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2章21節「深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。」


創世記2章21節

【新改訳2017】
神である【主】は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。
主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。

【聖書協会共同訳】
そこで、神である主は人を深い眠りに落とされた。
人が眠り込むと、そのあばら骨の一つを取り、そこを肉で閉ざされた。

כא וַיַּפֵּל יְהוָה אֱלֹהִים ׀ תַּרְדֵּמָה עַל־הָאָדָם וַיִּישָׁן
וַיִּקַּח אַחַת מִצַּלְעֹתָיו וַיִּסְגֹּר בָּשָׂר תַּחְתֶּנָּה׃

べレーシート

●21節で初めて使われている語彙は、以下の7つです。

①「深い眠り」(「タルデーマー」תַּרְדֵּמָה)<「熟睡する」(רָדַם)
②「下された」(「ナーファル」נָפַל)、「眠りに落とし入れる」
③「眠った」(「ヤーシャン」יָשַׁן)、「眠りにつく」
④「あばら骨」(「ツェーラー」(צֵלָע)、「肋骨」
⑤「そのところを(その代わりに)」(「タフテンナー」תַּחְתֶּנָּה) √תַּחַת
⑥「肉」(「バーサール」בָּשָׂר)、
⑦「ふさぐ」(「サーガル」סָגַר)、「閉じる、封じる、戸を閉める」

●⑤の「タフテンナー」(תַּחְתֶּנָּה)を、1章7, 9節では「~の下の」という意味で「ミッタハット」(מִתַּחַת)が使われています。「タハット」(תַּחַת)は「下、代わりに」の意。「タフテンナー」(תַּחְתֶּנָּה)を口語訳、および関根訳は「その場所を」と訳しています。「たちどころに」と訳しているのもあるようです。


1. なぜ神である主は人に深い眠りを下されたのか

●「深い眠り」と訳されたへブル語は「タルデーマー」(תַּרְדֵּמָה)です。旧約では7回(創世記2:21、同15:12、Ⅰサムエル26:12、イザヤ29:10、箴言19:15、ヨブ4:13, 33:15)使われています。怠惰は人を深い眠りを陥らせる(箴言19:15)という意味でも使われますが、他は、神のわざと関連があります。

●創世記2章21節や15章12節では、アダムやアブラハムを深い眠りに陥らせて、その間に神が不思議なみわざをなさるという意味で使われています。アダムの場合はかけがえのない助け手である女を造るときに、アブラハムの場合は、神の方が裂かれた動物の間を通り過ぎることによって一方的に契約を成立させています。Ⅰサムエル記26章12節では、神がサウルとその精鋭たちに深い眠りを下されたので、ダビデはサウルに対する自分の潔白を証明することができました。その結果、サウルは二度とダビデを追おうとはしなくなったのです(27:4)。

●イザヤ書29章10節では、神のことばに対して心を閉ざし、無視し、拒み続けた結果として「深い眠りの霊」が注がれて神のことばが封じられて、真の救いを見失うという恐ろしい結果を招くとされています。このように、神の不思議なみわざは「深い眠り」と密接な関係があるようです。

●神が人の上に「深い眠り」を下されたのは、人の意識が完全に消滅している間に、神のみこころがなされていることを示しています。そのようにして、人は「ふさわしい助け手」と出会うのです。「深い眠り」とはいわば仮死状態であり、いわば象徴的な「死」をも意味します。

2. 彼の「あばら骨」

●「あばら骨」と訳された「ツェーラー」(צֵלָע)は、他に「側、板、とびら、脇間、梁」とも訳されます。言わば、この語彙は幕屋・神殿用語、もしくは建築用語です。しかもこの語は40回使われているにもかかわらず、「あばら骨」と訳された箇所は創世記2章21節と22節の二箇所だけです。他は、幕屋について書かれている出エジプト記25~38章では板によって構成される幕屋(至聖所と聖所)の東側を除く三つの「側」を意味します。ソロモンの神殿のⅠ列王記6章、そして千年王国における新しい神殿の幻が書かれているエゼキエル書41章では「脇間」と訳されています。いずれにしても、幕屋、および神殿を建て上げるためになくてはならないもの(幕屋や神殿が形となるための枠)ですか、その一部がなくなったとしても全体が崩れるということはありません。

●からだの「あばら骨」(=「肋骨」)も同様です。神はその(あばら骨=肋骨)の一つを人から抜き取って、「ふさわしい助け手」を「造り上げた」のです。この「造り上げた」については次節で取り上げます。

●「あばら骨」について、森山諭氏は「創世記研究」においてマラキ書2章15節を引用して次のように述べています。15節は難解な節とされ、多くの訳と多くの解釈がなされているようですが、そこには「あばら骨」ということばはありません。聖書は【新改訳2017】を引用しています。

【新改訳2017】マラキ書2章15節
神は人を一体に造られたのではないか。そこには、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、自分の霊に注意せよ。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。
※フラスンシスコ訳は「霊の残り」の部分を「命の息と肉」としています。

創世記2章21, 22節のあばら骨を、マラキ書は「神の霊」と断じている。神はアダムに霊(命の息)を吹き込んだとき、なお、霊の残りがあった。ところが、アダムの妻を造るにあたって、その霊の残りを用いることをせず、いったんアダムに吹き入れた霊の半分を、あばら骨の中から抜き取り、それを女に吹き込んだ。だから、アダムは自分から他に注がれた霊を慕い、女の中にある霊も、元のアダムを慕い、ふたりが結婚して一体化した時、真の満足感が与えられる。それは、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」(【新改訳】ヤコブの手紙4章5節)と同時に、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(【新改訳2017】詩篇42篇1節)とある、神と人間との相対的慕情の関係を示している。その究極的能動が、私たちの主イエスの「しかり、わたしはすぐに来る」(黙示録22:20)でありその主イエスに対する愛の応答が、「アーメン、主イエスよ、来てください。」である。


3. 「肉」

●ここで初めて「肉」(「バーサール」בָּשָׂר)ということばが登場します。創世記1~3章の中で、2章21節、22節、23節、24節にのみ(5回)登場します。幕屋が材と幕で構成されているように、人間の身体(からだ)も「骨」と「肉」から構成されていることが、ここではじめて明らかにされます。幕屋と人間のからだとは同義なのです。特に、24節では(男と女が)「一体」(「バーサール エハッド」בָשָׂר אֶחָד)となるために、「バーサール」が使われています。この「一体(=ひとつの肉)」こそ福音の本質なのですが、そのことは24節で取り上げます。

2020.5.5
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