****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

2章18節「人がひとりでいるのは良くない。」


創世記2章18節

【新改訳2017】
また、神である【主】は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。
わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」

【聖書協会共同訳】
また、神である主は言われた。「人が独りでいるのは良くない。
彼にふさわしい助け手を造ろう。」

יח וַיֹּאמֶר יְהוָה אֱלֹהִים לֹא־טֹוב הֱיֹות הָאָדָם לְבַדֹּו
אֶעֱשֶׂהּ־לֹּו עֵזֶר כְּנֶגְדֹּו׃

べレーシート

●18節における新しい語彙としては、「彼ひとりで」(「レヴァッドー」לְבַדֹּו)と、「彼にふさわしい助け手」(「エーゼル・ケネグドー」עֵזֶר כְּנֶגֶדּוֹ)の二つです。

1. 「人がひとりでいるのは良くない」

●「人がひとりでいるのは良くない」は「ロー・トーヴ ヘヨート ハーアーダーム レヴァッドー」(לֹא־טֹוב הֱיֹות הָאָדָם לְבַדֹּו)です。特に注目すべき語彙は「彼ひとりで」を意味する「レヴァッドー」(לְבַדּוֹ)です。これは副詞に3人称単数の語尾が付いたものです。この副詞の語源は「バーダド」(בָּדַד)で「分離する、孤立する」を意味します。またこれが名詞になると「バーダード」(בָּדָד)で「分離、孤立」、あるいは「バド」(בַּד)で「枝、棒、肢体」といった意味があります。特に、「棒」は契約の箱などを担ぐためのものです(出25:13, 14, 28,、27:6, 7, 30ほか)。

契約の箱.GIF

【新改訳2017】出エジプト記25章13~15節
13 また、アカシヤ材でを作り、それに金をかぶせる。
14 その箱をで担ぐために、その棒を箱の両側の環に通す。
15 そのは箱の環に差し込んだままにする。外してはならない。

●何故、神である主は「人がひとりでいるのは良くない」と言われたのでしょうか。エデンの園は天にあるものの写しであり、天におられる神は永遠に交わりの存在です。御父と御子のパートナーシップは永遠にゆるぎないものです。「棒は箱の環に差し込んだままにする。外してはならない」とあるように、主の臨在を象徴する「契約の箱」だけが、それを担ぐ二本の棒を、常に環に差し込んだままにしておかなければなりませんでした。ちなみに、契約の箱と棒をつなぐ「環」(「タッバアット」טַבַּעַת)は「指輪」を意味します。それは、アダムが「ひとりでいるの良くない」という神のみこころと関係があるかもしれません。アダムに「ふさわしい助け手」が必要とされたのは、神ご自身(創世記1:26の「われわれ」)のうちに存在するゆるがないかかわり性(パートナーシップ)を映し出すものと考えられます。

●へブル語訳のヨハネの福音書の15章にある「ぶどうの木とその枝」の「枝」という語彙には、契約を担ぐ棒(「バド」)の場合のようにアカシア材とは異なるつる性の枝(「サーリーグ」שָׂרִיג)が使われています。語彙は異なりますが、思想的には「一つでは成り立たない」必要不可欠な関係を表わしています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書15章4~5節
4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

●「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」という部分こそ、「人がひとりでいるのは良くない」に相当すると考えられます。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」といってイェシュアが言っていますから、「ぶどうの木とその枝」は「キリストと教会」を表わすたとえです。

【新改訳2017】申命記8章3節
それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。

●上記は主がイスラエルの民にマナを食べさせてくださったその理由が後半に記されています。その理由とは「人はパンだけで生きるのではなく、人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるため」でした。パン、「(それ)だけで」が「レヴァッドー」(לְבַדּוֹ)、創世記2章18節の「人がひとりで」の「ひとりで」(לְבַדּוֹ)と同じ表現になっています。

●また、16~17節との関連性についてですが、「人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きる」という表現の太字の部分は、創世記2章16節にある「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい」という表現と似ています。つまり、神のことばの一部分ではなく、神のことばのすべて(全体)によって生きるのだということです。ここに、16~17節にある「ミンメヌー」(מִמֶּנּוּ)という語彙が、18節の「レヴァッドー」(לְבַדּוֹ)と密接なつながりをもっていることが分かります。訳語で読むと、そのことがなかなか見分けにくいのです。


2. 「彼にふさわしい助け手」とは

●「彼にふさわしい助け手」のことを「エーゼル・ケネグドー」(עֵזֶר כְּנֶגְדּוֹ)と言います。「エーゼル」とは「助け手、助ける者」(男性形)を意味します。「ケネグドー」(כְּנֶגְדּוֹ)の「ネゲド」(נֶגֶד)は「向かい合う」ことを意味し、人称語尾の(וֹ)は「彼に」となり、前置詞の「ケ」(כְּ)は「~のような、~としての」の意で、「彼に向かい合う助け手」となります。「助け手」とは単なるヘルパー、補助者という意味ではありません。むしろ「助け手」がなければ欠けを生じてしまうほどに、お互いがお互いを必要としている、いわば相補的な関係をもった存在なのです。

●「向かい合う」を意味する「ネゲド」(נֶגֶד)の語根は「ナーガド」(נָגַד)です。これは「告げる、示す」という意味です。つまり、アダムの前にいて、「向かい合って告げ、知らせる」という意味です。このような存在が不可欠であることを語っていることばが、「人はひとりでいることは良くない」ということです。

●イェシュアはヨハネの福音書14章16節と26節で、「もう一人の助け主」「聖霊」という表現を使っています。この「もう一人の助け主」がイェシュアの代わりに来なければ救いは完成されないのです。この「もう一人の助け主」とは「聖霊」のことです。聖霊はイェシュアにとってまさに「向き合う助け手」でした。

●また、18節の「造ろう」と訳された動詞は「アーサー」(עָשָׂה)ですが、22節の「神である【主】は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ」の「造り上げ」は、家を「建て上げる」という意味の「バーナー」(בָּנָה)が使われています。そしてこの語彙(בָּנָה)の中に、実は神の御子を意味する「ベーン」(בֵּן)が隠されています。女が造られたのは、聖霊によってこの御子(最後のアダム)を生むためなのです

【新改訳2017】ルカの福音書1章30~35節
30 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。

●また、女がアダムのふさわしい助け手として造られたことは、女は教会を意味するキリストの花嫁であり、その花嫁を建て上げるのは花婿なるキリストであるというメッセージが隠されています。つまり、キリストの花嫁である教会は、花婿であるキリストの「ふさわしい助け手として」建て上げられるべき存在なのです。それは天と地の基が置かれる前から定められていたと使徒パウロは語っています(エペソ1:4)。「人がひとりでいるのは良くない」というのは、それがキリストと教会のかかわりを啓示する奥義だからです。御父のみこころは、御子に妻を与えることでもあったのです。

3. 「人がひとりでいるのは良くない」の秘儀

(1) イザヤ章34章16節

【新改訳2017】イザヤ書 34章16節
【主】の書物を調べて読め。これらのもののうち、どれも失われていない。それぞれ自分の伴侶を欠くものはない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊がこれらを集めたからである。

●これは、神の約束と成就の関係が、良き伴侶のように一組の関係としてたとえられている箇所です。主が語られる(男性形)とそれを集める主の御霊(女性形)も一対です。そのようにして聖書全体を調べて(尋ねて求めて)読みなさいと言っているのです。なぜなら、神の約束はどれも失われるとがない(聖書協会共同訳「これらのうち、一つも欠けるものはない」)、つまり必ず成就するからです。ここにも、「人がひとりでいるのは良くない」という神の意図が隠されています。

●「主の書物を調べて読む」にある「調べて」は「尋ね求める」を意味する「ダーラシュ」(דָּרַשׁ)が使われ、「読む」は「呼ぶ、名づける」を意味する「カーラー」(קָרָא)が使われています。しかし、この「カーラー」(קָרָא)には「出会う、見つける、向かい合う」という意味もあるのです。「彼にふさわしい助け手」のことを「エーゼル・ケネグドー」(עֵזֶר כְּנֶגְדּוֹ)で、副詞の「ネゲド」(נֶגֶד)が「向かい合う」ことを意味するとすれば、そのような存在に出会う「カーラー」(קָרָא)は同義語と言えます。

(2) 詩篇127篇3~4節

●詩篇127篇3~4節では「矢筒と矢」というたとえを通して、息子(矢)は父(矢筒)の誉れであることが語られています。そこにはゆるぎない「パートナーシップ」が見られるのです。

●使徒パウロはコリントの教会の人々にこう言いました。「私たちは神の協力者です」(1コリント3:9)と。「協力者」訳されたギリシヤ語は「スネルゴス」(συνεργός)で、「共に」(συν)と「働く」(έργω)の合成語です。「協働者、同労者、助け手」とも訳されます。「スネルゴス」(συνεργός)はパウロの特愛用語です。共にパートナーシップを築いているかかわり、これが詩篇127篇を貫いている思想と言えます。

●神の働きの多くはパートナーシップを通してなされています。特に神の救いのご計画においてそのことが言えます。御父と御子とのゆるぎない信頼としてのパートナーシップ、アブラハムとイサクとのパートナーシップ(特に創世記22:6)、ダビデとソロモンのパートナーシップ(特に1歴代誌28:5~21)、パウロとその同労者とのパートナーシップ・・などです。こうしたパートナーの存在は神の賜物なのです。

2020.4.28
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