****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

2章7節A


創世記2章7節A

【新改訳2017】
神である【主】は、その大地のちり(עָפָר)で人を形造り(יָצַר)、その鼻にいのちの息(נִשְׁמַת חַיִּים)を吹き込まれた(נָפַח)。それで人は生きるもの(נֶפֶשׁ חַיָּה)となった。


  • 人間は大地の「ちり」(「アーファール」עָפָר)という物質で造られています。その「ちり」で造られた人間に神である主がいのちの息を吹きかけられたことで、人間は生きるものとなったのです。同じ「ちり」でも、詩篇90篇3節にある「あなたは人をちりに帰らせて」の「ちり」とは語彙が異なります。詩篇90篇の「ちり」は「ダッカー」(דַּכָּא)で、「人を神に立ち返らせるために、神の前に砕かれる」という積極的・恩寵的な意味合いがあります。同じ「ちり」でも原語を見ると異なっています。人間は土の「ちり」(עָפָר)で造られましたが、罪を犯して「いのちの息」を失ったために、死ぬと「土に帰る」ことが定められてしまいました。

【新改訳2017】創世記 3章19 節
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちり(עָפָר)だから、土のちり(עָפָר)に帰るのだ。」

  • しかし人が再びいのちの息を与えられて生きるものとされるためには、神の前に砕かれたちり(דַּכָּא)とならなければならないのです。
  • 創世記1章と2章で異なる点は、1章では人を「ご自身のかたち」(「ベツァルモー・ベツェルム」בְּצַלְמוֹ בְּצֶלֶם)として創造し、(「ザーハール」זָכָר)と(「ネケーヴァー」נְקֵבָה)に彼らを創造したのに対し、2章では人の鼻に「いのちの息を吹き込むこと」で生きるものとさせたことです。ちなみに「男」を意味する「ザーハール」の動詞「ザーハル」(זָכַר)は「心に留める、記憶する」という意味ですが、これは神の関心と興味を含む、特別な価値ある存在と考えられます。
  • いのちの息」(「ニシュマット・ハッイーム」נִשְׁמַת חַיִּים)。聖書でここにしか出てこない語彙です。「」のことを「ネシャーマー」(נְשָׁמָה)と言い、その連語形が「ニシュマット」(נִשְׁמַת)となります。「ニシュマット」が単数形であるのに対し、「いのち」が複数形となっているのは、「エローヒーム」と同じように、畏敬を表わすものと言えます。
  • ヘブル語で神の「息」のことを一般的に「ルーアッハ」(רוּחַ)と言いますが、以下の箇所を見るなら、「ネシャーマー」(נְשָׁמָה)と「ルーアッハ」(רוּחַ)とは同義だと理解できます。新約聖書に「いのちの息」という語彙が1回使われています(黙示ロク11:11)。これは殉教した「二人の証人」が「いのちの息」を与えられて復活します。ここでの「いのちの息」が「ルーアッハ・ハッイーム」(רוּחַ הַיִּים)と訳されています。ちなみに、それぞれの旧約での使用頻度は、「ルーアッハ」が389回であるのに対し、「ネシャマー」はわずか24回です。

ヨブ記4章9 節「彼らは神の息吹(נְשַׁמָה)によって滅び、御怒りの(רוּחַ)によって消え失せる。」(新改訳2017)

同 27章3 節「私の(נְשַׁמָה)が私のうちにあり、神の(רוּחַ)が私の鼻にあるかぎり、・・」(同)

同 32章8節「確かに、人の中には(רוּחַ)があり、全能者の(נְשַׁמָה)が人に悟りを与える。」(同)

●および同33:4、34:14。イザヤ42:5、57:16を参照のこと。これらの例から、「ネシャマー」と「ルーアッハ」が同義的パラレリズムであることが分かります。

  • 生きるもの」=「生ける魂」(「ネフェシュ・ハッヤー」נֶפֶשׁ חַיָּה)。この表現は人間だけでなく、創世記1章30節にあるように、生きるいのちのあるすべてのものに対しても使われています。2章における人間の創造の特徴は、神が人の「鼻(複数)にいのちの息を吹き入れた」ことにあります。そのことが他の被造物との大きな違いです。七十人訳は鼻ではなく「その顔にいのちの息を吹きかけた」と訳しています。鼻であっても顔であっても、いずれにしても神と人が顔を向かい合わせていることには変わりありません。これは2章後半で、人と、それに「向かい合う者としての助け手」(「エーゼル・ケネグドー」עֵזֶר כְּנֶגְדּוֹ)とのかかわりの型となっています。
  • 神である主が人の鼻にいのちの息を「吹き込む」ことで人は生きるものとなったのですが、この「吹き込む」の「ナーファハ」(נָפַח)が、同じくいのちと関係して用いられている箇所にエゼキエル書 37章9節があります。それは終わりの日、全イスラエルが回復するためになされる神の奥義であり、驚くべき神の恩寵的行為です。

【新改訳2017】エゼキエル書37章9節
そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『【神】である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」


2018.11.29

a:1347 t:1 y:2

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional