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Ps127その他

詩篇127篇4節と5節の解釈

  • ここでは5節(新共同訳は6節)の訳と解釈について考えます。

1. 「ダーヴァル」の同音異義

【新改訳改訂第3版】詩 127:5
幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。
彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。

【口語訳】
矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。
彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。

【新共同訳】
いかに幸いなことか/矢筒をこの矢で満たす人は。
町の門で敵と論争するときも/恥をこうむることはない。

【岩波訳】
幸いだ、おのが矢筒を彼らで満たした男。
敵どもを門で撃退するとき、彼らは恥をかかない。

【関根訳】 
その箙(えびら)に矢を満たし得たその人に幸あれ。
彼らは門でその敵を押し返す時に恥を受けることはない

  • この節には、二通りの訳があることが分かります。青色で示した訳と黄色で示した訳とでは、意味が異なります。なぜ二通りの解釈で訳されているのか言えば、動詞の「ダーヴァル」דָּבַרの意味にあります。「ダーヴァル」は本来、「話す、語る、宣言する、命じる、約束する」という意味ですが、同語根でもう一つの意味があります。つまり、同音異義です。
  • 古代訳以来、127:5の後半を「敵どもと門で語る」と訳し、町の門での(申命記21:19等)裁判論争のことと解釈されて来ましたが、息子たちの存在(人数)が論争に有利だというのはおかしいという理由で、岩波訳と関根訳では「ダーヴァル」のもう一つの意味である「撃退する、押し返す」を採用しています。歴代誌下22:10では「~の支配から脱する」、詩篇18:47, 47:3では「~を従わせる」と訳されています。
  • 詩篇127:5後半の構文は、直訳では「彼らは恥を見ることがない(かかない)」あり、その後に「なぜなら~だから」を意味する接続詞の「キー」כִּי־が置かれています。

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2. 「矢」のたとえ

(1) 主の勝利の矢

  • 列王記下の23章14~19節の「主の勝利の矢」については、以下を参照
  • 「矢筒の中に矢を満たしている」人が幸いだという理由が「(敵を)撃退したり、押し返したり、屈伏されたりする」ためには、そうなるための責任(賜物賦与の課題)がその人にはあるはずである。その責任とは何でしょうか。それは、単に、矢筒に矢を満たしていることが重要なのではなく、その矢が矢として射られるときにこそ、敵に対する強力な武器とならなければならない。矢を「射る」人は、あくまでも「矢筒の中に矢を満たしている」人であるが、「射る」ということが想定されていなければならない。「射る」のヘブル語動詞は「ヤーラー」יָרָהです。その名詞形は「トーラー」תוֹרָה、すなわち「神の教え」を意味します。矢筒の中に矢を満たしている人はその矢を神の教えによって整える課題が与えられているのです。祝福を神から「多く与えられている者は多く要求される」という原則があることを忘れてはならないのです。

(2) 「とぎすました矢」

  • イザヤ書49章1~6節の「しもべの歌」(第二)の中の2節に、「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した」とあります。主のしもべのかかわりを描くその中てへ、主はしもべを「とぎすました矢」として矢筒の中に彼を隠したとあります。これは御父と御子とのかかわりにおいても言えることです。御父がお遣わしになった御子は、神のことばを話されました。それは神が御霊を無限に与えられたからだとヨハネは語っています(ヨハネの福音書3章34節)。ここでは「矢筒」が御父です。そして「矢」が御子、「すぎすます」働きをするのは御霊として考えることができます。
  • イザヤ書49章1~6節の「しもべの歌」(第二)の中の2節に、「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した」とあります。主のしもべのかかわりを描くその中てへ、主はしもべを「とぎすました矢」として矢筒の中に彼を隠したとあります。これは御父と御子とのかかわりにおいても言えることです。御父がお遣わしになった御子は、神のことばを話されました。それは神が御霊を無限に与えられたからだとヨハネは語っています(ヨハネの福音書3章34節)。ここでは「矢筒」が御父です。そして「矢」が御子、「とぎすます」働きをするのは御霊と考えることができます。
  • 「とぎすます」と訳されたヘブル語は「バーラル」בָּרַרですが、ここでも同形(同音)異義です。つまり、「バーラル」בָּרַרの本来的な意味は「清める、選ぶ、試験する、試みる」ですが、イザヤ49章2節の「バーラル」בָּרַרは「とがらせる、鋭くする、(矢を)とぐ」という意味です。

(3) 神の懲罰的さばきとしての「矢筒の矢」

  • 哀歌3章12~13節に、「主は弓を張り、私を矢の的のようにし、矢筒の矢を、私の腎臓に射込んだ。」とあります。どんなに逃げまどっても、神からの矢を射られて腎臓を射抜かれ、苦悩と苦汁を飲ませられるのです。結果的には、そのことによって神の民は心底から神を求めるようにされたのです。

2013.1.4


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