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Ps64の「かかわりの構造」

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Ps64a

  • 詩篇64篇のかかわりの特徴は、「私」と「神」、「敵」の他に、「私」と連帯する存在である「正しい人」、「心のすぐな人」、「彼ら(敵)を見る者」の存在、そして不特定多数である「すべての人」がいることです。
  • 「私」は「恐るべき敵」に対して立ち向かうことのできない弱い存在です。ですから、「神」の守りを求めています。敵は「悪を行なう者ども」、「不法を行なう者ら」であり、苦いことばの矢を隠れたところから「全き人」に向けて放ち、巧妙に罠を仕掛けます。ここでの「全き人」とは「私」と同義です。
  • しかし、これに対して「神」も不意に敵に対して矢を射掛けます(7節)。それゆえ敵は不意に傷つきます。自滅の原則がこの詩篇にあります。
  • 9節の「こうして」という接続詞は新改訳しかあません。口語訳では「その時」と訳しています。原文では「そして恐れ・・そして告げ・・そして悟る」となっています。ですから、新改訳の「こうして」というのは一つの解釈となっており、この詩篇の結論的部分へと導くように訳されています。
  • 私も9節、10節がこの詩篇の結論だと考えます。敵の射掛けた矢にもまして、神の射掛け矢は十分に敵を自滅へと追い込むことができます。しかし、そのことを恐れ、そのことを告げ知らせ、そのことを悟ることがいつの時代においても重要です。だれがこのことを語っているのかといえば、「私」という存在とも考えられますが、ここでは、詩篇の中に隠れている「人称なき存在」であろうと考えます。以下のように、「こうして」の前の部分の神のみわざが、ひとつの悟りの知恵として語っているからです。
  • 「9こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。10正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、(主にあって)誇ることができましょう。」
  • 詩篇64篇に見るかかわりの構造は、以下のように、そのまま新約時代の御子イエスとその敵においても当てはまります。特に、4節にある単数で表わされた「全き人」(新改訳、文語訳)、「無垢な人」(新共同訳)、「罪なき者」(口語訳、関根訳)・・は、御子イエスにおいて完全に当てはまります。

Ps64b

  • 御子イエスは敵によって、数々のことばの矢を射掛けられますが、その都度、御子イエスは彼らに対して逆に矢を射掛けられました。しかし、そのクラスマックスは十字架と復活の出来事です。敵であるサタンは十字架によって御子を滅ぼそうと矢を射掛けましたが、御父は御子を死からよみがえらせることによって敵に対して矢を射掛け、敵の最強の武器である死という牙を折られました。
  • やがて将来、必ずや、「偽キリスト」(『荒らす憎むべき者』)、自分こそ神であると宣言する「不法の人」(テサロニケ第二、2:3, 4)が台頭する時代が到来します。彼はエルサレムの神殿に立ちます。7年間のうちの前半の3年半、彼はまず平和をもたらす存在して自らを現わしますが、その後の3年半は、真の姿を顕わにします。つまり、自分を神として礼拝しない者はすべて殺すという、神の民にとっては大患難をもたらす時代となります。人を騙し、不意に矢を射掛けるのです。しかしそのとき、不意にキリストが再臨し、偽キリストとそれに従う者たちはすべて滅ぼされます。まさに、詩篇64篇にある9節、10節の御霊の声が実現するのです。

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