき」と訳しています。つまり、点火することを意味しています。その際、光が燭台の前を照らすようにしなさいというのが、神の指示でした。燭台(「メノーラー」מְּנוֹרָה)の前を照らすとは、聖所の中にあるパンを載せる「机」、「垂れ幕」、垂れ幕の前に置かれている「香壇」を照らすということです。したがってそのような位置に燭台が設置しなければなりません。モーセの幕屋にあったメノーラーは、今日、私たちが模型で見るようなものではなかったと思います。私たちが目にするメノーラーは、ロウソクを取り付けられるようになっており、形も筒状になっています。そもそもモーセの時代のメノーラーは、祭司だけしか見ることはできなかったはずですから、だれにもその本当の形は分かりません。それはすべて金でできた塊を打ちたたいて造られたものであり、台座があり、それに七つの枝があって、それぞれの一番上にともしび皿があるという形状です。
「ともしび皿」には純粋なオリーブ油と芯があって、そこに点火するようになっていました。出エジプト記27章20~21節によれば、その上質の純粋なオリーブ油はイスラエルの民の自発的なささげものによるものでした。アロンとその子らは、夕方から朝まで、主の前にともしびを整える責任がありました。
民数記8章1~4節で重要なことは、火の光が聖所の中を照らすということです。その後で祭司が奉仕できる手順が述べられているのですが、その両者がどうのような関係にあるかが重要なのです。
幕屋の存在自体の目的は、神と人とが親しく交わるためのものです。しかし人が神との交わりを楽しむためには、神の光によってのみ可能であるということです。聖所の中は自然の光は入りません。メノーラーの光だけがそこにあるものを照らしているのです。
「ともしび皿」、あるいは燭台(メノーラー)それ自体がキリストを表わす象徴です。またその中にある油は聖霊の象徴です。それによって照らされる聖所の中にあるすべてのもの(机、香壇、垂れ幕)もキリストを照らしています。尤も、キリストを指し示す光は油と祭壇の火がなければ灯すことができません。燭台の光によってはじめてキリストが啓示されるのです。神と人とに仕えるレビ人はこのことをよく知っていなければなりませんでした。レビ人の奉仕はこのともしび皿に灯る光のもとに常に位置していなければなりませんでした。ましてや、自分の働きや自分に注目させることはキリストの御名を汚すことになるのです
神の光がなければ祭司の働きは無益なのです。同様に、神の祭司的な働きを担うすべての奉仕者も、神の光がなくては無用の存在と言えます。使徒パウロはユダヤ教の律法学者としては有能な人物でしたが、神からの(上からの)光がなかったために、主を迫害したのです。しかし彼は、ダマスコ途上において、「天(=神)からの光」に照らされて、はじめて霊の目が開かれ、神の働きをする者へと変えられたのでした。
マタイの福音書25章のたとえ話にある「花婿を出迎える賢い娘たち」のように、ともしびを持つだけでなく、それが消えることがないように、目をさまして、いつも油を用意しておく者となりたいものです。
2013.4.5
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