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Ps94の「かかわりの構造」

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  • 詩篇94篇の「かかわりの構造」は、「私」という存在が「復讐の神」に向って一方的に嘆願しています。途中に、「主は見ることはない、ヤコブの神は気づかない。」と言っている神に敵対する者たちに対して「気づけ」と呼びかけている部分(8~11節)もありますが、重要な点は、神に正しいさばきを訴えている「私」の神に対する信仰に注目すべきです。
  • 「復讐の神」(エル・ネカーモート)という表現は詩篇ではここ94篇だけです。それは「正義をもってさばきを行われる神」という意味です。
  • 詩篇93篇では「聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。」と告白されましたが、その「聖なること」が、神のさばきにおいもふさわしいことがこの94篇で扱われていると言ってもよいかと思います。つまり、神のさばきは私たちが思い、考えるようなかたちではなされないといことです。詩篇94篇の「私」という存在は、神の正義がなされていない地的現実の中に置かれています。その地的現実を神に訴えています(3~6節)。
  • 不条理な地的現実の中にありながら、「主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜るからです。・・・まことに、主は、ご自分の民を、お見捨てにはなりません。さばきは再び義に戻り、心の直ぐな人はみな、これに従うでしょう。」(12~15節)とあります。これは「私」という存在が語っているようにも見えますし、あるいは「人称なき存在」が語っているようにも見えます。ここでは後者として受け止めました。
  • 詩篇ではしばしば、「幸いなことよ」とか、「なんと幸いでしょう」と語っているのは、「人称なき存在」であることが多いようです。この「人称なき存在」は、人に悟りを与え、神に対する信仰を建て上げていく存在です。「人称なき存在」は旧約において、新約で明らかにされる「御霊」のことです。
  • 不条理な地的現実において、たとえ、自分の足がよろけ、自分の心のうちに思い煩いが増すときにも、主の恵みが自分を支え、主の慰めが自分のたましいを喜ばしてくれることを嘆願しています。

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  • 21節の「彼らは、正しい者のいのちを求めて共に集まり、罪に定めて、罪を犯さない人の血を流します。」とありますが、ここにある「正しい者、罪を犯さない人」とは御子イエスに当てはまります。

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