****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

3章24節


創世記3章24節

【新改訳2017】

こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、 ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。

【聖書協会共同訳】

神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。

וַיְגָרֶשׁ אֶת־הָאָדָם וַיַּשְׁכֵּן מִקֶּדֶם לְגַן־עֵדֶן
אֶת־הַכְּרֻבִים וְאֵת לַהַט הַחֶרֶב הַמִּתְהַפֶּכֶת
לִשְׁמֹר אֶת־דֶּרֶךְ עֵץ הַחַיִּים׃


  • 【新改訳2017】も【聖書協会共同訳】も、いずれも主語を「神」と訳していますが、原文では「彼」、つまり「神である主」のことです。
  • 輪を描いて回る炎の剣」となっていますが、聖書協会共同訳は「きらめく剣の炎」と訳しています。口語訳は「回る炎のつるぎ」と訳しています。神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置いて、人が勝手にいのちの木に至ることができないようにされました。さらに、人はエデンの園を追放されたとありますが、追放されてどこへ行ったかと言えば、「エデンの園の東に」とあり、七十人訳聖書は「エデンの園の前に」住まわせたと訳しています。「東」と「前」もヘブル語では「ケデム」(קֶדֶם)という語彙です。ですからエデンの園の「東」とも「前」とも訳せます。いずれにしても、そこはエデンの園の入口であり、そこにはケルビムが置かれてエデンの園を守っているのです。

【新改訳2017】マタイの福音書 10章34節
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなくをもたらすために来ました。

  • 当時のユダヤ人にとって、メシアは「平和の君」であり、イスラエルに絶対的平和をもたらすと期待していました。ところがイェシュアは「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。」と言われたのです。「平和ではなく剣をもたらすために来ました。」という表現は、一見、平和が否定されているように見えます。しかしこれは逆説的な表現で、後者の「剣」の意味をよく理解させるための強調表現です。「剣」の意味が正しく理解されることで、真の平和が理解されるという意味なのです。
  • 事実、「平和」(「シャーローム」שָׁלוֹם)はイェシュアとは切っても切れません。イェシュアが誕生される前にザカリヤが「暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」(ルカ 1:79)と賛美しました。イェシュアが誕生された時には、御使いたちが「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)と神を賛美しました。また、イェシュア自身も山上の説教の中で「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)とも語っています。この平和はあくまでも天の御国における「平和」のことであり、エデンの園が回復されるメシア王国でもたらされる究極的な祝福の総称です。しかしその平和が実現される前に、「剣」がもたらされなければならないのです。その場合の「剣」とは何でしょうか。イェシュアが地にもたらす(=投げ込む)「剣」とは、「御霊の与える剣である、神のことば」を意味します(エペソ6:17)。新約聖書で「」が神のことばを意味している箇所がいくつかあります。

①【新改訳2017】エペソ人への手紙6章17節
救いのかぶとをかぶり、御霊の、すなわち神のことばを取りなさい。

②【新改訳2017】ヘブル人への手紙4章12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃のよりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

  • イェシュアのもたらす「剣」とは「神のことば」と同義であり、その機能はいかなる剣よりも鋭い神のことばであるとしています。イザヤ書49章2節の「しもべ(メシア)の歌」で、「主は私の⼝を鋭い剣のようにし」とあります。黙示録では栄光のキリストの「⼝から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(1:16)とあります。①②の「剣」のギリシア語は「マカイラ」(μάχαιρα)ですが、黙示録に出てくるイェシュアの「剣」は他に「ロムファイア」(ῥομφαία)(1:16, 2:12,16, 19:15,21)という語彙が使われています。しかしヘブル語の「剣」はいずれも「ヘレヴ」(חֶרֶב)が使われています。この「ヘレヴ」の初出箇所が創世記3章24節なのです。
  • イェシュアが「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われたことを考えるとき、「いのちの木への道を守るために、・・輪を描いて回る炎の剣」と対応させて考えるなら、真理は「炎の剣」に対応します。その「炎の剣」はすべての偽りを見抜いて焼き尽くす炎である神のことばと言えます。
  • やがて「終わりの日」にエデンの園が回復するとき、そこに住むように定められた者たちは、御霊の剣である神のことばによる禊(みそ)ぎを受けなければならない(潜り抜けなければならない)のです。エデンの園は神の祝福の総称である「平和」(「シャーローム」שָׁלוֹם)そのものです。その祝福にあずからせるために、イェシュアは「わたしは剣をもたらすために来た」(マタイ10:34)と言っているのではないでしょうか。究極的な真の平和(シャーローム)がもたらされる前に、神と人との誤ったかかわりが、神のことばである剣によって焼き尽くされ、平和への幻想を断ち切られなければならないのです。そのためにイェシュアが神のことばという剣をもたらす(=投げ込む)ために来たと理解するなら、最も近しい関係にある「家の者たちがその人の敵となる」(36節)ということも理解できるのです。

2018.11.29

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