****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

3章21節


創世記3章21節

【新改訳2017】

神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。

【聖書協会共同訳】

神である主は、人とその妻に皮の衣を作って着せられた。

כא וַיַּעַשׂ יְהוָה אֱלֹהִים לְאָדָם וּלְאִשְׁתֹּו כָּתְנֹות עֹור וַיַּלְבִּשֵׁם׃ פ

ベレーシート

●目が開かれたとき、人が最初に芽生えたのは恥しいと思う心でした。彼らは自分たちの裸を覆うために「いちじくの葉」をつづり合わせて、自分たちの腰の覆いを作りました。それは人が自らの罪や罪悪感を覆うためのあらゆる努力を象徴しています。しかし、それは一時的に役立つかのように見える「いちじくの葉」のようなものです。なぜなら、いちじくの葉は夕方には枯れてしまい、役立たなくなってしまうからです。

●また、アダムの犯した罪によって地は呪われてしまい、刑罰的意味を持つ「いばらとあざみ」が多く生えるようになりました。「いばらとあざみ」に共通するのは「とげ」です。そうした植物から身が守られる必要があったというのは表面的な理解です。アダムがいちじくの葉をつづり合わせて作った手製の衣に代えて、神はアダムとエバのために「皮の衣」(「コトゥノート・オール」כָּתְנוֹת עוֹר)を作り、着せてくださったのは、キリストにある終末的な神の恩寵を示す行為(贖い)なのです。

  • 「皮」の原語は「オール」(עוֹר)ですが、「衣」は「クットーネット(כֻּתֹּנֶת)」です。この衣はやがて大祭司や祭司たちが着る装束、また、ヤコブの最愛の子ヨセフやダビデの娘タマルに着せた長服を意味するようになります。特別に愛された者や神と人との仲介的な務めをゆだねられた者たちが着る装束、長服、これが「クットーネット」です。

1. 「着る」という神の恩寵的啓示

●「着る」という動詞「ラーヴァシュ」(לָבַשׁ)には使役形(ヒフィル形)が使われており、「着せる、まとわせる、覆い隠す」という意味になります。この神の行為は堕落した人間を再び建て直すことを意味しています。特に注目すべきは、皮の衣を作るためには動物を屠って血を流す必要があります。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」と聖書にありますが、いのちの代価である血によって罪が覆われるということが「罪の赦し」なのです。神がアダムとエバに与えた衣は、血を流すことによって作られた「皮の衣」でした。これは、やがてキリストの十字架の贖いの血を信じるすべての者に与えられるキリストの義を表しています。エデンの園でもそうであったように、それは神の一方的なあわれみによるものです。

  • エデンの園で「皮の衣を着せる」という神の恩寵的行為は、新約においては御国のたとえの中に、「最高の衣を着せる」「キリストを着る」「新しい人を着る」という表現で表わされています。

(1) ルカの福音書15章22節(新改訳2017)
「ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい(ένδύω)の命令アオリスト)。手に指輪をはめ、足には履き物をはかせなさい。』 」 

(2) ガラテヤ人への手紙3章26~27節(新改訳2017)
「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着た(ένδύω)のです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。 」

(3) エペソ人への手紙4章22~24節(新改訳2017)
「その(キリストの)教えとは、・・あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造り出された新しい人を身に着る(ἐνδύω)ことでした。」

●特に(1)は、すべてを失って帰郷した「放蕩息子」に対する父の思い、すなわち「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい(ένδύω)」ということばこそ、創世記3章21節のことばの新約版です。自分の子である者に着せる「一番良い衣」とは、御父の最も愛する御子の十字架で流された身代わりの血による「紅の衣」であり、それは同時に「義の衣」「白い衣」「救いの衣」「愛の衣」「あわれみの衣」でもあるのです。

●さらには、捕囚を経験した神の民たちに対する主の「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。」(イザヤ52:1)とのみことば。さらには、イェシュアが弟子たちに約束された「いと高き所から力を着せられる(ένδύω)」という「力の衣」があるのです(ルカ 24:49)。そのためには主にしっかりととどまる必要があります。また、刻一刻と究極的な救いの時は近づいています。眠りから覚めるべき救いの時は近づいています。それゆえ、私たちは「光の武具を身に着けて」歩む必要があります(ローマ13:11~14)。

2. パウロの言う「着る」という概念

●新約の使徒たちの中でも、「着る」(「エンデューオー」ἐνδύω)という語彙を最も使っているのは使徒パウロです。しかもその使い方には微妙な違いがあります。その一つは、洗礼にあずかった者は、キリストを自らその身に来たのです(アオリスト=過去)という「すでに」の恵みです。その恵みを土台として自発的、主体的な命令(促し)がなされます。もうひとつは、「いまだ」の恵みで、それはキリストが再臨される時に着る恵みであり、「朽ちることのない着物を身に着る」ことを意味しています。

(1) 「すでに」の恵みとして (アオリスト・中態)

【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章27節
キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです

【新改訳2017】コロサイ人への手紙3章10節
新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。

(2) それゆえ、「キリストを着なさい」(アオリスト・命令形)

【新改訳2017】ローマ人への手紙13章14節
主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。

【新改訳2017】コロサイ人への手紙3章12節
ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい

【新改訳2017】エペソ人への手紙6章11, 14節
11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け

(3) 「いまだ」の恵み

●ここで扱う恵みは、これからの恵みです。「すでに」の恵みの他に、「いまだ」の恵みがあるのです。使徒パウロはこの恵みにあこがれていました。

【新改訳2017】Iコリント15章53, 54節
53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず 着ることになるからです。(同義的パラレリズム)
54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、 このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に呑み込まれた。」 (同義的パラレリズム)

●IIコリント4 章~5章はそのことが強調されています。パウロは4章18節で「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」と述べた後で、不思議な表現をするのです。

【新改訳2017】IIコリントへの手紙5章1~7節
1 たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない 永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。
2 私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。
3 その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。
4 確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからでは ありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。
5 そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。
6 ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。
7 私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。
8 私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。

●この箇所は、将来に備えられている恵みです。「御国の福音」です。「私たちの住まいである幕屋」とは何でしょう。それは私たちの「からだ」です。その「幕屋が壊れて」とは「肉体の死」を意味しています。たとえ肉体的な死を経験したとしても、「私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まい」があることを私たちは知っているとしています。「知っている」とは、信仰によって確信しているということです。「幕屋」「建物」「住まい」と言葉は異なりますが、それは神と人とがともに住む家のことを言っています。「神の下さる建物」のことを、「人の手によらない、永遠の住まい」、「天から与えられる住まい」と言い換えながら(パウロはあるひとつの事柄を別のことばで言い表すユダヤ的修辞法の達人です)、そこに注意を向けさせています。そしてパウロはそれを「着たい」と望んでいるのです。

●「住まい」を「着る」というような表現は、日本ではありえない表現です。しかし、パウロにしてみれば、ぜんぜんおかしくないのです。なぜなら、「着る」という発想は「覆う」という概念で理解されているからです。創世記2章21節の「皮の衣」がそうでした。それはアダムとその妻のからだをおおうためのものでした。衣服も住まいも「覆う」という発想を持っているからです。それに引き替え、私たちの必要最低限の保障を「衣・食・住」ということばで表わします。これら三つが保障されることで安心だと考えます。ところが、イェシュアが語った話の中には、なぜか「住」という語彙がないのです。

【新改訳2017】マタイの福音書6章25、31節
25ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、 からだは着る物以上のものではありませんか。31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。

●「何を食べようか何を飲もうか」というのは「食」のことです。そして「何を着ようか」というのは「衣」のことです。では、「住」は?? 「衣」と「住」はひとつだということなのでしょうか。パウロは、「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があればそれで満足すべきです。」(Iテモテ6:8)と愛弟子のテモテに語っています。とすれば、イェシュアやパウロは「住」について軽く考えていたのでしょうか。いいえ、むしろ反対です。イェシュアが最後の晩餐の中で何と言われたかを見てみましょう。

【新改訳2017】ヨハネの福音書14章1~3節
1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

●ここでは「住」についてイェシュアがはっきりと語っています。また使徒パウロも、IIコリント5章3~4節で「住」について語っているのです。

3 その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。4 確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからでは ありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。

●パウロのうめきは、私たちのうめきとは異なります。天からの住まいを着たいゆえのうめきなのです。神とともに永遠に住む家(建物)は、人の手によらない住まいのです。その住まいは神の恵みによってすでに保障されていますが、「いまだの恵み」です。それゆえ、パウロははっきりと勧めています。「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。」(コロサイ3:1)。 このパラダイムにシフトする(転換する)ことこそ、「御国を受け継ぐ者たち」、「御国を慕い求める者たち」の霊性と言えるのではないでしょうか。この霊性を、キリストの花嫁である教会が回復しなければならないのではないでしょうか。


2018.11.30(改訂2020.8.13)

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